第82話 闇に沈む者
見渡す限り、辺りは黒く塗りつぶされた空間。
目に見えるものなどなく、香りも感じない。
ただ聞こえるのは、静かな呼吸音が1つだけ。
先が見えず、進むことも、戻ることもできない。
出口のない暗闇に飲み込まれていく。
(私は……また死んでしまったのかしら……)
レティシアは、自分が何をしていたのか、何を考えていたのか、何を感じていたのか、全てが霧に包まれていた。
彼女の心は、深い悲しみと無力感で満ちていて、それ以上何も受け入れられなかった。
エディットが死んだと知らされた瞬間の記憶を、彼女は辿ろうとした。
しかし、その記憶は砂のように指の隙間からすり抜けていく。
あの瞬間の記憶を必死に捉えようとするが、それは彼女の意識の深い部分に沈んでいき、手の届かないところへと消えていく。
辺りを見渡したレティシアは、その場にしゃがんで膝を抱えた。
幸せだった日々を思い出すと、喉の奥が痛むくらい熱を持ち始める。
鼻はツーンと痛くなるが、それでも瞳に涙が浮かぶことはなかった。
周りがレティシアを護りたいと強く思うほど、彼女の行動には制限が掛かってきた。
私のことを心配しているから……私のことを大切にしてくれているから……
彼女はそう思えば、周りの気持ちを無下にできなかった。
そのため、その制限の中で、彼女なりにできることをやってきた。
エディットの病気について調べたくて、本当は魔塔に乗り込みたい気持ちもあった、教会に行きたい気持ちもあった。
それでも、魔塔も、教会も、そこに行ってしまえば、連れて行かれる。
そうすれば、2度とみんなの元に戻れない可能性があることも、レティシアは知っていた。
(それでも……手掛かりを見つけるのが、遅過ぎたんだわ)
できたことは、きっと他にたくさん有ったと考えれば考えるほど、答えのない後悔がレティシアの中で増えていく。
何が悪かったかなど、後になればなんとでも言える。
何度も人生をやり直して分かっているはずなのに、それでも考えることを止められない。
(いつも後悔しかないわね)
我が身可愛さに、やらなかったことを1つずつ上げれば、レティシアの中で小さな疑問が生まれる。
(私は、本当にお母様のことを、愛していたのかしら……)
人の愛し方が分からない彼女にとって、愛していたかどうか、1人で考えても答えなどでない。
少しずつ抜け出せない闇へと、レティシアは引きずり込まれていく。
◇◇◇
レティシアが本来の姿に戻ったステラにまたがると、ステラは森の中を突き進む。
しかし、レティシアの瞳は光を失くし、その瞳は何も映していないようにも見える。
レティシアが魔物を見つけると、目の動きや呼吸の仕方まで確かめているようだ。
そして、そのまま迷いがない短剣は魔物の急所を刺していく。
相手が動きを止めると、虚ろな目をしたレティシアが、魔物の体内を漁り始める。
それは、まるで何かを探しているようにも見える。
しかし、探していた物が見つからなかったのか、彼女は魔物から丁寧に取れる素材を剝ぎ取っていく。
そこに彼女の思考などなく、彼女の行動は、まるでプログラムされた機械のようにも感じられる。
その様子を静かに見ていたステラは、レティシアに声をかけた。
『レティシア、残ったお肉は、ステラが食べるよ。今日のご飯がまだだから』
魔物の素材を取り終えたレティシアは、素材を空間魔法に放り込んだ。
何も映さない瞳がステラを見つめ、彼女の近くまで行くと、右腕をポンっと1度だけ軽くたたいた。
きっと、食べていいよっという合図なのだろう。
ステラは盗み見るようにレティシアの表情を見て、少しだけ泣きそうな表情を浮かべる。
けれど、急ぐように一口で魔物の肉を食べると、彼女はレティシアの近くで姿勢を低くした。
ステラがゆっくりと食事していれば、その間にレティシアが1人で走り出してしまう。
そのことを、ステラはとても恐れているのだ。
ステラはレティシアが彼女の背中に乗ったことを確かめると、再び森の中を走り出した。
緑に茂った森は夏の息吹を感じられ、新鮮な空気が彼女たちの肌をすり抜けていく。
森の中心まで行くと開けた空間が広がり、そこに大きな泉が存在する。
この泉は、前回アランたちとレティシアが森に入った時よりも、さらに奥にある泉だ。
そのため、この近くにいる魔物の強さも格段に上がっている。
透き通った綺麗な泉の水は、乾いていた2人の喉を潤す。
しかし、魔物気配がし、顔を上げたレティシアが戦闘態勢に入った。
けれど、ステラはそれを止め、泉の奥に広がる森から出て来た魔物と話をしに向かう。
