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6話

安田家からそう遠くない場所に、霞ヶ丘心療総合病院はあった。都内でも有名な精神病院であり、美琴はこの病院に10年間もの間、定期的に通院していた。


美琴が言葉を発した事を事前に連絡を受けていた紺野真尋医師は、神妙な面持ちでいた。紺野は美琴の事を長い間診察してきた。回復の兆しがほぼ見られなかった彼女が、急に言葉を発した。この事実をどう捉えるか、紺野は考えていた。


ノックの音が鳴る。


「失礼致します。」


安田舞子が美琴と共に診療室へ入ってきた。


「こんにちは、安田さん。どうぞ。」


テーブル前に並べられたイスに2人が腰掛ける。舞子の様子が見るからに嬉しそうな事に、紺野は気付いた。


「本日もよろしくお願い致します。」


「よろしくお願いします。先生、電話でお話ししましたが⋯。」


「はい、お聞きしています。美琴さん?」


美琴は目線を下げ、無表情でいる。


「美琴?すいません、今朝も話したんですが。」


「構いません。気にしないで下さい。美琴さんも、大丈夫ですからね?無理はしなくて結構です。声が出せるようになったからといって、話す必要はありません。疲れてしまいますし。」


「せっかくなのに⋯。先生にはずっとお世話になっていますし。美琴?難しい?」


「お母様、大丈夫ですから。」


「先生。」


美琴が小さく呟いた。紺野は思わず彼女を見た。美琴は目線を紺野に合わせていた。


「美琴さん⋯。」


「美琴⋯!ね、先生!美琴が⋯。」


「美琴さん、無理はしていない?」


美琴はゆっくりと頷いた。


「声を出す事で体が辛かったり、何か違和感は無い?痛くなる所とか。」


「⋯ないです。」


「そう。繰り返しになるけど、くれぐれも無理はしないようにね。」


「先生、美琴は良くなっているという事でいいんでしょうか?」


「そうですね。」


紺野は言葉を選んだ。


「少なくとも、精神面がより健康な状態に近付いた、と言えると思います。これまでの検査でも声帯に異常は見られなかったと外来から聞いています。話せるようになったのは、美琴さんの意思に関係しているのは間違いないはずです。」


「そうですか。良かった。本当に⋯。」


舞子が安堵の声を漏らす。


「美琴さんは、何か他に気になる事はある?どこか他にも体に変化があるとか。」


美琴は顔を横に振った。


「もし何かあれば連絡して下さい。ここではない、他の病院でも構いませんので。」


紺野はそう話しながらも、美琴の事を懸念していた。何故話せるようになったのか。きっかけはあるのか。何故10年が経った今なのか。必ず探る必要があった。しかし油断は出来ない。また何かのきっかけで口を閉ざしてしまう可能性がある。


「美琴さんは、今は今まで以上にゆっくり静養しましょう。せっかく体調が良くなったのなら、無理は絶対にいけません。もちろん適度に外に出たりして、リフレッシュが出来るのならそれは良いことですが、お母様か、もしくは他のご家族の方が必ずフォローをして上げて下さい。」


「はい、分かりました。」


「美琴さんは何か気になる事はある?」


「⋯無いです。」


か細い声だが、確かに彼女が言葉を発している。紺野はひとまずその事実を飲み込んだ。


「処方箋は今まで通りの物を出しておきます。必ず用法用量を守って飲んで下さい。」


「薬は何か変わったりしないんですか?」


「今はこのままでいきましょう。長い期間飲んできた薬です。急に量や飲み方を変えたり、ましてや他の薬に変えない方がいいでしょう。焦る必要は全くないです。それとお母様。」


「はい?」


「可能であれば、この後お母様と2人でお話しがしたいのですが可能ですか?」


「はい。今日は上の娘が付き添いで待ち合いにおりますので、大丈夫です。美琴、いいよね?」


美琴が頷く。


「では美琴さんは待ち合いでお姉さんとお待ち下さい。お大事にどうぞ。」


美琴は立ち上がり、軽く会釈すると診療室を後にした。


「お母様、美琴さんが声を出せるようになった、何かきっかけのような物に心当たりはありませんか?」


「きっかけですか?私が見る限りでは特に何も。ただ、数日前に部屋で何かを話していたようなんです。」


「そうなんですか。どんな事をお話しされていたんですか?」


「そこまでは聞き取れなくて⋯部屋の外にいたところ、たまたま耳に入ってきたので。」


「美琴さんの精神障害歴を考えると、何かきっかけがあるように思います。良くなるにしても、悪くなるにしても。」


「では、何かのきっかけがあるという事ですか?」


「私はその可能性が高いと思います。とはいえ、発声が出来るようになったことは素晴らしい事です。大きな前進ですね。」


「ありがとうございます。先生には本当にお世話になっていますから⋯。」


「とんでもございません。お母様も大変だとは思いますが、今はより美琴さんの事をよく見ていて上げて下さい。」




広めの待合室。美琴は診察室から出てくると、美怜の横の席に腰掛けた。


「あれ、お母さんはまだ?」


美琴が頷く。


「そっか。ねえ、美琴。この後何か外で食べる?お姉ちゃん奢ってあげるよ。何食べたい?」


「⋯ハンバーグ。」


「よし、任せて。」

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