悲劇の夫人マーゴット
ああ、可哀そうなマーゴット。
艱難辛苦を乗り越えても
その行く末には悲しみの海が広がる。
波にゆられて千々にちぎれても
その苦しみは終わる事はない。
ああ、可哀そうなマーゴット。
悲しみの淵に咲く花。
フェルツェンドの森と呼ばれる緑豊かな庭をもつ侯爵の別邸には秘密の抜け穴がある。その噂を流したのが最初誰だったかは知らないが、私は紳士倶楽部にひそやかに流れるその噂通りに屋敷の塀を南から巡り、二つ目の角から二十八歩目の柵に手をかけ「ずれる」のを確認すると身を押し込んだ。
本来ならばこんなコソ泥のような真似をするのは伯爵家の人間としてやってはいけない事だという理性はある。
だが理性だけではやっていられない――いや、その言い方はあまりスマートではないので言い直すと『暗黙の了解』というものを心にその抜け穴から人を導くように続く白い花が咲く小道を歩いていけば胸元のポケットをぎゅっと握りしめる。
『我が儚き夢見草』と詩人にも詠われたバロックパールを重ねて作られたブローチは私の家に伝わる宝石だ。普段は大事にしまわれたそれをよすがに歩く足はどこかふわふわとした気分になっている。
この館の「女主人」であるマーゴットは不幸な女である。
元はイディガル伯爵、ローエンデリングの次女であった。
普段は辺境ともいえる山間の土地を領地にもつローエンデリングであったがその勇猛果敢さは知れ渡っており、騎士としてともに鍛えた配下をつれて戦場にたてばすさまじい戦果を挙げると言われていた。
そんな彼が死んだのはマーゴットがまだ二歳の頃。
女では爵位を継げぬと夫の親族に追い出され、男爵家である実家にも居場所がなかったマーゴットの母はその身一つでどうにか身を立てる事を望んで女学校の寮監になり、その結果『当代一の淑女の見本』と呼ばれる女傑になった。
誰もが彼女を慕い、彼女の気丈さに憧れ、その伸びた背筋を尊敬した。
その長女は母の才気と知性を感じる美貌をしっかりと継いで学業に勤しみ、今では王家に属する女性たちにも信頼される薬師となり働いていた。
――マーゴットは?
マーゴットは普通の娘だった。どちらかというと父に似ているといわれている。
普通に努力もできて、普通に明るく、普通に人とも接することができた。
普通に年長者に可愛がられる愛嬌もあり、普通の娘らしい教養もあった。
貴族ならば誰でも通う国立の学園で貴族ならばと言われる程度の成績をおさめて貴族らしく卒業後は行儀見習いの侍女の仕事を斡旋されてそこで騎士として働いていた最初の夫と結婚し退職をした。
だが、その男は男社会の中で生きる分には問題がない程度に上面はよかったものの、その根は大層なろくでなしであった。
酒は飲む、女は囲う、暴力は振るう、賭博はする。
領地で彼の代わりに働く弟たちどころかその父親、さらには子沢山を理由に養子に出した弟さえ判を押したように同じ顔をし、同じ問題を抱えるろくでなしであったのだから血というものは酷く濃いらしい。
勿論マーゴットの母の人徳があるからこそ、周囲の心ある人はそれを訴えマーゴットを思い留めさせようとしていたが、マーゴットはそれでも結婚すればかわると最初の夫を信じて嫁いだ。
最初は優しかったという夫にもマーゴットはまめまめしく働いて、普通の貴族の妻として周りの評価を得てみせた。
その結果、髑髏のようにやせ衰えた姿で助け出されるようになったのだが。
最初の夫はガマガエルのようなでっぷりと太ってはいるがやたらと甘い声をふりまく人妻に入れあげて、マーゴットの母から言葉巧みに金を巻き上げてから手に手をとって消息を絶った。
その騒動でマーゴットの母が信頼ある者たちとタウンハウスへ駆けつければマーゴットは手首の骨に皮が張り付くような姿で執務室にいた。
