第81話 不穏の空気と消えた光
ルカたちが王都へと旅立った翌日。
朝から図書館に来ていたレティシアは、魔術や付与術に関する本に目を通していた。
机には本が積み上げられ、職員が彼女を訝しげに見つめる。
それでも、彼女がそのことを気にする様子もなく、ひたすら本のページをめくり続けた。
紙とインクの香りが静かな空間に広がり、時折受付にいる職員が小声で対応している。
歴史的にも貴重価値が高い古い本は、閲覧禁止になっており、アランがいる時に来ればよかったと後悔しているようにも見えた。
レティシアが図書館に籠っている間、ステラは街で情報収集していた。
ステラが必要だと感じればその都度、レティシアと視覚と聴覚を共有する。
1度に2つのことを行うことは、それだけで情報の処理が大変だ。
しかし、レティシアの表情からは、その様子が見受けられない。
けれど、時折ため息をつく彼女の雰囲気は、疲れているようにも見えた。
図書館の閉館時間になると、レティシアは本を数冊借りて図書館を後にした。
すでに辺りは暗く、空には無数の星が輝き、月明かりは優しく街を照らす。
レティシアが暫く歩いていると、ステラがタイミングよく表れた。
そのことから、ステラがレティシアを待っていたのだと分かる。
硬かったレティシアの表情は、ステラを見て次第に柔らかくなった。
「ステラ、待っててくれてありがとう。宿屋に帰ろっか」
レティシアが微笑んで言うと、軽い身のこなしでステラがレティシアの肩に飛び乗った。
そして、彼女の頬をステラは、ペロッと舐めて頬を擦り合わせる。
『帰ろうレティシア』
『今日はどうだったの?』
『今日も破片の手掛かりはなかったわ』
『そう、私の方も全くダメね……この様子じゃ、直接魔塔関係者に聞かないと、無理なのかもしれない』
『でも、魔塔関係者は……』
『うん……分かっているわ。この時期に彼らと接触しても、きっと何も教えてもらえない』
そう言ったレティシアの声はどこか悲しげだった。
ステラは軽く地面の方を向き、レティシアは空の方を向いた。
ゆっくりとした足取りで、レティシアは宿屋に続いている道を歩く。
アランがリグヌムウルブの街を出た後から、まるで待っていたかのように、至る所でトラブルが増えた。
そのトラブルには必ずと言っていいほど、魔塔関係者が絡んでいる。
アランが王都へ出発し、1日でこうもトラブルが増えると、さすがに誰かの思惑が絡んでいるとしか思えない。
そのことで、レティシアはイヤな胸騒ぎを覚えた。
宿屋の部屋に帰ると、レティシアはゆっくり湯浴みをして過ごした。
そして、湯浴みを終えた彼女は、タオルで髪を乾かしながら、図書館で借りた本に目を通す。
静かな部屋には、本のページをめくる音だけが聞こえ、一定のリズムを刻む。
あまりにも真剣な表情で本を読む彼女に、ステラは声がかけられず、ただ足元の近くで丸くなっている。
本のページをめくる音が心地よく聞こえる部屋に、突如としてドアを叩く音が部屋に響き渡った。
夜もだいぶ遅い時間に、連絡もなしに人が訪ねてくることは考えにくい。
そのため、レティシアは手を止め、ステラは体を起こし、その音源であるドアの方向へと警戒の視線を向ける。
もう1度ドアを叩く音が聞こえると、レティシアとステラ警戒したままドアに近寄った。
「はい、何か御用でしょうか?」
レティシアはドアを開けることもなく聞くと、ドアの向こうから荷物を床に下ろす音が聞こえた。
(殺気は感じないわ……誰かしら?)
