第7話 母と手紙
レティシアの誕生日を2週間後に控えた、神歴1489年2月19日。
この日も、レティシアは夕飯を食べ終えると、エディットと会話しながら、いつものようにリタに抱えられてエディットの部屋へ向かった。
部屋に着いてからリタは、レティシアがいつも使っているソファーに彼女を下ろす。
彼女は手慣れた手つきで、エディットとレティシアのために得意の紅茶を入れ始める。
部屋には優しい紅茶の香りが広がり、心を穏やかにしてくれる。
レティシアとエディットが出された紅茶を、「美味しい」と言いながらゆっくり飲んでいると、テーブルの上に置かれたトレーがレティシアの目に留まった。
そのトレーにはたくさんの手紙が置かれていて、今まで気にしたことなどなかったが、なぜだかこの日レティシアは気になった。
『お母様、お手紙が多いんですね。何かあったのですか?』
「――そうね。今度レティの誕生日パーティーを身内だけで開く予定でしょ? それなのに、買った物のリストから私がパーティーを開くという話が広がったみたいで、貴族たちからご機嫌伺いの手紙が最近は多いのよ」
エディットはそう言いながら、困ったように頬に手を置いてため息をついた。
(貴族ってやっぱりどの世界でも大変なのね……。貴族同士の付き合いって面倒であまり好きじゃないんだよね)
レティシアはそう思うが、彼女が生まれたのは由緒正しい侯爵家。
跡継ぎがレティシアしかいない状態で、そんな運命から逃げられない。
そのことを、彼女もしっかりと理解している。
仮にレティシアが逃げてしまった場合、困るのはフリューネ領に住む領民。
貴族はいやだからと、逃げ出すわけには行かないことも彼女は分かっている。
(ゆくゆくは政略結婚もあるんだろうけど、どうせなら浮気しない人が良いかなぁ)
レティシアは考えながらまた手紙の山を見ると、一通の手紙に目が留まった。
これまでエディットに届いた手紙は領民からであっても、それなりに綺麗なものばかり。
それにもかかわらず、領民でもエディットに対して使わない小汚い封筒を使ってきた相手が誰なのか、レティシアは気になってエディットに声をかける。
『お母様、失礼ですが、そこのみすぼらしいような封筒はどなたからでしょうか?』
「……あら? 本当ね、誰からかしら……?」
エディットは封筒に手を伸ばし、裏面を確認するが何も書かれていなかったようだ。
彼女は首をかしげながらも封筒をリタに手渡すと、封筒を受け取ったリタは丁寧にペパーナイフを使って開封する。
リタが中に危険なものが入っていないか確認した後、エディットに開封した封筒を手渡した。
エディットは「ありがとう」と言って、受けとった封筒から手紙を取り出し、静かに読み進めていく。
けれど、困惑したような目つきで、確認するかのように何度も何度も手紙を読んでいる。
(内容が短くて理解できなかったのかな?)
エディットの様子を、紅茶を飲みながら窺ってレティシアはそう思った。
何度も手紙を読み直していたエディットの顔からは血の気が引いていき、右手で頭を押さえると青白い顔をして重たいため息をつく。
「はぁ……リタ。今日はジョルジュがいないからパトリックを呼んでちょうだい」
「エディット様、かしこまりました。――失礼します」
エディットに指示されたリタは、何も聞かずに綺麗なお辞儀をして、静かに部屋を後にする。
静寂が続く部屋の中では、エディットの顔色を窺っているようなレティシアと、頭を押さえて一点を見つめているエディットの2人だけ。
先程まで紅茶の香りが広がり、穏やかの空間だったのが、今は冷え切って紅茶の香りが感じられない。
しかし、暫くすると、聞くのもどうかと思いながらも、レティシアは手紙の内容が気になって口を開く。
『お母様。あまりよろしくない内容が書かれていた手紙だったのですか?』
レティシアがエディットに聞くと、エディットは深く息を吐き出すと天を仰いだ。
できることなら、レティシアに手紙のことを聞かれたくなかったような雰囲気がエディットから感じられる。
重たい空気は沈黙を作り出し、聞こえる音もわずかに緊張が漂う。
その空気に耐えられなかったのか、レティシアも足元に視線を向けた。
「――そうね……。レティの……お父様からの手紙よ」
長い沈黙が部屋の中に流れてから、やっと何かを決意したエディットがそれだけ言うと、また深いため息をついた。
(あぁ、それは頭を抱えたくなる問題だ……)
レティシアは飲みかけのティーカップを手に持ち、冷めきった紅茶を飲んだ。
(リタが入れてくれた紅茶は、やっぱり冷めても美味しい)
レティシアはふーっと息を静かに吐くと、今度は天井を眺めた。
今の空間は、彼女にとって居心地が悪いのだろう。
暫くして、執事として働いてるパトリック・ロッシェは(何事だろ?)と思いながら部屋に入った。
エディットが直接パトリックを呼び出すことは珍しい。
そのため、パトリックは呼び出された理由に、全くと言っていいほど心当たりがなかった。
彼は走って乱れたミルキーブラウンの髪を整えると、ダークブラウンの瞳でエディットを不安気に見つめる。
「エディット様、お呼びでしょうか?」
「ええ、パトリックには悪いんだけど、今日はジョルジュがいないでしょ? ジョルジュの帰りが何時になるか分からないけど、帰ってきたらパトリックの所に行くと思うの。その時に、明日の朝でも構わないから、私の部屋に来るように伝えてほしいの。頼めるかしら? もちろん、その時はパトリックも一緒に来てちょうだい。突然呼び出して悪いけど、要件はそれだけなの。ごめんなさいね」
エディットはそれだけ言ってチラッと手紙を横目に見ると、気持ちを落ち着かせるために新しい紅茶をリタに頼んだ。
