第75話 森に潜む影と月明かり
翌日の夜明け前に、レティシアは誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。
彼女は音を立てないようにテントの外に出ると、辺りはまだ暗く、わずかに温もりを求めてしまう。
空には夏の星が輝き、澄んだ空気がより煌びやかに星を輝かせる。
彼女が焚火の方を見ると、火の番をしていた獣人族が2人とも気持ちよさそうに寝ている。
それを見て、少しだけ彼女は呆れてしまい、彼らを起こそうと近寄った。
しかし、獣人族の肩に手を伸ばした瞬間、再び森の奥から呼ばれた気がして彼女はその手を止めた。
急いで振り返り森の奥へと目を向けるも、そこにはただただ深い闇が広がる。
彼女は魔力探知の範囲を広げられるだけ広げ、呼ばれた気がした方角に1つの反応を見つけた。
今いる場所から遠いが、その反応が彼女を呼んでいたのだと感じた。
(遠いわね……身体強化を使って走っても、30分以上は掛かるわ……だけど、もしこれが罠だとしたら?)
レティシアはそう思うと、なかなか一歩を踏み出せない。
とりあえず、ルカかアルノエを呼ぶべきだと思い、彼女はテントに向かう。
すると、反応はさらに森の奥へと移動を始め、彼女が止まると反応の動きもピタリと止まった。
彼女はゴクリと喉を鳴らし、背中にはジワリと汗が浮かび上がる。
焚火が暴れるように燃え、ゴトゴトと音を立てて崩れていく。
(まるで……私の動きが見えてるみたいな動きをしてくれるわね……1人で来いってことかしら?)
レティシアの手は微かに震えていて、額には汗が浮かび上がる。
それでも彼女は両手で拳を握り、決意のこもった顔で森の奥へと歩き出した。
足元は暗く、頼りの月明かりも雲が覆い隠し、先に進むほどに辺りは闇に包まれる。
野営ポイントからある程度離れると、彼女は身体強化を使って走り出す。
そして、木々を器用に避けながら、魔力探知に反応があった方向に進む。
(反応が止まったままだわ……本当に私を誘っているみたい……それに、この魔力反応は、私たちを見張っていた魔物ね……罠だったら……覚えてなさいよ、絶対に許さないから!)
レティシアの速度がさらに上がり、森の中を駆け抜ける。
その動きは小さな獣のように速く、力強い。
木々が風に揺れ、彼女の足元からは、草を踏みしめる音や枝が折れる音が聞こえてくる。
しかし、眉間にシワを寄せた彼女が力強く踏み込むと、今度は浮遊魔法を使い木の上へと上昇した。
足元に淡い灰色と深い緑色のトーンが混ざり合う絨毯が広がり、雲に隠れていた月が姿を見せる。
辺りを見渡した彼女は、何もない空中を蹴るとまた進み出す。
景色は変わらず、彼女が通り過ぎた所から風が吹き始める。
魔力探知の反応があった上空にたどり着くと、彼女が足元を見渡す。
辺りはとても静かで、この世に彼女と足元の存在以外いないような錯覚にすら陥りそうになる。
それでも、静かに下を見ていた彼女がゆっくりと地上に降りていく。
木々は彼女の行く手を遮り、葉を揺らして音を立てる。
地面に降り立った彼女の目の前には、彼女の何倍も大きな黒い影が堂々とした様子で腰を下ろしていた。
黒い影を見上げる彼女を、影は静かに金色の瞳で見下ろす。
「初めましてかしら? 私を呼んでいたのはあなた?」
『人の子よ、そなたを呼んだのは紛れもなく私だ』
レティシアは黒い影がテレパシーを使ったことによって、知能が高いのだと思った。
そのため、黒い影が魔物を指揮していた存在の1つだと確証を持つ。
彼女は感情を隠し、黒い影を見ながら首をかしげて尋ねる。
「そう? それなら要件は何かしら?」
『なぁに、そなたが森から出る前に、少しだけこの前の借りを返そうと思うてな。だが……そなた……思うていたよりも小さいのう……』
「あら? それなら見逃してくれるの?」
黒い影の金色に光る瞳が、獲物を観察するような視線をレティシアに向ける。
彼女の体には、程よい緊張感と闘争心が漂っているようにも感じられた。
木々は風に揺れ、時折月明かりを雲が覆い隠す。
レティシアはポケットの中に手を入れると、何かを握りしめた。
彼女の首筋には汗が滲み、黒い影はまるで嘲笑うかのように笑う。
