第80話 不穏な空気
レティシアが、噴水の近くで女性の遺体を見つけて1週間が過ぎた、神歴1496年8月3日。
リグヌムウルブの街には、張り詰めた空気が漂っていた。
噴水の周りにある花壇から、魔導師のバッジが見つかった。
それによって、人々の中では犯人が魔塔関係者だという憶測が飛び交っている。
そして、この日も宿屋に籠っていたレティシアは、窓から外の様子を眺めていた。
宿屋の前の通りでは、魔塔関係者と思われる男性と、獣人の男性が言い争っている。
些細なことから始まった言い争いは、次第に人を寄せ付けて大きくなっていく。
(私が戦争を起こす前に、エルガドラ王国とガルゼファ王国が戦争になるんじゃないの?)
レティシアがそう感じてしまうほど、人々の間には不穏な空気が流れている。
本来であれば、互いが大人の対応していれば、平和的に治めることのできる小さなトラブル。
それさえも、不穏な空気や相手に対して持った不信感が募り。
騎士たちが、止めに入らなければならない騒動にまで発展している。
(それにしても多いわね……まるで人々の不安を、煽っているようにも見えるわ)
窓の外を眺めていたレティシアが、部屋の中の方を見ると、アランが慌ただしく動いている。
それは、出掛ける準備を始めてから、1時間経っても終わっていない。
「アラン、念入りに準備しているけど、どこかに行くの?」
「ああ、これから城に戻る。ガルゼファ王国とのことで、未だに体調が良くない親父に代わって、おれが話し合いをすることになった」
「そうなのね、それじゃ」
「ララには悪いが、君にはここに残ってもらう」
アランは、一歩踏み出しながらレティシアが言うと、彼女の言葉を遮った。
そのことに対し、レティシアは不満に感じながらも、顔に出さないようにしながらアランに尋ねる。
「それは、この前私が話したことと、何か関係があるのかしら?」
「そうだな、ないとは言えない。それと、ヴァルトアール帝国から連絡を受けて、あの皇子も連れて行くことになった。その護衛にアルノエも連れて行くが、ララを1人でここに残らせることを、ルカは良く思わなかった。でも、おれはステラがいるから問題ないと思ってるし、もしララを連れて行くなら条件として、魔力封じの首輪と手枷を君にすると言ったら、ルカもここに君を残すことに、納得してくれたよ」
魔力封じの首輪と手枷をともに使うということは、傍から見たら罪人と変わらない。
それでも、アランは冷静な態度で話し、レティシアは顔を顰めた。
「そこまで私を警戒しているの?」
「おれはララのことを警戒してない。ただ……ララを連れて行くなら、魔法が完全に使えない方が城の中も安全だからだ」
「よく分からないけど、城の中も安全じゃないなら、普通は魔法が使えた方がいいんじゃないの?」
「あのな……ララは魔塔や教会に連れて行かれたくないんだよな? それなら、魔塔や教会関係者が多く滞在してるあの城の中では、完全に魔法が使えない方がいいと思ったんだよ。魔力に反応する代物とかいろいろあるからな。それに……城の中に、こちらの味方と言えない精霊師がいる。それなら、なおさら魔力を完全に封じた方が安全だろ」
「確かに精霊師がいるなら、精霊が反応しないように魔力は封じた方が安全ね。それなら仕方ないわ。それで、いつ頃ここに戻るのかしら?」
「王都までは馬車での移動になる。往復だけで考えても、2週間ほど移動に日にちが掛かるから、どんなに早くても1ヵ月は戻って来ない。その間、幼い君を1人にしておけないと思って、ルカに頼んでヴァルトアールから人を呼んでもらった」
(また、私の知らないところで、勝手に話が進むのね……)
レティシアはそう思うと、胸がズキッと痛み、彼女は胸を押さえた。