魔物から情報を得ると、ステラはレティシアの元に戻った。
『この泉の奥は、まだ操られている魔物は、いないみたい』
レティシアは観察するように、泉の向こうを見ながらコクリと首を軽く縦に振った。
感情を失い、まるで人形のようなレティシアの姿を、ステラは悲しげに見つめる。
そして、彼女は大きな体で、レティシアの傍に寄り添う。
エディットが亡くなったと報告を受けた日。
静かに立ち上がったレティシアは、覚束ない脚で歩き、何も告げずに部屋から出て行った。
話を盗み聞きしていたジャンとステラは、途中で異変に気付き、慌てて彼女の後を追い駆けた。
彼女に追いついた2人は、虚ろな目をした彼女に対し、宿屋に戻るように説得し続けた。
しかし、レティシアの足は止まることなく、歩みを続けていた。
そのまま森に入った彼女は、操られている魔物だけを次々に倒し、魔物の体内を漁ったのだ。
それはまるで、無意識に紫の破片を探しているようで、その光景を見ていた2人は彼女を止められず、ただ見ていることしかできなかった。
そして、その日を境に、レティシアが魔の森に姿を消した。
レティシアが森に消えて2日経った頃。
この状況のレティシアから目を離さず、ジャンを守れないと思ったステラは彼を帰らせた。
その際、帰らないと言い張ったジャンに対し、ステラは『必ずレティシアを連れて帰るから!』と言い聞かせた。
そのこともあって、彼女は何度かレティシアを背中に乗せたまま、森をでようとした。
しかし、レティシアはそのたび、走っている彼女の背中から飛び降りた。
結局、ステラはレティシアが怪我する危険性の高さを考え、それ以降そういった行動を止めた。
『ねぇ、レティシア。ステラはね、そろそろ宿屋に戻った方がいいと思うんだ。あのジャンって人も、きっと心配しているよ?』
ステラはそう言うが、縦にも横にもレティシアは首を振らない。
しかし、静かに立ち上がった彼女は、ステラの肩を2回たたいた。
それから彼女は街がある方向を指し示すと、街とは違う方向に歩みを進める。
一瞬、指し示された方向に振り返ったステラが視線を戻すと、遠ざかるレティシアが視界に入った。
その瞬間、ステラは悲痛な表情を浮かべ、慌てた様子でレティシアの後を追う。
そして、並ぶようにして、また森の奥へと進んで行く。
隣を歩くレティシアに、ステラは悲しげな視線を向けている。
けれど、ステラはレティシアの前に出て姿勢を低くすると、またレティシアを乗せて森の中を走って進む。
暫く走ると、レティシアがステラの背中をたたいた。
ステラはレティシアを降ろし、体を小さくしてレティシアに付いて行く。
気配を極限まで消し、隠れながら歩みを進めると、複数の禍々しい気配を放つ魔物が佇んでいた。
本来魔核がある部分には、放たれる気配と同様の禍々しい物が、存在している。
魔物の目の瞳孔は開き切っており、呼吸が戦闘もしていないのに荒い。
レティシアが弓を射るような体制になると、冷気がそこから広がる。
背筋を伸ばし、標的を見つめる瞳に光はない。
けれど、氷の矢を出現させた彼女の姿は、息を呑むほど静かである。
シュッと鋭い音共に氷矢魔法が放たれると、氷の矢は導かれるかのように魔物の頭に命中した。
その瞬間、条件反射のように、他の魔物が一斉にレティシアの方を向く。
そして、魔物たちがレティシアに突進してくると、彼女は風刃魔法を使って、胴体と頭を切り離した。
そこから、プログラムされたかのようにレティシアは魔物体内を漁る。
けれど、人が近付いて来るのを察知したのか、時を止めたかのように彼女の動きがピタリと止まった。
ゆったりとした動きで振り返った彼女は、光が宿っていない瞳で一点を見つめている。
その姿は、頭のてっぺんから足の先まで赤黒く血で汚れ、髪は絡んで束になっている。
周囲の茂みの中から、カサカサと足音が聞こえ、彼女を警戒しているような気配が感じられる。
足音の感覚は徐々に狭まり、剣を持った男性が茂みの中ら飛び出した。
彼は雄たけびを上げるように、上から下に向かってレティシアに斬りかかると、瞬時に彼女は後ろに跳び退く。
だが、それを待っていたかのように、彼女の退いたところに1本の矢が飛んでくる。
それでも彼女が難なくかわすと、追い打ちをかけるように甲高い女性の声がした。
「炎球魔法」
女性が放った攻撃は、矢をかわしたレティシアに向かって飛んでいく。
すると、ボーンっと大きな音が森に轟き、レティシアがいた周辺は黒い煙に包まれた。