蛮族のような義父と金にだらしない弟達は領主の仕事は全く興味がなかったのか積み上げられた書類の中で見つかった彼女の様子に一同が悲鳴をあげ連れ出した。
その時の様子は使用人から洩れ、平民に広がり、そして最後は貴族の耳に入り、可哀そうな結婚をした娘として社交界を賑わせた。
そんな一躍時の人となった彼女の元にはマーゴットを知る母の教え子や侍女として働いていた時の同僚が見舞いに訪れた。
マーゴットの保護されている病室には絶えず花が満ち優しい香りと色は彼女を癒した。
食事もとれるようになったのか少しずつ肉の付いてきたマーゴットが社交界に出て微笑みを取り戻し始めた矢先にでたのが、伯爵との再婚話だ。
マーゴットの最初の夫は駆け落ちをした女をどこかの街において戻ってきた。
その厚顔無恥さは貴族として眉を顰められるものだったが、人に眉を顰められても気にしない人間は往々にしているものだ。
マーゴットがようやく出席できた夜会に現れた最初の夫は厚顔無恥にもマーゴットに縋った。
今までも手紙でさんざん金策を願ったのをマーゴットの母に握りつぶされて、もはや没落秒読みといって違わぬ実家に頼れぬからと本人に直接、しかも人前で情に訴える手段にでたわけだ。
己の不遇を叫びちらかし、猫なで声でマーゴットへの愛情をちらつかせ、それでも怯えるばかりで彼を受け入れないついにはマーゴットを癇癪を起して殴りつけようとした。
それを助けたのが後に次の夫となる侯爵であった。
男盛りの三十路を迎えようとする彼は辺境の野卑な空気をまとう男爵の一打など簡単に受け止めてそのまま腕を捻り上げ彼の上役でもあった騎士にひきわたしたらしい。
それはまるで物語のようだったとその場をみた貴婦人たちは語る。
侯爵はダークブラウンの髪をした知的な青年である。だが数年前に奥方を産褥熱で亡くしてから他の女性を全く近づける事なく、その愛に一途な夫として生きる事を選んだので有名だった。
そんな侯爵が起こしたか弱い女の救出劇はあまりにもロマンスとして上出来すぎていた。
そのできすぎたロマンスに感動した王妃がマーゴットの元夫が諦めていない様子と母を亡くした件の侯爵の娘のためにもとマーゴットを彼の後妻にと勧めたのだ。
夜の庭なのにやたらと目立つ白い花のよすがを頼りにしばし歩けば森の道は終わりを迎え、レンガ造りの屋敷が見えてくる。
ここを抜け、壁伝いに東へと歩いた先にある百合の花がかかれた窓がある小さな祈りの部屋でマーゴットは夜を過ごしているらしい。
その美しい景色の中で愛を囁き彼女の心を慰める。
それは今まで国中の男が目指してもなしえなかった事だ。
悲しみの海に横たわる白い花のような悲劇の夫人、マーゴット。
夫を今でも愛し、その夫以外にかたくなに心を開かぬ貞淑の化身。
彼女の心をなぐさめそのほほえみをまた唇にのせられる選ばれしものを待っている彼女まで、あと、もう少し。
「……ねえ、あなた、やめておきなさいよ」
心に浮かぶモノローグと共に植栽を抜けようとしたところでかけられたのは潜められた小さな声。
驚くのも無理はないだろう。声をあげなかっただけマシだ。
慌てて振り返れば、先ほどまで歩いていた道に立っていたのは一人の娘だ。……いや、女、少女、言い切るのに迷う年齢の娘は静かに裸足で立っていた。
モスグリーンのストライプの合間に刺繍でピンクの小花が散る意匠はもう十数年前に高位貴族の間で流行った柄。パフスリーブに胸元で切り替えた腰のくびれがない幼児のようなドレスをきた娘はダークブラウンの髪を腰までそのままにうねらせて肩から流している。
髪だけでなく貴族の子女ではありえない奔放さを示すように木立の合間の土を踏みしめる裸足の足だけが異様に白く見える彼女に私は心当たりがあった。
