1話
安田美怜はコンパクトな黒いリュックサックを背負いながら、久し振りに地元の最寄り駅に降り立った。都内の駅という事もあって、人混みが尋常ではない。
美怜は慣れた足並みで駅の出口に向かうと、ロータリーに見覚えのあるシルバーのワンボックスカーが見えた。車内から手を振る母親・舞子の姿が見える。美怜は小走りで車に向かった。助手席のドアを開けると、舞子が嬉しそうに美怜の事を温かく迎え入れた。
「久し振り。どう、元気してた?」
「うん。元気元気。」
「そっか、そっか、良かった良かった。」
車が走り出し、車通りが多い車道へと入っていく。
「いきなり来てもらってごめんね。」
「全然。当たり前だよ。」
「仕事はどう?」
「大変だけど、何とかやってる。職場に恵まれてるよ、私は。」
「そうなんだ。」
他愛もない話をしながら、車は自宅へと向かっていく。
閑静な住宅街。その一角に安田家の一軒家はあった。
駐車区画に車を停め、美怜と舞子が外に出ると、向かいの家に住む女性がたまたま外に出て来た。
「あら、こんにちは。」
女性は二人に挨拶をしてきた。
「こんにちは。」
「美怜ちゃん、久し振りね。元気?」
「はい、おかげさまで。」
「そう。それは良かったわね。」
岩崎葉子はそう言うと、笑顔からすっと無表情に変わり、郵便ポストから何かを取り出してすぐに家に戻っていった。
美怜は舞子の顔を見た。目線を逸らしたような、気まずそうな表情をしていた。
玄関の扉を開け、家に入る。実家特有の匂いを感じ、美怜は何処か安心した気持ちになった。
リビングに進むと、部屋は綺麗に片付けられて降り、ダイニングテーブルの真ん中にはお洒落なデザインの水差しが置かれている。
「荷物降ろしたら?今コーヒーでも淹れるわよ。」
「うん、ありがとう。部屋に置いてくる。」
美怜はそう言うとリビングを出て、階段を登り、2階へと上がった。自分の部屋に入ると、日頃舞子が綺麗に掃除してくれているのが分かった。家を出てから何も変わらない自室。美怜はリュックを置き、廊下へと出た。
自室の隣部屋のドアを見る。今でもあの頃の記憶が蘇る。
「美琴、帰ったよ。」
そう言うが、返事は返ってこない。美怜は久し振りの寂しさを感じながら、リビングへと戻っていった。
コーヒーメーカーの音が聞こえる。棚からクッキーが入った菓子箱を取り出している舞子の背中を、美怜は見つめた。
「声かけたけど、反応無かったよ。」
「そう。でも、本当なのよ。」
マグカップにコーヒーが注がれていく。
「美琴、喋ったのよ。本当に。」
「そっか。」
「疑ってる?」
「ううん。そんな訳ないじゃん。」
母が笑みを浮かべる。
テーブルに座り、二人はコーヒーを飲み始めた。せっかくだからと美怜はクッキーを一枚頬張った。
「お父さんは⋯。」
「ん?」
「お父さんは聞いたの?美琴が話したの。」
「ううん。聞いてない。仕事に行ってる時だったから。」
「何を⋯何を美琴は話したの?」
「分からないの。」
「分からない?」
「ちょうど2階の廊下にいた時に聞こえたの。美琴の部屋から声が。何を話してたかは分からない。でも、本当に聞こえたの。」
舞子は美怜を見つめ、必死に説明した。
「すぐに美琴の部屋に入ったわ。そしたらあの子、窓際に立っていて、外を見ていたみたいなの。外に何かを呟いていたんじゃないかって。」
「そっか。美琴⋯。」
美怜はコーヒーに口を付けた。
「明日で丁度10年よ。事件から。」
「10年か。もうそんなに経っちゃうんだね。」
「本当に⋯。」
母のマグカップを触る手が震える。
「何処に行っちゃったかしら、みんな。」
美怜はふと棚に置かれた家族写真を見た。家族旅行に行った時に撮られた一枚の写真。家族揃って、笑顔が溢れている。まだ小さかった美琴の笑顔を見て、美怜は思う所があった。
「10年だもん。きっと、ゆっくり良くなってきたんだよ。」
美怜が舞子に気遣いの言葉を掛ける。
「そうよね。そうだといいよね。」
「うん。」
リビングのドアが開いた。二人がドアの方を見ると、スウェット姿の美琴が立っていた。
「美琴。」
美怜にとっては久し振りの妹との再会だった。美琴は無表情で視線を下げ、ただその場に立ち竦んでいる。
「久し振り。帰って来たよ。」
美琴は僅かに美怜に対して頷いた。
「お姉ちゃん、遊びに来たのよ。泊まるからね。」
美琴はそのままゆっくりと歩いて、冷蔵庫の方へと向かった。麦茶の入った容器を取り出すと、ガラスのコップに注ぎ始める。
美琴がキッチンの方から、ふと美怜の事を見た。姉妹は久し振りに目が合った。
しかし、美琴はすぐに目を逸らした。彼女はコップの麦茶は一気に飲み干すと、またフラフラと歩き出し、リビングから居なくなってしまった。
リビングに残された二人は、その背中を見送る事しか出来なかった。
「本当に、話したの。本当よ。」
舞子が呟いた。