「やったか!?」
「狙い通りだ!」
最初に斬りかかった男性と、矢を放った男性が嬉しそうに言うが、彼らは戦闘態勢を崩さない。
次第に黒い煙が風によって流され、視界は段々と鮮明な物に代わる。
そこには、防御結界で守られたレティシアの姿があった。
「なんで今ので無傷なのよ!!」「な、なんで!?」
茂みの中から、2人の女性が困惑した様子で慌てている。
声からして、先に話した女性が攻撃を仕掛け、もう1人は回復役なのだろう。
しかし、感情がこもっていないレティシアの虚ろな目が、彼女たちを捉えた。
レティシアは弓を構えるように弓を引くと、そこには氷矢魔法が出現する。
「おいおい、冗談だろ!? クソッ!!」
レティシアが女性たちに視線を移したのが分かったのか、剣を持った男性がレティシアに向かって行く。
剣は左下から右上に向かって流れ、避けなかったレティシアの胴は斬り付けられた。
「へっ! 油断したな」
男性の頬が緩み、彼はそう言って喜んだ。
だが、その喜びも、彼の表情も徐々に歪んだものへと変わる。
レティシアだったものは色を失くし、無色透明な水に姿を変え、バッシャと音を立てて勢いよく地面に広がった。
「な、なんだよこいつ!!」
炎に包まれた時、レティシアは防御結界と同時に、操水幻影魔法を使って彼女の水幻影を創り出していた。
そのため、男性が斬ったのは囮でもあり、彼らを攻撃する手段の1つでもあったのだ。
本物のレティシアは、同時に4本の氷矢魔法を出現させていた。
矢の先端は揺れることもなく、静かに彼らに狙いを定める。
しかし、このままでは、レティシアが彼らを殺してしまう。
そう思ったステラは、彼らの背後にいたレティシアの肩に飛び乗った。
『今なら見逃してやる。だが、これ以上やるなら、お前たちは死を覚悟することだ』
強い殺気を含んでステラが告げると、悲鳴を上げて彼らは逃げ帰るようにしてその場を離れていく。
暫くの間、彼らが走り去った方を、弓の構えを崩すこともなくレティシアは見つめていた。
けれど、氷矢魔法が消えていくと、興味を失くしたように先程倒した魔物に視線を向け、ステラの右腕を軽くたたいた。
ステラは久しぶりにゆっくりと食べながら、全身が汚れているレティシアに向かって言う。
『いつまでも魔物の血を洗い流さないから、レティシアが魔物と間違われたのよ? レティシア、そろそろステラの言うとおりにして、泉で水浴びしよ?』
レティシアに聞こえてるのか、はたまた聞こえていないのか、それはステラには分からない。
けれど、レティシアが静かに歩き出すと、ステラは慌てて元の大きさに戻り、魔物を平らげて彼女の後を追う。
『だいぶ魔物は狩ったと思うけど、まるでいたちごっこね』
ステラがそう言うも、レティシアからの返事はない。
辺りが暗くなっても寝ないレティシアに付き添い、ステラも森を走り回る。
『ステラはレティシアの味方だよ? でも、レティシアが何を考えているのか、全くステラには分からない。そんなに、ステラのことが信用できない?』
ステラはレティシアに話しかけるが、それでも彼女は何も言わない。
『本当に、ただのお人形さんね』
悲し気にステラは言うと、レティシアを地面に降ろした。
そして、彼女はレティシアと意識の共有を試みた。
けれど、繋がった意識の中で、ステラの言葉がレティシアに届くことはなかった。
だが、それでも諦めず意識の共有を続けたステラが見たのは、レティシアの過去と、彼女の叫びだけだった。
意識の共有を辞めると、ステラは大きな体でレティシアを包んだ。
その瞳には、溢れんばかりの涙が浮かぶ。
『レティシア、ステラはレティシアの傍にいるよ』
ステラは、長い年月を生き続けて幻獣となった。
しかし、レティシアが抱えていた悲しみを、彼女は経験したことがない。
幼い頃は、親に愛してもらい、仲間に守られて強くなった。
けれど、それでも彼女は1人になったことがある。
大切な友と別れ、久しぶりに会いに行くと、すでに友は亡くなっていた。
その時、彼女は人族と彼女に流れている時間。
そして、彼女と仲間に流れている時間が、違うことに気付いた。
それから、その悲しみが癒えるまで、深い森の奥で1人静かに過ごした。
だが、自ら孤独を選ぶのと、他者によって孤独にされるのは違う。
そのことが、どんなにツライことなのか、ステラには分からない。
だけど、今は独りじゃないのだと、彼女はレティシアに伝えたかった。
たとえ、この先ステラが取り残される未来があろうとも……伝えたかったのだ。