『見逃すとな? そんなわけなかろう! ここでそなたを食って糧にしてやるわ!』
黒い影は大きな牙を見せると、レティシアに襲い掛かる。
彼女は瞬時に攻撃をかわし、ポケットから短剣を取り出すと魔力を流した。
ガードの部分に赤いガーネットが付いた短剣は、元の大きさに戻り、月明かりに照らされ鋭くキラリと光る。
短剣はルカが彼女に贈ったもので、彼女が付与術式を刻んだものだ。
彼女は短剣を構え、剣先を黒い影に向けて告げる。
「それじゃ、今からあなたは私の敵になるけど……あなたを倒した後、この森にいるあなたの仲間も、私が始末してもいいよね?」
挑発的にレティシアが言うと、彼女の瞳は薬の効果が阻害され青く光を帯びる。
そして、彼女はニヤリと笑い、偽りのベールが剥れたロイヤルブルーの瞳は怪しげに揺れた。
『できるものならやってみるがいい! 小さいの!!』
黒い影は叫ぶように言うと、再びレティシアに襲い掛かる。
鋭い爪は振り下ろされるが、彼女は体格を活かしながら攻撃を避けた。
ドスンッという大きな音が森に響き、木の葉を落とし大地を揺らす。
それでもレティシアは怯む様子もなく、浮遊魔法を使いながら敵の急所を確実に狙いに行く。
しかし、予想していた手応えを感じることはなく、彼女は1度距離を取った。
(思ったよりも固いわね、これでも結構な量の魔力を流しているはずなんだけどなぁ。それに……挑発したのにもかかわらず、本気で私を倒しに来ないわね)
レティシアは黒い影が繰り出す攻撃を避けつつも、氷魔法を使って敵の足止めをしながら切り掛かる。
それでも、黒い影の皮膚は硬く、なかなか致命傷を与えることができない。
もしも長引くことになれば、体力的に幼い彼女の方が不利な状況だ。
彼女は短剣を左手に持ち替え、右手に魔力を集めながら攻撃をかわす。
右手に着けてる指輪の水晶は、扱える魔力量を超え、パリーンと甲高い音を立て割れると、黒い魔力が溢れ出した。
その瞬間、周囲の空気が震え、彼女の右手を中心に闇が深まる。
月明かりが消え、空気は熱を奪われたかのように冷たく変化し、吐き出される息を白く変えていく。
黒い魔力は地面を這い、木々の葉を枯らし、黒く染め上げる。
彼女の周囲は一瞬で闇の世界に変わり、青い瞳が闇の中で氷のように輝く。
「聖騎士や魔塔の関係者がまだ森にいるから、あまり使いたくなかったんだけどなぁ。そもそも私は、あなたにも紫の破片のことを聞きたかったのに……まぁ仕方ないよね。一撃で仕留めてあげるわ」
まるで楽しんでいるような声が闇の中から聞こえ、突然黒い影の動きが止まった。
黒い影は後ろに飛び退くと、地面が大きく揺れる。
『……小さいの、紫の破片と言ったか?』
「ええ、言ったわよ? それが何か?」
黒い影が動きを止めたことによって、レティシアは片方の眉を上げて答えた。
すると、黒い影は戦闘態勢を解き、彼女に尋ねる。
『あれが何か知っておるのか?』
「知らないわよ? だから、あなたに聞こうとしたら、罠だったとかさすがに笑えないわよ」
『……す、すまぬ……少しばかり、そなたと戦ってみたくてのう……』
黒い影は申し訳なさそうに言うと、体を覆っていた黒い靄が腫れていく。
徐々に白い毛並みが姿を見せ、黒い影は大きな狼に変わる。
レティシアはその姿を見て、相手が幻獣のフェンリルなのだと気付く。
そのため、右手に集めていた魔力を消し去り、彼女は地面へと降り立つ。
瞳の色も偽りのブラウンに戻り、彼女の周りの空気に熱が戻っていく。
彼女の魔力が消えたことによって、月明かりが堂々と佇むフェンリルを照らす。
その姿があまりにも奇麗で、レティシアの目は釘付けになったかのように動かなくなった。
『人の子よ、そなた名はなんという?』
「レティシアよ。今は事情があって、ララと名乗っているけど」
『そうか……ではレティシアよ。そなたを騙すような真似してすまなかった。そして……たくさんの仲間たちを解放してくれたこと、心より感謝する』
「やっぱり魔物たちの中に、あの紫の破片に操られていた魔物がいたのね……あなたはアレが何か分かるの?」
『私には分からぬ……突如魔物たちが、人族や獣人族を襲い始めたのだ。最初は私も止めていたが、それでも止まらず……』
「それで、あなたは森に入った私たちを追い出そうとしたのね」