「ララ、オレなんだけど……えっと……ジャンです」
(え? いやいや……さすがにジャンは来ないでしょ……)
戸惑いながらも、レティシアは警戒しながら少しだけドアを開けた。
すると、荷物を床に下ろしたジャンが、そこに立っている。
理解が追いつかない頭で、レティシアは結界魔法の入出制限にジャンの名前を加えた。
そして、彼を部屋に招き入れると、少しでも状況を理解しようと、彼に尋ねる。
「えっと……数日間は1人だと聞いていたんだけど……どういうこと?」
「ああ、オレが早馬を乗り潰してきたんです。みんながララ様のことを心配してましたので」
「そうなのね、えっと……それで、なんでジャンが来たのかな?」
「それは、マルシャー領にいて、自由に動けたのがオレだったからです! 後……ララ様を1人にしておけば、食事を忘れて物事に集中することがあるので、ララ様の健康も考えてオレが選ばれました」
食事に関して言われると、レティシアは何も言えなくなる。
実際にこの日、彼女は朝から何も口にしていない。
レティシアがフリューネ領にいた頃、彼女はおなかが空くたびに食事の催促をしていた。
だが、マルシャー領に行ってからは、その頻度が減っていき、次第に催促しなくなった。
そして、周りが気付いた時には、誰かが声をかけなければ、食事をとらなくなっていたのだ。
「そういうことね……それなら、ジャンの美味しいご飯を楽しみにしているわ。それと、この子はステラって言うの、私の使い魔なのよ。だから、この子のご飯も用意してくれると助かるわ」
「かしこまりました。ララ様、お元気そうで良かったです」
ジャンは床に膝をついて言うと、レティシアを抱きしめた。
「ジャンもね」
マルシャー領を離れて、それほどの月日は経っていない。
それでも、長い間ジャンに会っていないように感じ、レティシアもジャンのことを抱きしめ返した。
「さっ! 台所を案内してください。ララ様のことなので、まだ何も食べてないのではありませんか? オレがお作りします」
「確かに食べてないわね……ありがとう。台所はこっちよ」
レティシアは台所や部屋の中をジャンに案内して回りながら、彼からの近況報告を聞いて行く。
彼の話が進むぬ連れて、レティシアの表情は難しいことを考えている顔に代わる。
なぜなら、ヴァルトアール帝国内でも、エルガドラ王国とガルゼファ王国のことが話題に上がっており、志願兵の募集が行われているとのことだった。
彼の声は深刻なトーンで、その事実がどのような影響をもたらすのか、分かっているようにも思える。
(それしても、情報が早いわね……独自の情報網がある皇家や上級貴族なら分かるけど、冒険者でもそんなに情報が早いものなの?)
彼女の経験上、不確かな情報だけで情報屋は結論を出さない。
それは、確かな情報が彼らのなりわいでもあるからだ。
不確かな情報は次第に信用を無くし、情報を買ってもらえなくなる。
その時、窓の外から男性同士の怒鳴り声が聞こえ、ジャンは窓の方を向いた。
しかし、レティシアとステラが微動だにしていないことから、彼はこの街の現状が推察できる。
彼は窓からレティシアに視線を戻すと、彼女と視線が重なった。
「ジャン、悪いんだけど、夕飯を頼めるかしら?」
「分かりました。時間も時間ですし、簡単な物をお作りしますね」
レティシアに夕飯を頼まれたジャンは、彼女が顎に触れながら考える姿を不安げに見つめる。
けれど、レティシアは空間魔法からブローチを取り出し、ニルヴィスのブローチと通信をつなげた。
『レティシアちゃん、どうしたの~?』
「あ、ニヴィ、さっきジャンが着いたから、連絡しておこうと思って」
『そっかそっか! あのね、今度また連絡してくれると、助かるんだ~今、ちょっと面倒な人が来たところだから』
「えっ? そうなの? 分かったわ。それなら明日にでも連絡するわ」
『レティシアちゃんありがと~! それじゃ、またね!』
『ニルヴィス、まぁ、待て。フリューネの姫なら、私も話したいことがある』
通信の向こうで慌ただしい音がすると、聞き覚えのある声が聞こえ、レティシアの表情は険しいものへと変わっていく。
『レティシアよ、そこにまだいるのだろう?』
「はい、ここに。皇帝陛下、お久しぶりでございます」
『ああ、久しぶりだな』
「早速ですが、ご要件を伺っても?」
『ああ、私も話を聞いてから、早急にやるべきことを済ませて、皇后の転移魔方陣を使ってここに来たところだ……だが……君と通信がつながっていて良かったよ』
(あれ? 前回と声の雰囲気が違う……? どうしたのかしら?)
