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留学先で新薬を研究していただけなのに不貞扱いで婚約破棄されました――その薬で儲かる未来を捨てたのはあなたです

作者: 浅葱きしろ
掲載日:2026/07/09

選んでいただきありがとうございます。

ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。

色とりどりのドレスが波のように揺れ、着飾った貴族たちの他愛のないおしゃべりがさえずりのように響く夜会。そのきらきらとした喧騒から取り残されたかのように、オリヴィアは壁際で静かにワイングラスを傾けていた。


 壁際に飾られた大ぶりの観葉植物――高価な『銀葉樹』の陰で、オリヴィアは内心のため息を淑女の仮面の裏に隠していた。彼女の視線は、銀色に輝く美しい葉の表面ではなく、その葉から抽出される防腐剤の化学式へと向けられている。


 「はぁ……早く研究所に戻りたいわ」


 オリヴィアは穏やかな微笑みを保ったまま小さく呟き、手にしたグラスから白ワインを一口含んだ。ドレスの堅苦しさと、周囲の社交の喧騒が、本読みと薬の植物実験に没頭してきた彼女の体には毒でしかなかった。


 彼女にとって留学とは、未知の薬草が眠る広大な温室と、誰にも邪魔されない書庫を意味していた。そこでの研究が楽しすぎて、実家から定期的に届く手紙すら、開封して内容を確認した後はすぐに研究ノートの裏に重ねて放置していた。


 その結果、実家が勝手に決めていたらしい婚約者の存在も、その顔も名前も、留学期間の月日と共にオリヴィアの脳内からきれいに洗い流されていた。


 だが、そんな徹底した無関心の中でも、留学先で共同研究を重ねたラインハルトだけは例外だった。膨大な知識量と、自分と対等に議論を交わせる彼の名と声だけは、研究論文の重要項目のように、彼女の記憶に鮮明に残っている。


 そんなオリヴィアの静かな時間に、土足で踏み込んでくる者が現れたのは、ワインを飲み終えようとした瞬間だった。


 「おい、オリヴィア! よくもそんな何食わぬ顔で戻ってこられたな!」


 怒気に満ちた大声が夜会会場に響き渡る。


 オリヴィアは内心の面倒くささを淑女の仮面の裏に隠し、穏やかな微笑みを浮かべて目を向けた。そこには派手に着飾った若い男が、一人の小柄な少女の手を引いて立っていた。男の顔はひどく傲慢に歪んでおり、引かれている少女――クロエ子爵令嬢は、いかにも可憐で庇護欲をそそるような怯えた表情を作っている。


 周囲の貴族たちが興味深げに円を描くように二人を囲み、囁き合いを始めた。


 男――バルドゥール子爵令息は、クロエの肩を抱き寄せ、オリヴィアを指さして勝ち誇ったように叫ぶ。


 「お前が留学先からろくに手紙もよこさず、連絡を怠っていたのは、向こうで男と不貞を働いていたに違いない! 調べはついているぞ! 私にふさわしいのは、お前のような不実で地味な女ではなく、社交界の華であり、実家の新規鉱山事業も絶好調なこの健気で優秀なクロエだ! 今日、この場でお前との婚約を破棄する!」


 その唐突な婚約破棄宣言に、会場のあちこちから、オリヴィアに対する侮蔑や好奇の視線が突き刺さる。


 しかし、指をさされた張本人であるオリヴィアは、ただグラスを持たない手を胸元で軽く重ね、首を傾げていた。


 確かに、目の前の男は自分に対して激しい怒りを滾らせている。だが、彼女の記憶の引き出しをどれだけ探っても、この男の容姿や声に一致するデータが全く見当たらないのだ。


 オリヴィアはゆっくりとグラスを給仕の盆に戻し、淑女としての礼儀正しい姿勢を保ったまま、純粋な疑問として口を開いた。


 「……あの、大変失礼ながら、どちら様でいらっしゃいますか?」


 夜会会場が、水を打ったように静まり返った。


 バルドゥールの顔が、怒りと戸惑いで急速に赤黒く染まっていく。


 「な、なんだと……!? この私を、元婚約者のバルドゥール・ザイフリート子爵令息を忘れたと言うのか! そんな見え透いた嘘で、自身の不貞をごまかせると思うな!」


 「いえ、嘘ではなく……」


 オリヴィアは困ったように細い眉を下げた。


 「私、興味のない方の顔と名前は記憶に残らない性質なのです。そういえば実家から『婚約が決まった』『帰国後に顔合わせをする』といった手紙が届いていた気はしますが、お相手の殿方の名前も顔も、今はもう全く思い出せません。ですから、あなた様のことも本当に存じ上げないのです」


 元婚約者を「興味のない方」と言い切り、存在そのものを記憶から完全に消去していたオリヴィアの物言いに、野次馬の貴族たちから「プッ」と吹き出すような笑い声が漏れた。


 「この、無礼な女め……!」


 バルドゥールが今にもオリヴィアに詰め寄らんとした、その時だった。


 「我が国の王立アカデミーから、新薬開発の特別功労賞を授与された天才研究者に対し、不貞などという下らない言いがかりをでっち上げるとは。子爵家は自ら幸運をドブに捨てたな」


