第76話 月明かりと朝日
月明かりは小さくなったフェンリルと、幼いレティシアを美しく照らし出す。
風は木の葉を揺らしながら吹き、まるで使い魔になったフェンリルに、魔の森がさよならを告げているようだ。
初めて使い魔と契約した少女は、肩に乗る小さくなったフェンリルの頬を優しくなでるながら聞く。
「ねぇ、その名前で本当に良かったの? 私が死ぬまでか、契約を解除しない限りその名前よ?」
『ステラという名を、私は気に入ったぞ? それはそうと、レティシアよ。そろそろ戻らなければ日が昇るぞ? そなたは戻らなくとも良いのか?』
レティシアは言われてすぐに上を向くと、星がまだ輝き、深い群青色の空が広がる。
しかし、移動に掛かった時間と戦闘していた時間を考えれば、野営しているとこらから離れて結構経つ。
「まずいわ!! 見つかったら確実に怒られる! 急いで戻るから、振り落とされないでねステラ!」
慌てた様子でレティシアは言うと、身体強化と浮遊魔法を使って木々の上まで浮上する。
朝を告げる光を待ちわびながら、空にはたくさんの星が煌めく。
彼女が移動を始めると、風の音で他の音が聞こえなくなり、ステラはレティシアの上着に入った。
レティシアの髪が風になびき、その動きが彼女の速度を物語る。
少女の顔には焦りが見え、それでもわずかに口角が上がる。
長年レティシアは、使い魔を求めていた。
そのため、予想していなかったことだが、この出会いに喜びもあるのだろう。
野営ポイントが近付くと、レティシアは地面に降りて今度は森の中を駆けて行く。
彼女の足が地面を蹴るたびに、土や小石が後ろに散らばる。
しかし、その音はわずかに遅れて聞こえ、通り過ぎた所から風が舞う。
野営ポイントにたどり着くと、レティシアは辺りを見渡しながら恐る恐る足を踏み入れた。
彼女の鼓動は早く、呼吸は乱れて肩で息をする。
焚火の所では、まだ獣人族の2人がスヤスヤと寝ており、テントの外には他の気配がない。
そのことに彼女は安心して深く息を吐き出し、額の汗を洋服の袖で拭った。
(バレていないわね……危なかったわ……)
「ねぇ、ララ? 君はどこに行っていたのかな?」
背後からレティシアがよく知っている者の声が聞こえ、彼女は驚いたように肩が上がった。
背筋をピンと伸ばした彼女の額からは、今度は先程と違った汗がジワリと滲む。
ゆっくりとした動作で彼女が振り向くと、腰に手を当てながら立っているルカが笑顔で見つめている。
しかし、その目が少しも笑っておらず、怒っているのだと彼の雰囲気が語る。
レティシアの背中から冷たい汗が流れ、彼女の手が微かに震えていた。
「えっとね……ルカ……こ、これには、ふかぁぁい事情があってね……」
「うんうん。俺が怒るって分かってて、それでも黙って行くふかぁぁい事情ってなんなのか、俺も詳しく知りたいかなぁ?」
レティシアが困ったように額に汗をかきながら言ったが、それでもルカは表情を変えずに聞いた。
彼の声はとても冷たく、感情のこもっていない声は肌をゾッとさせる。
ルカは空間消音魔法を使うと、再度レティシアに同じ質問を繰り返す。
気配からルカは彼女が何かを連れていることに気付き、それがさらに彼の怒りに水を差した。
そのため、彼の声はさらに冷たさを増し、レティシアの心臓は激しく音を鳴らす。
「それで? 上着に入ってるのは何か、説明してもらえるかな?」
ルカがそう言うと、ステラがレティシアの上着から出て姿を見せた。
瞬時に、彼はその正体が幻獣であることに気が付き、震えてる幻獣に目を向ける。
幻獣は珍しく、容易く国を滅ぼせる存在だ。
その幻獣がレティシアといることで、ルカは苦虫を嚙み潰したような表情をした。
「はぁ……本当に黙るのやめてくれないかな? レティシア、このことに関しては君が悪いと分かってるよな?」
「はい、分かっています」
「それなら、何があったか説明してくれるかな? 俺も幻獣が出て来たことで、結構君に詰め寄りたい気持ちを我慢してるんだ。ちゃんと説明がないなら、その子は連れて行けないよ?」