「かしこまりました。ジョルジュ様にお伝えしておきます。では、私はこれで失礼します」
パトリックは一礼すると、エディットと同じように一瞬だけ手紙の方を見てから部屋を後にする。
(手紙が誰からかは聞いたけど、内容はとても聞ける雰囲気じゃなかったから聞いてないんだよね……後で私も手紙の内容が聞けるのかな? もし内容が聞けなくても、厄介ごとじゃなければいいけど……でも、あの感じだと厄介ごとに間違いない気がするんだよねぇ)
レティシアはリタに紅茶のおかわりをお願いした。
けれど「そろそろ寝る時間ですよ」っと言われ、レティシアはおかわりがもらえなかった。
どうやら子どもはもう寝る時間のようで、リタはレティシアを抱き上げるとレティシアの部屋へと向かった。
レティシアを部屋に連れていき寝かしつけたリタがエディットの部屋に戻ると、エディットは青白い顔をしながらリタに話しかける。
「ねぇ、リタ……。ダニエルは、私からあの子を奪ったりしないわよね?」
「……はっきり申し上げますと、あの方にその権利は一切ございません」
「……そうよね。分かってはいるんだけどね、とても不安なのよ。何かが私に気をつけろって、言っているみたいで……なんだか怖いわ」
リタは不安そうにしているエディットを安心させたい気持ちはあったが、少しだけ悩むと自分の考えを伝える。
「……エディット様。不躾とは存じておりますが私の考えを申しますと、あの方にレティシア様を連れて行く権利はございませんが、連れ去る可能性はあると考えております」
エディットは自分でも考えていたことだけに、リタが言ったことを否定することができなかった。
彼女はティーカップを見つめると、揺れる紅茶を見ながらレティシアが生まれる前のことを思い返した。
◇◇◇
詳しい行先も告げず、ただ「遠い異国に住んでいる旧友と会ってくる」と言ってエディットの両親が旅に出た。
それからすぐ、ダニエルはこの家に帰ってこない日が増えた。
たまに帰ってきたかと思えば、お金を欲しがり、エディットに対してはお金の話しかしなくなった。
エディットが「お金の話しかしないなら帰ってこなくていい」と強く言えば、ダニエルからは「君はなんて冷たいヤツだ! 俺はそんなやつと結婚した覚えはない!」と彼女は何度も言われた。
それでも、ダニエルとは恋愛結婚していたエディットは、まだ彼が彼女を愛しているのだと思っていた。
……いや、そう思いたかったのかもしれない。
だからこそ、ジョルジュとリタに対して屋敷内で働く人々が、ダニエルの不満を口にするのが聞こえても。
それで胸が痛んでも。
エディットは聞かなかったことにして、気にしないようにした。
ジョルジュもリタもそれでいいと言っていたからこそ、エディットもそれでいいと思っていた。
数年の間そうやってのらりくらりとエディットは過ごした。
しかし、ダニエルが愛人宅を出入りしているのを、私用で帝都に行っていた使用人が見てから状況はさらに悪くなった。
屋敷内の空気もさらに悪くなっていくばかりで、エディットは頭を抱えた。
ダニエルが帰ってくれば、夫婦の営みも普通にあった。
だからこそ、エディットはダニエルに愛人がいるとは思ってもいなかったし、少しも愛人がいると考えたこともなかった。
そんな時、エディットが妊娠していることが分かった。
エディットは妊娠を喜び「これで彼が変わってくれるはず!」と思い、帰ってきたダニエルに妊娠していることを伝えた。
けれど、期待はすぐに裏切られた。
次の日の朝。
エディットが彼の部屋に向かうと、すでにそこには彼の姿はなかったのだ。
彼が屋敷からいなくなった後で「夜中に物音を立てないようにして、屋敷を出て行かれました」とエディットはジョルジュから報告を受けた。
それから、この屋敷にダニエルが戻ってくることも、彼からの手紙が届くこともなかった。
妊娠をしたエディットは悪阻が激しく何日も寝込み、中期になっても収まる気配がなかった。
その結果、おなかの子が無事なのか、常に彼女は不安になった。
そんなエディットを支えてくれたのは、屋敷内で働く使用人や、幼い頃から彼女の面倒を見てくれたジョルジュやリタだった。
しかし、エディットの悪阻は臨月になっても収まらず。
それが原因で、彼女の体がどんどん弱まっていた。
そのことを心配した料理人のジャンは、エディットが食べられそうなものを調べて探しては、彼女のために作っていた。
「出産の時……何かあった時は、エディット様のお命を優先します」
エディットは医者と産婆から、そう念を押されていた。
もしかしたら、子どもは助からないかもしれないと言われるほど、エディットもおなかの子も弱っていた。
そこから毎日、みんなが心配するくらいにエディットは泣いて暮らした。
予定よりも早く陣痛が始まり、けれどなかなか出産が始まらず。
夜遅くにやっと出産が始まったが、それでもなかなか子どもは産まれない。
エディットは痛みと疲れで意識が飛びかけ。
そのたび、リタは必死に「エディット! 頑張って!」と何度も声をかけた。
それでも子どもが降りてこない。
子どもは、ダメかもしれない。
みんなが絶望し、エディットが泣きながらおなかに向かって「頑張って! 産まれてきて! 私の子どもになって!」っと叫び。
「……頑張ってお願い……1人にしないで……」と口から漏れた時に、レティシアはこの世に誕生した。
◇◇◇
(どんなにつらくても、あの子に会えることだけを考えて耐えた……。だから……もう私はあの子がいなければ生きていくこともできない)
エディットはそう思いながら、リタと一緒に不安で眠れない夜を過ごした。