「……君は」
「貴方、お母さまに会いに来たのでしょう。悪い事はいわないわ。やめておいたほうがいい」
侯爵の娘。マーゴットの継子。
彼女はマーゴットが悲劇の夫人と呼ばれる原因の一つだ。
侯爵は王命で娶った妻にも真摯であった。
ただ一つ、彼の愛がまだ亡き妻にある事だけを除いて。
『私はまだ、彼女を忘れられないんだ。娘の瞳……彼女と同じ瞳をみていると、彼女を思い出す。愛も、悲しみも、思い出も……。許してくれとはいわない……どうか私を憎んでほしい……』
結婚の夜にそう嘆いたというのは、マーゴットの口から語られた事だ。
侯爵はあくまで誠実だった。王命という強制で結ばれた婚姻が拒否できるものではないのを知っていて彼女を受け入れ、そして母としてマーゴットが自分の娘を受け入れてくれるようにと願った。
しかし娘は――。
『おかあたまゃない!こあい!』
まだ幼かった娘は王命を理解できず急にあらわれて母親としてふるまおうとしたマーゴットに猛烈な反発をした。
ふわふわの毛を膨らませる、まだよちよち歩きな子猫の威嚇のような反発は最初こそ微笑ましく見られていたものの献身的なマーゴットの態度にまったく軟化する事はなく、マーゴットは認められない悲しみを嘆いた。
至らぬ自分のもどかしさ、誠実な夫にそれでも愛を求めてしまう事をごく限られた相手にのみ涙と共にこぼすマーゴットに先にほだされたのは侯爵のほうで、その彼女にささやかな愛情表現をはじめ――その腹に子ができた時に物語は進むはずだった。
侯爵は国王に求められて嫡男をマーゴットに望んでもいいかと話をし、それを受け入れたマーゴットのお腹には程なく待望の子供ができた。
かつての軟禁時代に弱った体では子がもしかしたら……と泣きながら語ったマーゴットはそれに喜び、侯爵もまたそれを喜んだがただ一人娘だけがそれを受け入れなかったという。
『おかあさまじゃないわ!』
数年たってもそういって威嚇のように声を荒げる娘に侯爵が思い悩んでいる頃、領地に隣接する国境での小競り合いに彼は招集された。
初めての子を抱えて不安そうなマーゴットを抱きしめ、帰ったら子供の名前をきめようと囁いた話は社交界でも悲劇の前に添えられる美しい思い出として語られる事が多い。
それにはいと答えたマーゴットが丹精をこめて焼いた焼き菓子は侯爵の領地の伝統的に妻たちが戦に出る夫のために作るもので、他の夫人たちと共に渡された事にことさら喜んだ侯爵は差配する部下たちと共に戦に向かい――。
そして――普段ならば大将格が怪我をする事などない程度のその小競り合いで死んだ。
武勇に優れた家ではないものの、それでも国境線にでる蛮族の類などには負けない装備の侯爵は中の一人、とりわけ小柄な少年の突撃に馬の横腹を刺されてそのまま馬上から落ちたらしい。
普段ならばよけられるような、それでいて普段ならば切り伏せられるような尖兵。だが侯爵はそのまま兜の中でぐるりと向いてはいけない方向を向いて死んだ。
その遺体を丁寧に連れ帰った部下たちの前で夫人は気丈に立っていたものの、遺体の顔をみればそのまま泣き崩れ胸にかぶさって泣いたという。
なぜ。なんで。私とこれから幸せになってくださるのではなかったの。
その声が響くホールの中で誰もが涙を流していた――そう思うだろう。
しかしそうではないものがいたのだ。
唇をひどくくいしばり、目を見開いたまま震える侯爵の娘だ。
マーゴットの魂が裂けるような叫びのむこうで、娘はドレスのスカートを握りしめながら歩をすすめ、その小さな肩には似合わぬ気丈さでカーテシーをして部下たる騎士たちの前で頭をさげてこう言った。