『レティシアよ、君にとってつらいことを言うが、どうか私を許してほしい』
「言っている意味が分かりません。いったいなんでしょうか?」
レティシアが聞くと、皇帝は悲し気にブローチを見つめた。
沈黙の中で、窓の外から虫の鳴く声が聞こえ、静寂を許さない。
皇帝は目を1度閉じて唇を甘く噛み、覚悟を決めたように静かに息を吐き出す。
そして、ゆっくり目を開けると、重たい口を開く。
『当分の間、ヴァルトアール帝国はレティシア・ルー・フリューネの入国を許可しない!』
皇帝の言葉に、彼の近くにいたニルヴィスは目を見開いた。
帝国がレティシアの入国を認めないとなれば、彼女の帰国が伸びるだけではなく。
最悪の場合、ルカと共に帰国ができない可能性も出てくる。
そうなれば、彼女は見知らぬ土地に残され、護衛を付けずに過ごさなければならない。
「えっ!? 皇帝陛下! 本当に意味が分かりません! なぜですか!?」
『実はな……こちらでエルガドラ王国とガルゼファ王国の話が、思ったよりも早く広まった』
「はい、先程その話を聞いて、私も早いと感じました。ですが、そのことと私の帰国を許可しないことと、どうつながるのでしょうか?」
『そうだな……』
「皇帝陛下?」
『私の……雪の姫が、数時間前に息を引き取ったのだよ……』
「えっと……皇帝陛下? それはどういうことでしょうか?」
『君の母……つまり、エディット・マリー・フリューネが亡くなったのだ……そのため、君の安全のために、今は帰国を認めるわけにはいかぬ。レティシアの継承権は承認しているが、まだそれを私から公にするつもりはない。もし君に危害が及べば、私は……私の雪の姫に顔向けができないからな……』
「皇帝陛下、冗談でも言っていいことと、悪いことがございます」
レティシアは震える手でブローチを持ちながら、ハッキリと言い切った。
『そ、そうですよ~陛下、そういう冗談は止してくださいよ~』
動揺しつつも、ニルヴィスは言った。
しかし、拳を強く握った皇帝は大きな声で言う。
『私だって冗談だと、嘘だと思いたいさ! だが、確かにリタが慌てて城に来たのだ……』
「陛下……どうか、嘘だと、冗談だと、この間のように、笑ってください……」
目に涙を溜めたレティシアは、そう言うのがやっとだった。
信じたくない、嘘だと言ってほしい、そう思えば思うほど、これが夢だと現実逃避したくなる。
『ふっ、私だって同じことが言いたかったさ……、私は……エディットが延命治癒装置に入った頃から、覚悟していた。覚悟していたはずなのだ……だが、いざ先立たれると……覚悟などできてなかったのだと思い知らされるな……』
レティシアは膝から崩れ落ちると、手に持っていたブローチは床に転がる。
皇帝のすすり泣く声が、ブローチから部屋の中に広がった。
その声が、先程の話が嘘ではなく、真実だと語る。
レティシアの目から溢れ出した大粒の涙は頬を伝い、彼女の太ももに零れ落ちていく。
(私は……私のことを愛してくれたお母様を、助けることも、見送ることもできないのね……)
レティシアも皇帝と同じように、エディットが延命治癒装置に入ったと報告を受けた日から、心のどこかで覚悟はしていた。
それでも、まだ助けることができるのなら、助けたいと思って彼女は手がかりを探してきた。
彼女の目の前は、暗闇に突き落とされたように暗くなっていく。
『すまないレティシア……私は君を、エディットから頼まれた君を……どうにかして、守らなければならない。だから……だから、どうか、どうか今は耐えて帰国を待ってくれ……。すまない……私に精霊の力さえあれば、エディットを守れたかもしれないのに……すまないレティシアよ。エディットの葬式は、皇家が責任を持って行う。そのため安心してほしい。君にとって不甲斐ない皇帝で、すまない』
『待ってください! それならレティシアちゃんがフリューネ家を継いだと陛下から告げて、帰国させた方がいいんじゃないですか!?』
ニルヴィスは悲しみに満ちた表情で必死に言ったが、皇帝は声を荒らげる。
『本当にエディットの子どもかも分からない、あの息子がいるのだぞ!? 相手の本当の狙いも、目的も分かっていない……単純に爵位を継ぎたいと思っているだけなら、次に命を狙われるのは、レティシアかもしれないんだ!
エディットのことだって、どうやって帝都の病にかかったか、未だによく分かっていないのだ! 仕組まれたことだと私は思っているが、その手口も、犯人に繋がる証拠もない!
それに、レティシアが戻って来たとなれば、あのダニエルのことだ……なんだかんだ理由を付けて、早々にレティシアの婚約者を連れてくることも、容易に想像がつく。そうなれば、当主がレティシアだと公にしなければならなくなる。よく考えろニルヴィス!』
皇帝の表情は、ニルヴィスと同様に悲しみに満ちており、心からの叫びにも聞こえる。
けれど、ニルヴィスと皇帝が話す声は、レティシアの耳に届くことはなかった。
神歴1496年8月4日。
ずっとレティシアが探していた指輪の真実に、関係がありそうな手がかりを見つけた。
そう思った、そんな矢先の出来事だった。