『フェンリル、お前も分かってるよな? たとえお前がどんなに強くても、俺の前じゃ無力だってことを……消されたくなければ、包み隠さず話せ』
ルカはレティシアに尋ねるように聞いた後、テレパシーを使ってステラに話しかけていた。
彼の声は冷静さと厳しさが混ざり合い、しかしその声には怒りや脅威も含まれ威厳を感じられる。
ステラはルカから感じた殺気に、思わず後ずさってレティシアの方を見上げた。
しかし、レティシアが反応していないのを見ると、ルカの殺気は自分だけに向けらたのだと知る。
そのため、彼が本気で彼女を、この世から消し去る力を持っていることに気付いた。
『……人の子の分際で、人の身に余る力を持っておるのか』
『黙れ。彼女にそれ以上のことを聞かせてみろ。容赦なく本気でお前を消す』
『……青臭いのう……なぁに、心配せずともこの会話は彼女には聞こえておらぬ』
レティシアはルカの顔と、足元にいるステラを交互に見ていた。
ルカが本気だということも、長い付き合いで分かっている。
そのため、話さなければと思うが、彼がなぜ怒っているのか分かっているからこそ、言葉が出てこない。
喉の渇きを感じながら、彼女は恐る恐る彼に説明するために話し出した。
「あのね……気配はずっと気が付いていたの……それで、呼ばれた気がして……」
「それで? 1人で向かったのか? 俺を呼ぶことは考えなかったのか?」
『それで、何が目的だ?』
ルカは口ではレティシアに聞き、器用にテレパシーを使ってステラに尋ねた。
表情を変えず冷たく聞いたルカに対し、ステラは息を吐き出し、レティシアは困ったように眉を下げてしまう。
ステラの表情は悲しげで、フェンリルとしての威厳はどこにもない。
そして、レティシアはルカに対し弱弱しく答え、ステラもテレパシーを使ってルカに話す。
「起こそうと思ったわ……でもステラが離れていくから……1人で来いってことだと思って……ごめんなさい」
『警戒せんとも良い。この力は彼女のためにしか使わぬし、彼女が望まなければ使わぬ。魔物の異変のことで、彼女とそなたらの力を借りたいのだ……私が森の中に居っても、そのうち傀儡にされてしまうと思うてな……それなら彼女について行こうと決めたのだ……少年は不服だろうがな……だが、これは森の魔物たちとも話した結果だ』
ルカは頭をかくと、苛立ちを吐き出すかのように深くため息をついた。
レティシアの言い分も、ステラの話も、どちらも理解できる。
それでも、ステラさえいなければと考えてしまい、ステラに鋭い目つきを向けてしまう。
しかし、レティシアの話に関しては納得ができずに、彼の感情がめちゃくちゃになる。
結局のところ、彼女にとって彼の存在とは一体なんだろうと考えてしまい、ルカはレティシアに尋ねる。
「それでも、テレパシーを使って起こすこともできただろ? 何が起きてるのか分からないこの森で、突然何も伝えずに俺が消えたら、レティシアは心配しないのか?」
ルカの言葉を聞いて、レティシアは俯いてしまう。
彼女は彼が心配するとは考えていた。
そのため、彼が気付く前に戻る予定だった。
しかし、彼がどのような気持ちになるのかまでは、少しも考えていなかったのだ。
レティシアは何も答えられず、暫しの沈黙が流れて空気が重く変わる。
けれど、小さく息を吐く音がすると、彼女は顔をあげた。
「……レティシア、君はもう少し護られる側の人だと自覚を持った方がいい。君がいなくなったことで、少なくとも俺は心配したし、エディット様から君を任せられた俺は、君を絶対に護らなければならない。それなのに、君が突然いなくなれば、それもできなくなる。
君が1人で考えて行動できるのも知ってる……だけど前にも言ったよな? 自分を大切にしてくれって。その言葉の重みを、君はもう一度よく考えるべきだ。そうすれば、決してこのようなことは、しなかったはずだからな。
それとステラ、レティシアの近くには俺もいたはずだ。それなら、幼いレティシアだけを呼ぶんじゃなくて、俺も呼ぶべきだと思うが? これからレティシアと行動をともにするなら、君も彼女の身の安全を考えて動くべきだ。それが使い魔として契約した者の使命でもあるからな。