しかし、そのことを気付かれないように、笑顔を作り上げた彼女は微笑んだ。
「分かったわ。気を付けていってらっしゃい」
「ああ、悪いな。数日間は1人かもしれないけど、危ないことはするなよ? それと……これ、ありがとう。ララのことを信用してる」
アランは新しくレティシアが渡したピアスを触って言うと、ニコッと無邪気に笑う。
そして、レティシアの頭に優しく触れて、何度も優しくなでた。
その手はわずかに震え、見上げている不安げな彼女の表情が彼の視界に入る。
それでも彼は「大丈夫、おれは帰ってくるから」と言うと、彼女に微笑んだ。
アランは命を狙われている。
敵が誰かも分からないまま、最も命を狙われた城に戻るのだ。
恐怖を感じていても、何もおかしなことではない。
食事に毒が混入していたこともあり、城に向かう4人は、口にするものにすら気をつけなければならない。
それが意味することは、城に滞在する期間中は常に警戒が必要になり、今以上に神経が磨り減るということだ。
アランがレティシアから離れると、ルカはレティシアの所に向かった。
彼の服装は上から下まで黒で統一されており、赤い瞳と陶磁器のような白い肌が、より美しく見える。
「ララ、アランに聞いたと思うけど、ヴァルトアール帝国から自由に動ける人を呼んだ。数日間は1人かもしれないけど、1人で森に入ったり、無理はしないでほしい。それと、なんかあったら、ブローチでニルヴィスやロレシオと連絡を取るといい。後、分かってると思うが、今度は指輪じゃなくて杖を選んだんだ、頼むから壊すなよ?」
「分かったわ、ありがとうルカ」
順番を待っていたであろうテオドールは、ルカが離れると一歩踏み出した。
しかし、アルノエが無表情のまま、テオドールを引っ張るようにして彼を連れて行く。
テオドールの抵抗する声が部屋に響き、ルカとアランが話す声と交じり合う。
途端に小さく笑う声がすると、頬を少しだけ緩ませたレティシアがいた。
出発間際、ルカは手招きして、静かにステラを呼び出した。
彼は、ステラにレティシアのことを念入りに頼んだ。
レティシアを残していくことに対し、不安があるのだろう。
彼の表情から憂いが感じられ、ステラが真剣な表情で聞いている。
ステラは彼の気持ちにこたえるように、力強く何度も立てに首を振った。
ルカたちが出掛けて行くと、宿屋に残されたレティシアは、広くなった部屋を見渡した。
いつもより広く感じる空間は、ただ静かに広がり、残されたことを実感させる。
突然俯いた彼女は、洋服の裾を掴み、下唇を噛んでしまう。
それは、まるで必死に残された事実と向き合っているかのようだ。
けれど、彼女は顔を上げると、決意に満ちた表情を浮かべ、部屋の中央まで進む。
部屋の真ん中まで行くと、彼女はその場に膝をついて魔方陣を描き始めた。
奇麗に描かれる魔方陣は、入出制限を含んだ結界魔法である。
これから、ルカたちが戻るまで、ここを守るのは彼女の役目。
そのため、自分の身は自分で守らなければならない。
入出制限は、ここを1人で守るのに最も適している魔法だ。
1人で守るからこそ、彼女がやらなければならないことでもあった。
描いた魔方陣を見ながらレティシアは「こんなもんね」と言った。
すると、ステラは静かに魔方陣を観察するように見た。
丁寧に描かれた魔方陣に間違いなど見当たらない。
それでも、魔方陣を見つめるステラは、思わず眉を顰めた。
8歳の子どもが描いたにしては、あまりにも奇麗で、そのことに対して違和感すら覚える。
しかし、それよりも気になったことが、彼女にはあった。
『レティシア、これは誰に教えてもらったの?』
「そうね、私が住んでいた家の書庫にあったわ」
『手を加えたでしょ?』
「そんなに加えてないわよ?」