『ちちをつれかえってきてくださり、ありがとうございます。ほかになくなったきしのかたやおけがをなさったかたがいたら、ほうこくをください。みまいと、ちょうもんをさせていただきます』
そのあまりにも毅然とした態度になさぬ仲の母でさえこのように嘆いているのにこの娘の血は冷たいのだと憤った騎士がいてその話はあっという間に国中に広がった。
それを助長させるように結局過呼吸で倒れてからしばらく寝込んだマーゴットとはうらはらに娘は侯爵家の娘として側付きのメイドをしたがえ背をのばしたまま、国が手配をした父の葬儀に参列したが涙一つ流さずに終えたらしい。
それは十にも満たぬ幼い娘の姿としてはあまりにも異質であったという。
葬儀やそれに関しての本格的な処理は父に仕えていた執事や父の兄弟達の助けを借りて行ったものの、この国では男以外は当主になれない。
だからこそ注目を浴びたのはマーゴットの腹にいる子だ。
男の子であれば、侯爵家を継ぐ資格がある。
女の子であれば――。
だからこそ悲しみにくれるマーゴットに注目はあつまり、その腹が刻々と大きくなるのを社交界の人間たちは注目した。
それを壊したのが、この侯爵の娘である。
マーゴットがようやく床から起き上がれるようになった頃、墓参りを望んだマーゴットが階下に向かう階段を一人静かに歩いていたところを娘は押したという。
身重のマーゴットはそのまま階段を転がり落ち、怪我をして動けぬところを館で働くメイドがみつけ――そのまま子は流れたという。
かけつけた医者がした処置で、ようやく男の子とわかり始める程度だったという子は産声もあげぬままそのまま父とおなじ墓の下へと埋められた。
あのこは無事なの、一緒におちていないの、と確認した後気を失ったマーゴットの言葉からわかっていたが娘はそれを真っ向から否定したというがその時間に娘の姿をみたものはいなかった。
喪もあけぬうちに再び騒然とした事、そして父の忘れ形見になるはずだった子を殺した娘という事件はセンセーショナルであったことを覚えている。
「……君には関係ないだろう」
「関係ないから言っているのよ」
「ならばいいだろう。私は」
「どうせマーゴットに会って慰みをささげるとかそういう手合いでしょう。今までも何人そういう人が来たと思っているの」
「手合いとはなんだ。大体、マーゴット夫人は君の母だろう」
「……私のお母さまはお墓の下にいるわ。あんな人ではないから一緒にしないで頂戴」
鼻で笑うような声と冷めた目は普段淑女の微笑みをうかべる女性ばかり見ている私からみるとひどく冷淡に見えて胸が痛むと同時に懐に隠したブローチが少しばかりの罪悪感の重みにかわる。
別にマーゴットと会ったからと、何かを望むわけではない。
――いや、望んでいるのかもしれないというのを直視できないだけかもしれない。
悲しみの淵に沈んで戻れぬ人を救い上げるような英雄譚を紡ぎたい。
微笑みを忘れた人に愛の暖かさを与える太陽になりたい。
冥府の夫に長年貞節を誓う女の身に人肌を思い出させてやりたい。
かたくなに許さぬ肌のなめらかさを夫以外で知る唯一の男になりたい。
しかしそれの何が悪いというのだろうか。
こんな冷たい娘がいるから、彼女は悲嘆から未だ這いあがれない。
マーゴットはその流産の後、子を亡くした悲しみもいえぬままに後継者をなくした侯爵家の処理で娘と離す事を王家から提案されたという。
侯爵家は由縁のあるものに相続させられるとはいえ、娘は弟殺しや傷害の罪過を背負った子だ。十に満たぬ年とはいえその歪みは恐ろしいものだからこれから先は修道院という神の御許で静かな日々を過ごさせて心を正しく戻す努力をすべきだと。
しかしそれに反対したのはマーゴットだった。
ここで自分が手放したら、娘は永遠に家族を失った哀れな子になる。
歪んだまま手放したらそのままの形で永遠に固まってしまう。
