19話
紺野真尋医師は優しい面持ちで、美琴の事を診察室に迎え入れた。予約された診察日では無かったが、急遽診てもらいたいという連絡が安田信之からあり、紺野は本来診察しない時間枠に診察枠を設けた。
待ち合いには信之がいるはずだが、診察室に入って来たのは、美琴1人だった。
「美琴さん、お父様は待ち合いでいいの?」
「はい。」
美琴がしっかりとした返事をした事に、紺野は驚いた。数日前とは別人のような雰囲気がある。2人は向かい合って座った。
「改めてこんにちは、美琴さん。」
「こんにちは、先生。」
「凄い、美琴さん。お話しが数日前よりとても流暢になってる。発声は順調ですか?」
「はい。ゆっくり、ですが。」
「それは良かった。」
紺野が微笑む。
「お母様の⋯舞子さんの事は聞きました。とても残念です。ご冥福をお祈り致します。」
「ありがとう、ございます。」
「仕事の関係で通夜に行けず、申し訳ありません。焼香だけでもと思ったんですが。」
「ありがとう、ございます。」
美琴が頭を下げる。紺野は適切に会話を行う美琴に本当に驚いていた。目線も、真っすぐに自分の事を見つめている。
「今日は、無理を言って、すみません。」
「いいんです。気にしないで下さい。何かありましたか?」
「質問が、あります。」
「はい、何でしょうか。」
「記憶を、戻すには、どうすれば、いいですか?」
「記憶、ですか?」
「はい。」
「それは難しい質問ですね。まず前提として、美琴さんは記憶を戻したいんですか?」
「はい。」
「恐らくその記憶は、美琴さんにとって大きなトラウマになっている物です。その記憶を自分から掘り起こしたい、という事でいいですか?」
「そう、です。」
その返答を聞き、紺野は少し考えてから答えた。
「私はこれまで美琴さんが落ち着いて生活出来るように治療やカウンセリングを行ってきました。記憶を呼び戻すような治療は行ってきていないんです。前者とは異なる治療法になるので。美琴さんは、日常生活を送るのが困難な程、精神障害を患っていました。そして今も。」
「理解して、います。」
「発声が出来るようになったとはいえ、根本的な部分は治っていないと私は考えています。具体的に言えば、躁鬱や不安障害の症状の事です。この部分は簡単には治りません。特に美琴さんの場合は。通院していただいている期間を考えれば、ご理解いただけるかと思いますが。」
「勿論、です。」
「お母様とも、よくお話をさせていただいてきました。この手の治療は慎重にならなければならないんです。」
「それでも、何とか、したいんです。」
「記憶をですか?」
「はい。」
「何故、今記憶を思い出したくなったんですか?これまではむしろ、思い出したくないという感じではなかったですか?」
「自分が⋯自分であるため、です。」
紺野が美琴を見つめる。
「例え辛い記憶でも?」
美琴は一瞬考え、頷いた。
「そうですか。」
紺野は深く腰掛けた。美琴の変わりように、何かがあったのは明白だった。母親の死で焦っているのか。それとも別の何かがあったのか。
「困りましたね。」
「?」
「いえ、まさか美琴さんからこんな事を言われるとは思っていなかったので。正直、驚いているんです。」
「⋯すみません。」
「いえ、良いんです。」
そう言うと紺野は右手で指をパチンと鳴らした。美琴は指が鳴った瞬間、座ったまま瞬時に気を失った。
紺野は立ち上がり、ゆっくりと美琴に近付いた。
「思い出さない方が良い。悪い事は言わないから。」
美琴が診察室に入ってから20分は経っただろうか。信之は待ち合い室でただ1人、美琴の事を待っていた。
ここ数日で美琴は大きく変わった。まるで別人のように。しかし、それは良い意味で。
声が出せるようになり、自分で積極的に行動出来るようになった。数週間前の美琴からは考えられない事であった。
舞子の死で何か思う事があっただろうか。せっかく時間を掛けて体調が良くなったのだ。無理はしないで欲しい。信之の想いはそれだけだった。
診察室から美琴が出て来た。
「美琴、大丈夫か。」
「大丈夫⋯。」
「お父様、少しよろしいですか?」
診察室の入口に立つ紺野が、信之の事を呼んだ。
「お父様とこうしてお話させていただくのは、久し振りですね。」
「いつも娘がお世話になっております。本日も、無理を言ってしまってすいません。」
「構いません。それと、奥様の事はお聞きしています。ご冥福をお祈り致します。」
「ありがとうごさいます。妻が生前、お世話になりました。」
「とんでもございません。」
「それでその⋯美琴はどうでしょうか。」
「はい。良くなってきています。ですが、無理をしているようです。やはり奥様が亡くなられたのが原因かと。」
「そうですか。具体的に、どう無理をしようとしてるんでしょうか?」
「事件の記憶を思い出そうとしてらっしゃいます。」
「やはり、そうですか。そうとは思っていました。」
「美琴さんにとっては、トラウマをえぐり、ほじ繰り返すような物です。今の美琴さんにとって、そういう治療行為は良くないのでは、と伝えてあります。」
「そうですか。」
「大変な時期だとは思いますが、くれぐれも無理をしないよう、しっかりと美琴さんの事を見て上げて下さい。それと⋯。」
紺野は信之に優しく語り掛けた。




