雨の降る夜に
アスファルトの上で朽ちて土になっていく椿。その椿をLED街灯がほの白く照らし出している。
昼過ぎから降り続いた雨は勢いを弱めながらも、ポツポツと傘を打つ。
少し肌寒い。暑いからと午後の天気も気にせずにシャツ一枚で出てきた朝の自分をのろう。せめて羽織るものが有れば———。
「今日も死ななかったかぁ」
灰色の厚い雲に覆い隠された月。
別に病気をしているとか、辛い目に遭っていて死にたいと思っているとかいう訳じゃない。何せ「夢と希望に溢れた大学生」だ。けれども、いつからか、何となく自分が死ぬという予感があるのだった。それが交通事故なのか心臓発作なのかもっと別の何かなのかまでは分からないし重要じゃない。
ただ、そういう予感だけがある。
踏切を越えて、ビルの脇を抜け、いつものカフェに入る。
雨のせいか店内は蒸し暑く、しかも混み合っていた。やっぱりよしておこうか。喧しい所は嫌いだ。
でも、すっかりこの店のカフェラテを飲む気になっている。冷えた体を温めたいし、カフェラテを飲むために読みかけの文庫本まで雨の中運んで来たのだ。ここでむざむざと引き返すのも負けた気がする。
「よし」
意を決して———大袈裟に聞こえるけど本日最大の決断だった———お店に入ると、いつも通りに注文を済ませ席に着いた。
幸い、私の指定席は空いていた。奥から2番目のテーブル。向かい合わせの椅子の片方にカバンを置いて例の小説を取り出すと、反対側に腰を下ろした。
カフェラテに口をつけ、読んだ箇所を探しながらページをパラパラと捲る。
しばらく本を読んでいると、扉が開く鈴の音がして一人の男が店に入って来た。大学の何かの授業でちょっと議論した事のある子———名前は覚えていない。
その子はキョロキョロと店内を見回して、踵を返そうとする。あいにくと店内は満席だ。
引き返す直前、私に気づいたのかちょっと会釈をする。
私は会釈を返すとともに、驚いたことに、手招きをしていた。
「ここ、よければ」
私はその子のために、カバンを退かして自分の椅子の背もたれにかけ直し、向かいの席を空けてやった。
今日の私はどうかしている。殆ど見ず知らずの人とわざわざ相席しようなんて。
「えっ?」
「満席だから」
目をぱちくりさせていたのは、その子だけではなく、私もだった。
きっと、小説に没頭しすぎて半分無意識で深く考えずに変なことをしてしまったのだろう。我に帰ると急に恥ずかしくなって来た。
その子はその場で棒立ちになっている。
電車で席を譲ったら、相手が座ろうとしないときみたいな間の悪さ。私、愚かだなぁ。
「———じゃあ、お言葉に甘えまして。柳さんとの陪席の栄に浴させていただきます」
「うん」
依然名前を思い出せないその子は、コーヒーとホットサンドとそしてフライドポテトを買って戻って来た。
「よかったらフライドポテト、席のお礼に」
「———手が汚れるから」
嫌な女だ。
素直にありがとうと言っておけばいいのに。たとえフライドポテトなんて食べようものなら、新しく買ったお気に入り(になるかもしれない)小説のページが油まみれになるとしても。
「そっか———」
気まずい。実に気まずい。
この空気を作り出したのは私の気まぐれで考えなしの言動であって、この子に罪はない。けれども、この子が私の世界に突然現れた異物であることには違いない。
「———柳さん、よくここ来るの?」
「たまに」
「意外。ス◯バのフラペチーノ飲んでそうなのに」
「喧嘩売ってるの?」
「売ってない売ってない。ただ、イメージと違っただけ」
「ふーん」
「柳さんって、何か趣味あるの?」
「ご覧の通り。一人で、静かに、本を読むこと」
「へぇ!読書、いいね。何読むの?」
普通、本を読んでる人に話しかけるかなぁ。
読書というものはそれなりの集中を要するというのに。これがデートであって、お相手そっちのけで本を読み漁って生返事を繰り返すというなら私が悪かろう。けれども、満席時の人道的見地から顔は知っている程度の同期と相席しただけで、かような取り調べ受忍義務まで負うなんて聞いてない。
そんなこんなで取り調べをやり過ごしていたら、時間が流れ、店内も随分空いて来た。今日はそろそろ引き上げようか。気まぐれのせいで酷い目に遭った。
「何でそんなに話続けられるの?」
「前から柳さんと話してみたいって思ってて。わりと授業被ってるのに話したことなかったから」
「で、話してみてどうだった?」
そう聞いたのは単なる好奇心からだ。
「うーん、猫みたいかなぁ。警戒心強くて、心許さないと絶対自分の事人に話さないタイプだって思った。あと、ほっといてってオーラ出てるけど、懐いたら構ってちゃんになりそう」
「失礼な」
少なくとも、お前には絶対懐かんわ。
喧しい人間は嫌いだ。
「まあ、ありがとう。また学校で。今日は話せて楽しかったよ、柳さん」
「私は楽しくなかった」
「猫の爪に引っ掻かれたかぁ。じゃあ!」
呆気ないほどあっさりと、その子は去って行った。
一体何だったのか。
さっきまで人がもう一人居た机が広く感じられるのが癪だ。それを計算してとっとと立ち去ったというなら、より苛立たしい。
読書の気分じゃなくなった。帰ろう。
夜道。
目が合ったかと思うと、音もなく弾むように走り去ってゆく野良猫。
遠くから聞こえる踏切の音。
大気は依然冷たいのだけれど、カフェインのせいか火照った身体にはこれくらいがちょうどいい。
雨上がりの晴れた夜空には、明るい月が静かに浮かんでいた。
「———あり得ない」
気づくと私はそう呟いていた。