第59話 旅立ちの朝
神歴1496年6月27日。
国境に面していても魔の森が近い、自然に溢れたマルシャー領。
木造で建てられた家々の窓辺には、花々が飾られ暖か味が感じられる。
そのことが国境付近だと忘れてしまうくらい、人々は平穏な日々を送っている。
しかし、今は静まり返り、朝日を待っている。
太陽が東の空から顔を覗かせ、世界を淡いオレンジ色に染め始める。
頬をなでる風はほんのりと冷たく、温もりを求めてしまう。
乗合馬車に揺られながら、遠ざかっていく街をレティシアは見つめている。
流れていく風景と、小さくなる街並み。
結局、レティシアは最後までテオドールに別れを言えなかった。
何も告げずに、彼女はマルシャー領を旅立つことにしたのだ。
その代わり、綺麗に書けるようになった文字で、手紙を残してきた。
そこには、レティシアの願いが込められ『また、いつか会おう』と書かれていた。
『ねぇ、ここから目的地まで、馬車でどのくらい掛かるの?』
レティシアは外を眺めながら、正面に座るルカにテレパシーを使って聞いた。
ルカは表情を変えずに、遠ざかっていく景色を見ながら、同じようにテレパシーを使う。
『途中の村で2泊することを考えれば、俺たちの目的地まで後3日は掛かるな』
他の人も乗る乗合馬車で、会話を聞かれないテレパシーは便利だ。
2人が表情を変えないことも、周りから気付かれない要素を大きくする。
馬車の中では、カーディガンや薄手のブランケットを羽織る女性。
上着に身を包んだ、小さな子ども。
彼らに付き添う男性が、座っている。
『思ったより、近いのね』
『マルシャー領がエルガドラ王国との国境に面してるし、目的地も魔の森に面してるからな』
朝の新鮮な空気に紛れて、馬車の中では洋服やパンの匂いが香る。
馬車の車輪が地面を転がる音が広がり、時折馬車が上下に大きく弾む。
その瞬間、人々はほんの少し顔を顰める。
『それなら、森を抜けた方が早かったんじゃない?』
『いや、今エルガドラに面してる魔の森で、魔物の活動が活発になってるんだよ。だから、この乗合馬車も少しだけ遠回りする』
『ふ~ん。でも、マルシャー領に面した魔の森は、大丈夫だったのに不思議ね』
『だから、それも調べに行くんだよ』
『そうなのね』
『レティシア、分かってると思うが、魔法の使用は最低限だからな?』
そう言ったルカは、遠回しに浮遊魔法を使うなっと言っているようだ。
『そんなの、分かっているわよ!』
レティシアは身を隠しているため、フリューネ家の馬車を使うことができない。
そして今回の旅は、ルカの極秘任務になっている。
そのため、オプスブル家やマルシャー家の馬車も借りることができない。
それゆえに、彼らは乗り心地が良いとは言えない乗合馬車を使うことになった。
一緒に乗車している人々は、特に揺れや椅子の硬さを気にする様子はない。
それを見て、レティシアはそれが貴族と庶民の差だと思った。
(こんな揺れなんて、過去の人生で慣れてるもの……少しくらいお尻の痛みを我慢すればいいだけよ。でも、純粋な貴族には厳しいかもしれないから、これは何度も転生している転生者の強みよね)
レティシアは馬車に揺られながら思うと、体をほぐそうと腕を前に伸ばした。
すると、右手の中指にはめた水晶の付いた指輪が、彼女の視界に入る。
旅立つ前に、レティシアはルカと3つの約束をした。
1つ目は、人に聞かれてもい良い会話以外は、テレパシーを使って話すこと。
2つ目は、必要最低限の魔法以外使わないこと。
これは、エルガドラ王国に住む人族の魔力が少ないためだ。
むやみやたらに魔法を使っていれば、レティシアがヴァルトアール帝国の人だと気付かれてしまう。
3つ目は、魔法を使う時、無詠唱で使用しないこと。
これも2つ目と理由は、だいたい同じだ。
エルガドラ王国に住む人族は、魔導師が多い。
だけど魔力量が少ない魔導師は、水晶などを媒介として魔法を使用する。
その際、彼らは詠唱を行う必要がある。