『そうだ、その方がこの森が危険だと分かり、そなたたちも安全だと思うたからな……』
フェンリルがレティシアを見下ろしながら言うと、彼女は顎を触るように思考を始めた。
(街に戻ったら、いろいろと情報を集めたい。そのために、この事件が解決する間だけでもいいから、この子が私の耳と目になってくれたら……お互い知りたいことを調べることができるわね)
「ねぇ、フェンリルさん。提案があるんだけど、私と仮契約しない? 仮契約すれば、あなたは契約の効果で小さくなることもできるでしょう? そうすれば、街の中も自由に動けるから、いろいろと調べられるわよ? それに、仮契約だから、契約の解除はあなたの好きな時にすればいいわ」
仮契約とは、本来結ぶ契約とは違い、ある程度の縛りがある。
まず、契約は双方が対等な立場であること。
そのため、仮契約に主従関係はなく、どちらかが望めばいつでも契約解除ができる。
『……レティシアはそれで良いのか? 仮にも私は幻獣だぞ? 私の力がほしくないのか?』
「そうね……正直に言えば、私はあなたの目と耳を借りたいの。でもそれは、仮契約でも、あなたが意識を共有してくれればできることよ。だから、あなたが見た物を聞いたことを、私に共有してくれればいいわ」
『ふっ……欲がないな』
「欲ならあるわよ? 私は生きて、護りたい者を護りたいの。そして幸せになりたい……充分欲に塗れていると思うけど?」
首をかしげて言った小さな女の子を、フェンリルは目を細めながら見て小さく笑った。
『面白いのう……良かろう、そなたと契約しよう』
「本当!? それなら仮契約の結び方を説明するね! そうそう、あなた女の子よね!? 名前も考えてもらわないと、あ、もし今使っている名前があるなら、それでもいいわよ」
レティシアはキラキラと瞳を輝かせ、その声は嬉しそうだ。
しかし、しゃがんでお手本の魔方陣を描き始める彼女を、悲しげにフェンリルは見つめる。
そして『……レティシア、すまぬな』と呟き、彼女の足元に魔方陣を浮かび上がらせた。
地面に描かれた魔方陣の文字は赤く光り、彼女とフェンリルを包み込む。
レティシアは目を見開き、咄嗟に魔方陣の文字を目で追い、この魔方陣が何かすぐに思い当たると大きな声を出した。
「ダメよ! フェンリルさん待って! これは仮契約じゃないわ!」
『……レティシア、良いのだ……森に住んでいるモノたちも、すでにこのことは納得しているのだ。元々このためにそなたを呼んだのだ……このまま私がここに残って傀儡になってしまったら、どうなると思う? 間違いなくこの国は真っ先に滅ぶぞ?』
「それこそ仮契約でいいわ! この件は絶対に解決するわ! そしたら、あなたは自由になればいいのよ! 本当に契約したら、すぐに契約解除できないのよ!?」
『気にせんで良い……本来の契約が、魂で結ばれることも、主従関係が発生し、命令は絶対に聞かねばならんことも覚悟しておる。その上、契約主が望まん限り、契約の解除ができんことも理解しておるのだ……さぁ、私に新たな名前を……』
(そんなことを急に言われても、仮契約で好きな名前を選んでもらうつもりだったから、名前なんて考えてなかったわよ!! えっと……えっと……光? 白? フェンリルだからリル?)
『時間がないぞ? 私は名前すら与えてもらえぬのか?』
「うるさいわね! 今ちゃんと考えてるでしょう!?」
(何がいいのよ……月? 夜? 狼? えっと……星……?)
「ステラ! あなたの名前はステラよ!」
レティシアの声に合わせて、魔方陣がより一層強く光る。
フェンリルとレティシアの右手の甲は光、花からこぼれ落ちた星のような模様が浮かび上がった。
花はホワイトドロップのようにも見え、その中から雫のように星が落ちている。
手の甲の光が弱まると同時に、ステラの体も小さく変わっていく。
小型犬より少しだけ小さいサイズになったステラは、レティシアの肩に飛び乗った。
『ステラか、良い名だ。レティシア、これからはよろしく頼むぞ』
ステラはそう言うと、レティシアの頬にできていた傷をペロッと舐めた。
そして、白い幻獣は森の奥を見て、空を見上げる。
その瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。