後、ステラにはこの後に話があるから、俺に付いてこい。……次は許さないからな」
ルカは真剣な面持ちで言うと、レティシアとステラの頭をクシャと優しくなでた。
そして振り返り、足早にテントの方へと向かう。
『レティシアよ……約束しよう……ステラは、あの者を2度と怒らせぬ』
ステラはそう言って、ルカが立っていた場所を見つめながら小さく震えていた。
東から登る太陽が彼女の震える姿を柔らかく照らし出し、周囲の木々は静かに風に揺れる。
しかし、彼女はおもむろに歩き始め、まだ震える手足でルカの後を追う。
彼女の足音は焚火の音と混ざり合い、鳥たちが優しく見守る。
テントの中に入ったルカは、苦しそうに胸を押さえた。
結局レティシアが何も言わなかったことを考えると、胸が締め付けられるよに痛む。
けれど、彼にはその感情が何か理解できず、ただ痛む胸を押さえることしかできない。
彼を夜に置き去りしたように、昇り始めた朝日がテントの中をほんのり明るく照らし、影を落とす。
喉の奥が焼けるように熱く、呼吸をすればするほど息が苦しい。
彼は腰に手を当てながら天井を向いて、肺を満たすために空気を吸い込んだ。
それでも痛む胸は苦しく、気持ちを押し込めるように彼は息を止めた。
歯を食いしばって心の中に湧き上がる感情を抑えつけ、目を閉じて自分を落ち着かせる。
そして、正面を向いてゆっくり息を吐き出し、時間をかけて少しずつ瞼を開けていく。
テントの入り口がわずかにめくれ、そこから日の光が反射して入り込む。
その光を目で追いながら、彼は唇を軽く噛んだ。
『あぁ……面倒くせぇ……』
ルカのテレパシーが聞こえると、ステラは先程まで恐怖しか感じなかった彼の雰囲気が、変わっていることに驚いた。
しかし、先までなかった彼の服にシワを見つけると、彼が感情を押し込めてくれたのだと悟る。
ステラはルカの前まで行くと、彼を見上げながら腰を下ろした。
この少年がレティシアのことを、どんなに大切に思っているのか知り、ステラは自分の行動を申し訳なく思う。
そのため、話しかける彼女の声も柔らかいものとなる。
『そう申すな少年……少年が彼女のことを大切に思うとるのは、私には分かる。だが、それでも力を貸してもらえぬか?』
暫くの間、テントの中で沈黙が流れた。
少年を見上げる白い幻獣は、ただ静かに彼の言葉を待ち続ける。
彼の表情は険しく、それでもどこか悲しげにも見えた。
しかし、沈黙は彼のため息によって終わりを告げる。
『……分かった……だけど、いくつか条件がある……。まず俺の力に関しては、彼女には言わないでほしい……これは絶対だ……』
『……良かろう。彼女の雰囲気からしても、そなたのことを大切にしておるようだしな……それは守ろう。他には何かあるのか?』
『ああ、俺がレティシアに何を言っても、多分……使い魔を手に入れた彼女は、俺の手を離れて自由に動き出す……だから、俺が傍にいない時は護ってほしい……頼めるか?』
今にも泣きそうな表情でルカが言うと、ステラは彼の思いの重さを知る。
そして、その気持ちの意味も、その正体にも気が付いていないのだと感じた。
ステラから見ればルカは赤子も同然だ。
それでも、人の身に余る力を持ち、傍から見たら幻獣よりも恐ろしい存在。
その彼が切実に頼む姿に、ステラは彼の危うさと彼の優しさを感じ取った。
『……本当に青草いのう……。契約を結んだ以上、彼女の身を護るのが私の使命でもあるが……良かろう。そなたの頼みだと思うて、傍を離れぬようにしよう』
『悪いな……頼む……』
ルカはそう言うと、足元に視線を向けた。
目を強く閉じて拳を握ると、次第に拳は白く変わる。
結局、彼には彼女を止めることなどできない。
そのことを知っているからこそ、複雑に感情が渦巻き、彼を苦しめる。
しかし、少しでも彼女の安全が確保できるなら、今は彼女の使い魔に頼るしかない。
そして、彼には割り切るしか、気持ちの行き場がないのだ。
外では小鳥がさえずり、他のテントから人があくびをしながら出てくる。
世界は鮮やかに染まり、新しい1日の始まりを告げていた。