だから自分がそばにいて、少しずつ正していければいいのだと必死で訴える彼女にもちろん最初まわりは反対をした。
死んだ侯爵の弟――つぎに侯爵家を任される事になった彼は子を殺され、己も殺されかけた相手が憎くはないのかと言い募ったがマーゴットはかたくなに拒否をし、そして最後は涙ながらに訴えたのだ。
『わたくしもあの髪に、あの姿に夫を見ているのです』
それは侯爵が何度も亡き妻を思って言った言葉だった。
たしかに娘の髪は侯爵と同じ色。あまくうねる癖もそのまま。
そして色こそ前妻とおなじ色ではあったが、顔自体もよくよく似ていた。
『どうかあの方を、わたくしから二度も奪わないでくださいませ』
泣きながらに連日訴えかける悲しみの一番深い女を無視する事はできず、侯爵の弟はこの深い森に隣接した郊外の別荘をマーゴットに遺産として譲り渡し彼女たちの生活を支える事となった。
つつましやかな生活を望んだマーゴットのため、部屋に閉じこもるようになった娘と二人きりにさせぬようにと言い含めた古くから家に仕える老女をメイドとしてひとりよこした静かな生活がはじまりマーゴットはそれからなさぬ仲の娘と二人、亡き侯爵のために祈り過ごしている――。
そんな温情をうけてなお改心せぬ娘に、私は心が酷く怒りに燃えた。
胸の奥にうまれた熱い塊は喉をとおり、残酷だとわかっていても言葉になって吐き出される。
「君がそんな態度だから、いつまでもマーゴットは幸せになれないんだ」
こぼした言葉に傷ついた顔をすればいいとおもった。
人を傷つけて生きているのだから、私が少しは傷つけるくらい問題ないとおもってしまった浅ましい私を見透かすようにうすわらいに変わった表情に腹の中がすーっと冷えていき、指先がしびれていく。
「……あなた、かわいそうね」
静かに告げられた言葉はこの屋敷の主に冠された言葉だ。
なにが、と告げる間もなくどこからかなまぬるい風がふき、冷えた肌を舐めるようにまとわりつく。
熱い言葉が通った喉がそのままカラカラに乾いて舌をはりつかせた。
「かわ、い、そう、って……」
「何で皆、あの人が幸せになりたいっておもうのかしら。幸せになりたいなら、今まで来てくれた人達にどうして幸せにしてもらわないのかしら」
「そ、れは、あの人が、きみのちちを」
「お父様を愛しているなら、どうして死んでしまわないのかしら」
「それは、きみが……」
「あははっ、男の人って本当に見たいものしかみないのね!かわいそう!」
まさか自分が最初の男であるとは思っていない。
突きつけられる言葉は正論という石で研がれたナイフのように切れて少しずつ心を切り刻んでは血を奪っていく。
風に揺れる髪をめんどくさそうに払ったマーゴットの娘はなにか面白いものを見つけたように笑ってはひとつ私の方に踏み出した。
「あの人は、幸せになんかなりたくないのよ。幸せになったらあの人はただのどこにでもいる普通のマーゴットになってしまうでしょう?誰もが痛みに震える小鳥を見舞うような真似もせず、軽薄な男の人が抱きに来ることも、美しいものをもって愛を囁きに来ることもない。あの人はそうやってしか身を立てられないのよ。幸せになった自分に注目なんか集まらない事を良くよくわきまえているの。そう学習してしまったのよ。……ああ、そう考えると可哀そうな人である事は間違いないわね」
滂沱のごとき言葉の後にとん、と白い指が私の胸を一つつつく。
知ってか知らずかそこにはあの真珠のブローチが収まっているのを実感して視線をおとせばひときわ大きな風が吹き、森全体をざわりとゆらす。
「わたくしは……わたくしは、お母さまだってほしかった。弟か妹ができると聞いた時は嬉しかった。……お父様がなくなった時に心細くて、誰かに縋りたかった。……だから、逃げそびれてしまった」