一方でルカやレティシアのように魔力量が多い者は、ヴァルトアール帝国では魔術師と呼ばれている。
彼らは詠唱しなくても、魔法が使用できる。
そのため、少しでも魔導師に見えるように、杖の代わりにルカが指輪を渡した。
この3つは、必ず守ってほしいと、レティシアはルカに何度も念を押された。
(これが、恩恵の差か……。ヴァルトアールじゃ、魔力量が少なくても、恩恵を受けている。だから、極端に魔力量が少ない人じゃなきゃ、無詠唱で魔法が使える……。まぁ、呪文や祝福を使わないなら、別に魔法名を言えばいいだけだから、そこまで大変じゃないけど)
レティシアは、水晶が付いた指輪を左右に動かしながら思った。
(杖の方が大きな魔法も使えるけど、指輪くらいなら……戦闘で使えるのも、中規模の魔法しか使えないわね……。まぁ、2歳の時にルカがくれた短剣もあるから、あまり魔法を使うことは、ないと思うけど)
流れていく景色から、日が沈み始めたことが分かる。
汗ばむ暑さは徐々に肌寒く感じ始め、人々が上着を羽織り始めた。
馬車の中は、朝とは違って生活感のある香りが漂っている。
どこかほのぼのとした雰囲気が、乗合馬車には流れる。
しかし、突然馬車が勢いよくガッタンと大きく揺れた。
馬車は止まり、人々の顔は困惑に染まる。
瞬時に、レティシアの右隣りに座っていたアルノエが、中腰で立ち上がった。
彼はレティシアの前を通って、すぐさま馬車の外に出る。
レティシアは、馬車が止まってから外に意識を向けていた。
そのため、殺気を放ちながら武装した人が、馬車を取り囲んでいるのが分かっている。
彼女はアルノエが馬車から出て行くと、ルカに話しかける。
『あらら、アルノエが相手じゃかわいそうに……ルカ、相手は盗賊かしら?』
『多分な……アルノエは俺たちの護衛と言って連れて来てるから、アルノエに任せればいいよ』
『人数は9人と、結構多いわよ?』
『大丈夫だ。それに馬車の外にも、護衛が2人もいたんだ。問題ないだろ』
ルカが淡々と言うと、馬車の外から男たちの叫ぶ声が聞こえてくる。
そのうち、風に流れてレティシアの鼻へ、微かに血の臭いが届く。
アルノエは、普段あまり話さないで空気になることが多い。
けれど、剣を握った彼は強く、刃を向けて来た相手に対して冷酷で無慈悲だ。
切り付ける音と「ぐあぁ」っという叫び声が、馬車の中にも聞こえた。
馬車の中に居た女性や子どもは、短く小さな悲鳴を上げ、頭を抱えながら身を縮こまらせている。
『アルノエ、馬車から2時の方角に弓』
外に意識を向けていたルカが、冷静にテレパシーで伝えた。
途端に駆け出す足音がし、すぐに木が折れる音がして足音が遠ざかる。
馬車の近くでは、未だに金属音がぶつかる音がしている。
足音が遠ざかった方から、こちらに向かってくる足音が聞こえ。
再び短い男の悲鳴と、ドサッ……という音が何度もする。
次の瞬間、空気を切るような音の後に、液体が勢いよく地面に叩きつけられる音がした。
「お待たせしました。安全が確保できました。もう大丈夫です」
暫くしてから、外の片付けを済ませたアルノエが、無表情で言いながら馬車に乗り込んだ。
レティシアは、アルノエから微かに血の臭いがしていることに気付いた。
彼女は軽くアルノエを、上から下まで見たが、怪我をしたような痕跡がない。
そのことから、わずかに返り血を浴びたんだと、レティシアは思った。
先程まで身を縮こまらせていた女性の1人が、震えながらもお礼を言う。
それに対して、アルノエは何も言わず、ただ無表情で頷いた。
しかし、レティシアが「お疲れさま。ありがとう」と声をかけると、それも少し変わる。
アルノエは「いえ、仕事ですので」と、彼は答えた。
その後、乗合馬車が立ち寄る村にたどり着くまで、新たな衝撃を受けることはなかった。
だが襲撃直後から、レティシアとルカは何度か探るような視線を、乗合馬車内に向けている。
空は綺麗なオレンジ色から、青みがかった紫色やオレンジ色が交じり合った幻想的な空に変わっていく。