『これ、他であまり使わない方がいいわよ。この世界の知識じゃないものが、入っているわ』
「どこら辺が違うの?」
『この辺りは、ステラの知らない知識』
ステラが指し示したのは、レティシアのオリジナルで作った魔力遮断結界が描いてある場所だ。
そのことから、レティシアが作り上げた魔法は、この世界に存在していない証明にもなる。
「それは、私のオリジナルだから、ステラが知らなくても大丈夫よ。他に気になるところはある?」
『ないわよ、後はステラも知っている』
そう、ステラも魔方陣に描かれていることは、知っている。
しかし、魔法や魔方陣は “知っている=使える” に直結しない。
だからこそ、高難易度の魔方陣を、レティシアが描いたことに戸惑いもある。
そして、魔方陣が正常に発動したことも、ステラを驚かせた。
(後でこの世界にある、魔法封じ系のアイテムを確かめておいてもいいかもしれないわね……もしかしたら、違う付与術が使われているかもしれない)
ステラの反応からレティシアはそう思うと、出掛ける準備を始めた。
アランが城に向かったことを考えれば、エルガドラ王国とガルゼファ王国の状況は芳しくない。
そのため、少しでも街に出て、今の状況を彼女自身が確かめる必要があった。
それは、街の状況だけに留まらず、今後予定している魔の森に向かう討伐のこともだ。
情報収集ができないルカやアランのためにも、魔の森の情報を集めておく必要がある。
そして、他にも気になることが彼女にはあった。
準備を終えたレティシアは、ステラを連れて宿屋を出る。
彼女はできるだけ気配を消し、冒険者ギルドへと向かった。
冒険者ギルドに入ると、レティシアは立ち止まることもなく掲示板へと向かう。
ギルドに集まる冒険者の人数も多いが、掲示板にはびっしりと、様々な依頼が出されている。
端から端まで見ていくと、以前に見た時より、回復薬に使う薬草採取の依頼が増えていた。
しかし、それと同じように、魔物討伐の依頼も格段に増えている。
(前回、討伐部隊を組んだ討伐から、日数が空いているのもあるけど……それでも、魔物討伐の依頼が異常に多いわね)
『ステラ、文字は読める?』
『読めるわよ? 魔物討伐の依頼が多いわね』
『ステラはこれを見て、どう思った?』
『ん-。質問の意図が分からないけど、ステラが森を離れてから、操られている魔物が増えたかもしれない、とは思ったよ』
『ごめん……そういうことが聞きたかったの。ステラがそう思うなら、そうなんだろうね』
『アランたちが、次に魔物討伐に向かうのっていつなの?』
『この前、アランに聞いた時は、回復薬の補充とかで、来月の中旬って聞いたわ』
『そう、その前にアランたちが帰ってきたらいいね。その方がちゃんとした作戦が立てられるわ』
『そうだね、何事もなく、無事に戻ってきたらいいけど……』
レティシアはテレパシーで伝えると、掲示板から張り紙を1つ取った。
そのまま彼女は流れるように振り向き、出口へと向かう。
空は晴れ渡り、眩しく太陽はリグヌムウルブの街を照らす。
眉間にシワを寄せたレティシアは、目を細めると手で太陽を隠した。
けれど、彼女は歩き始めると、図書館がある方向へと進む。
肌に張り付くような暑さとは裏腹に、彼女の気持ちは冷めていた。
レティシアは歩きながら、先程手にした張り紙に目を向ける。
その張り紙には【志願兵募集】と書かれていた。
彼女は張り紙を睨むように見ると、ボッと張り紙が燃え上がる。
たちまち張り紙は黒く変わり、灰となった紙は風に乗って飛んでいく。
(私も人のことは言えないけど、私と同じような愚か者が戦争を起こそうとしているのね)
図書館に向かう足取りは力強く、彼女の瞳は前を見つめている。
リグヌムウルブの街は賑わい、けれど、目に見えない暗い影を落としていた。