欺瞞だ、そういってやるには娘の声はあまりにも静かだ。
なにか亡くしたものを悔やむように言葉はとつとつとこぼれていく。
「貴方はここで足を止められた。きっといいことよ。……このまま大事なものを抱いておうちにかえったほうがいいわ。……この先は大きな蜘蛛の巣なの。私達のように逃げられなくなる前に……お逃げなさい」
そうささやいた娘の声が先ほどよりもずっと小さな子供のような声だったのに私は酷く恐怖を覚え、悲鳴のかわりにブローチを服の上から握りしめるとそのまま来た道を力いっぱい走って待たせていた馬車に飛び込んだ。
「……あなた、どうなさったの」
「……あ、ああ、いや、久しぶりに正装の君を見て、改めて見とれていた」
「まあ、そんな風にいってもお酒は許しませんわよ」
「挨拶くらいならいいだろう?」
「私が飲めないんですもの。だーめ」
「我が奥方は手厳しいな。そこも素敵だよ」
少し遠くに行っていた意識の向こうから喧騒が戻ってくる。
今日は冬の入りを名目に王城の新しいシャンデリアを披露するための大舞踏会だ。
数年前に結婚した妻は半年ほど前に出産の床から動けるようになり、ようやく育児にもひと段落着いたという事で今シーズンから私に同行をしてくれている。
この舞踏会のためにと私とそろいであつらえた青いベルベットのドレスはどこまでもなめらかで、淑女たる彼女に良く似合っているから嘘ではない。
王城の大ホールへ入るための儀礼である呼び出しを前に戯れのように肩を擦り合わせる合間にも周囲の喧騒は一つの話を繰り返している。
――フェルツェンドの森が館と共に燃えたらしい。
風の強い乾いた夜だったせいか森と館は三日三晩よく燃えて、がれきと荒れ地だけが残ったその場所から女の遺体がでたらしい。
女が二人、それだけならばよかっただろうが問題はその遺体以外だ。
地下の小さなワインセラーだけが火災を逃れてものの、そこには多くの宝があった。
大きなルビーの指輪は公爵家から長く姿を消していたもの。
サファイアのパリュールはどこかの商人が隣国から高貴な人へ収めたもの。
絢爛なゴブラン織りの外套は内側に高価な毛皮がふんだんに使われたもの。
今は亡き巨匠の書いた花の絵は隣国の大使が長い間探していたもの。
騎士の像はある貴族の家から忽然と姿を消したといわれていたもの。
今は絶滅したという小鳥のオルゴールはある美術館に収蔵されていたもの。
細工が美しいガラスのゴブレットはとある神殿で保管されているはずのもの。
どれもが国の宝にふさわしいものは、飾られる事もなく小さな部屋に押し込まれていた。
そして一番問題なのは、その物品の奥に隠されるようにあった十にも満たぬ子供の白骨。
その白骨がまとう胸元で切り替えのあるパフスリーブという子供っぽいドレスは、乾く前にはひどい匂いがしたとおもわれる肉の溶けたしみと時間経過で色の変わった血痕がついてはいたがモスグリーンのストライプの合間に刺繍でピンクの小花が散る意匠の、二十年ほど前に流行った布でできていた。
なのに割れたような大きな傷のついた頭蓋骨は真珠のようにつやつやと、大理石が何度も愛でられたように表面を輝かせていたらしい。
女は何かを含んだように確信を添えて。
男は何かを惜しむように憐みを添えて。
悲劇の夫人が焼け死んだことを悼む言葉にかえた。
森の中で葉が擦れる音めいて囁かれる言葉の合間に一つの言葉がよみがえる。
『私達のように逃げられなくなる前に。』
それはあの夜の森で出会ったとび色の瞳をした娘の声。
思い出すだけでのぼる怖気の合間で肩を震わせた私を気遣い撫でてくれる妻の胸にはバロックパールを重ねて作られたブローチが輝いている。