 静かだが、ひどく威圧感のある声が割って入った。


 貴族たちが慌てて道を開ける。現れたのは、黒髪に冷徹な切れ長の瞳を持つ美しい青年――ラインハルト公爵令息だった。


 「ラインハルト公爵令息……!」


 バルドゥールが息を呑む。


 ラインハルトはバルドゥールたちを一瞥することもなく、オリヴィアの隣に立つと、その華奢な肩を優しく抱き寄せた。


 「待たせたね、オリヴィア。アカデミーの院長との挨拶が長引いた。……そこの子爵令息が、君を不要だと言ってくれたおかげで、ようやく私を君の婚約者として公表できる。感謝するよ、バルドゥール殿」


 ラインハルトが冷笑を浮かべると、バルドゥールとクロエは、その圧倒的な身分の差と威圧感に気圧され、がたがたと震え出した。


 周囲の貴族たちも「あの地味な令嬢が特別功労賞の天才?」「公爵家が彼女を娶るのか」と、騒然となり始める。バルドゥールは、自分がどれほど大きな魚を逃したのかを理解し、顔面を蒼白にした。


 それから数ヶ月が経った。


 オリヴィアが留学先から持ち帰った新薬の論文と、公爵家の援助によって開発された特効薬は、瞬く間に国中に普及し、莫大な富を公爵家とオリヴィアの実家にもたらした。


 一方で、オリヴィアの価値に気づかず彼女を侮辱して捨て、公爵家を怒らせたザイフリート子爵家は、周囲の貴族たちから取引を次々と打ち切られ、急速に零落していった。


 バルドゥールが借金塗れになり、見る影もなく落ちぶれると、寄り添っていたはずのクロエ子爵令嬢は、彼をあっさり見捨てて、とっとと別の裕福な高齢貴族の元へ逃げていった。


 ある晴れた午後、公爵邸の美しい庭園。


 オリヴィアはラインハルトが用意してくれた特製のハーブティーを飲みながら、ハーブの品種改良に関する本を読んでいた。ラインハルトは彼女の少し離れた場所で、優しく微笑みながらその姿を見つめている。


 その穏やかな静寂を破るように、庭の茂みから、ボロボロの服を着て薄汚れた男が這い出てきた。没落したザイフリート家を救うべく、かつて出入りしていた商人のツテを頼って使用人用の裏口から必死に忍び込んだのだろう。


 「オリヴィア……! オリヴィア、私だ! 頼む、助けてくれ!」


 男はバルドゥールだった。やつれ果て、かつての傲慢な面影はどこにもない。彼はオリヴィアのテーブルにすがりつき、泣きそうになりながら叫ぶ。


 「あれはクロエにそそのかされただけなんだ! 私は今でも君を愛している! お願いだ、以前のように私と婚約し直して、ザイフリート家を救ってくれ!」


 オリヴィアは本から目を上げ、眉をひそめてその男を見つめた。


 「……あの、大変失礼ながら、本当にどちら様でしょうか?」


 バルドゥールは絶望に目を見開いた。


 「ば、バルドゥールだ! お前の元婚約者だ! あの日、パーティーで婚約を破棄しただろう!」


 「ああ……そんなこともあったような……? しかしながらあの日、確か、大勢の前で婚約解消のようなものを突きつけられた気がするのですが……」


 オリヴィアは首を傾げた。


 「私、研究以外の不要な情報はすぐに記憶から消去する性質ですので、どなたがどなただったか、今はもう全く分かりません。私の頭の中の図鑑に、あなた様のような植物も薬草も載っておりませんわ」


 「そんな……そんなはずはない! 嘘だ!」


 バルドゥールが発狂したように叫んだ瞬間、背後の茂みから、騒ぎを聞きつけた公爵邸の警備兵たちが音もなく駆け寄ってきた。


 彼らは無駄のない素早い動作でバルドゥールの両腕を掴み、彼が抗議の声を上げる間もなく、その場から迅速に連れ去っていった。


 再び、庭園に静寂が戻る。


 ラインハルトはオリヴィアの隣に歩み寄り、彼女の華奢な体を後ろから包み込むように抱きしめた。


 「……オリヴィア」


 「ラインハルト様?」


 ラインハルトは彼女の耳元に唇を寄せ、少し不安げに、しかし甘く囁いた。


 「俺の名前は……もう、完璧に覚えてくれたかい?」


 オリヴィアは本を閉じて、彼の首の後ろに手を回して、悪戯っぽく微笑んだ。


 「当然ですわ、ラインハルト様。あなたの名前だけは、私の心臓の特等席に刻まれていますから」


 「そうか。なら、もう離さないよ」


 二人の甘い声と、ハーブの香りが、穏やかな午後の光の中に優しく溶けていった。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたなら嬉しいです。


もしよろしければ、ブックマークや☆評価(☆5だと更に更に喜びます。もちろん率直な☆評価お待ちしております)、感想などで応援していただけると、今後の執筆の励みになります。


ここまで読んでくださったことに、改めて感謝を。


※感想ありがとうございます!

すべて読ませていただいています。


返信は基本的に「ありがとうございます」で統一しています。

また、返信漏れやお時間をいただく場合もありますが、創作との両立のためご理解いただけますと幸いです。


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― 新着の感想 ―
「私、本と新薬以外の不要な情報は」 これ『新薬』の『新』はない方が良いのでは? 勉強の過程で昔ながらの薬だって興味の対象では? 『新』があると新しいものだけに興味がある=すぐ興味が無くなる。 とも取れ…
>「待たせたね、オリヴィア。アカデミーの院長との挨拶が長引いた。……そこの子爵令息が、君を不要だと言ってくれたおかげで、ようやく私を君の婚約者として公表できる。感謝するよ、バルドゥール殿」 ようやく…
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