番外編*不器用な愛情のスープ
神歴1491年1月15日未明。
フリューネ領には灰白色の空が広がり、コンコンと雪が降り続けていた。
微かに揺れる木々は音も立てず、世界は静寂に包まれている。
降り積もる雪は音を吸い込み、微細な響きすらもかき消すかのようだ。
ふわりとした風が吹き抜けると、積もったばかりの雪がサラサラと音を鳴らす。
それは、まるで精霊たちの囁き声が響いているようでもあった。
エディットは暗い廊下を歩きながら、ふと窓の方を見た瞬間に足が止まり、そこに映った人物を眺めた。
手にしている灯りは、近場を照らすには十分だが、窓に映る人物の顔が疲れているように見えた。
彼女が頬に手を当てると、窓の人物も同じように動く。
自分でも疲れているという自覚はあるものの、窓に映る姿さえ疲れているように見えるとは、少しも考えていなかった。
思わず口からため息がこぼれ、手元に視線を向けると、疲労が口から洩れた。
(レティシアが生まれて、初めての誕生日を迎えてから、年々疲れやすさを感じるわ……。ダメね……こんな疲れた顔をしていたら、またリタに怒られてしまうわ……)
エディットは軽く頬を2回たたくと、宙を舞う雪を時折眺めながら歩き出した。
それでも、時々足の先に感覚がないように感じ、疲労が溜まっているのだと思った。
1階の長い廊下は静まり返ており、幼い頃に両親の目を盗み、屋敷を探索したことがふと頭を過ぎる。
怒られたことまで思い出すと、笑いそうになって口元に手を当てたが、それでもクスッと笑いが零れた。
(レティシアも夜中に出歩いているのかしら? もし、あの子が私と似ていたら、夜中に厨房に来てしまうと思っていたけれど……あの子は、食べ物よりも本を選びそうね……)
何気なくそう思うと、心は少しだけ軽くなり、疲労も消えてしまいそうだと感じた。
けれど、気持ちとは裏腹に、足取りは重く、視界の先に見える明かりが遠くに感じてしまう。
立ち止まってふぅと息を吐き出すと、息苦しさに負けて咄嗟に壁に手をついた。
持っていた灯りを落としそうになるが、音に驚いて娘が起きてしまうと考えると、落とさないために手に力が入る。
(本当に……少しは休まないとね……。でも、私が親としてレティに出来るのは、これぐらいだもの……)
壁から手を離し、重たく感じる頭を軽く押さえると、前を向いて再び歩みを進める。
音を立てないように歩いている途中、コツンと靴音が耳に届き、咄嗟に立ち止まって思わず顔を顰めてしまう。
誰か来ないか不安に襲われ辺りを見渡すが、誰も来ないと分かると、一度足元を睨んで歩き出す。
それでも、同じ音が聞こえる度、彼女は周りを見渡して自分の足元を睨んだ。
明かりに導かれるように厨房に入ると、エディットはホッと胸をなで下ろした。
厨房に立つ人物の後姿は、他に誰も来ていないことを示し、彼の髪が夕日のように見えた。
そして、窓辺に小さな袋を置き、頭を一度上下に揺らすのを見て、彼のことを思うと心が軽くなる。
振り返った彼が、髪色と同じオレンジブラウンの瞳でこちらを見ると、思わず笑みが零れる。
「今日は遅かったですね。どうかしました?」
心配そうに見つめるジャンから目を逸らすと、彼が用意してくれたエプロンを自分でつけて行く。
すると、彼が近寄ってきて背後に周ると、エプロンの後ろを結んでくれる。
微かに微笑むと、彼に対し申し訳ないと感じてわずかに視線が下がってしまう。
「いえ、何もないわよ。少しだけ仕事が長引いたの。今日もお願いね先生」
「毎回言っていますが、先生と呼ぶのは辞めてくださいよ」
ジャンの困ったように笑う顔を見たエディットは、自然にふふふっと笑ってしまう。
「あら、私は間違っていないわ。だって、ジャンが私に料理を教えているんですもの、立派な先生だわ」
ニヤリと笑みを浮かべ、揶揄うような口ぶりで女性の声が響き、2人の間に一瞬の沈黙が生まれた。
2人は視線を交わすと、突然ジャンが笑い出し、釣られるようにエディットも笑い出した。
厨房に置かれている時計は静かに時を刻み、2人の笑い声によって少しだけ掻き消されている。
それでも、暫くするとその笑い声も徐々に小さくなり、2人はただ微笑んで見つめ合っているように見えた。
「夜も遅いことですし、そろそろ始めましょうか」
「そうね、それじゃ……とりあえず手を洗うわね」
エディットは明るく言うと、手を洗うために蛇口をひねった。
流れ出した水を見て、冷たそうだと思いながらも手を伸ばす。
しかし、水に触れた瞬間、エディットは思わず首をかしげてしまう。
「ねぇ、ジャン。あなた、魔法が使えるようになったの?」
「いいえ? どうかしましたか?」
振り返ったエディットは、彼が眉を顰めると内心戸惑った。
しかし、それを悟られないように微笑むと、明るく振る舞う。
「ううん、なんでもないわ。私の勘違いだったみたいだわ」
気持ちを落ち着かせ、エディットは再び水に触れるが、勘違いではないと改めて認識した。
魔法が使われていないはずの水は、冷たいはずなのに、全く冷たく感じられない。
けれど、これも疲労が原因なのかもしれないと思うと、なぜか腑に落ちて戸惑いが薄れていく。
彼女は蛇口をひねって水を止めると、手を拭いて微笑んで見せた。
「さぁ、始めましょう! 何をすればいいかしら?」
「では、本日は一度失敗したことのあるポタージュを作りましょう。野菜は洗っておきましたので、2~3cm程度の角切りにしてもらえますか?」
エディットは野菜を手に取ると、軽く「分かったわ」と答えた。
そして、右手で包丁を手に持ち、左手の指先を丸くすると、違和感を覚えた。
どういうことか、関節が固まったように動きづらくなっていて、思わず眉間にシワを寄せてしまう。
手のひらを見つめて開閉を繰り返すうち、最初に感じた違和感は次第に消えていく。
勘違いだったと考えれば、そんな気もして彼女は言われたように野菜を切り出した。
まな板と包丁がぶつかる音が耳に届く中、彼女は先程のことを冷静に考えた。
けれど、違和感ではないと思い直すと、小さな不安が生まれる。
「エディット様!」
ジャンに声を掛けられ、エディットは驚いて彼の方を向いた。
心臓は大きな音を立て、喉の渇きを感じてしまう。
それでも、ニッコリ笑みを作ると、エディットは誤魔化すように口を開く。
「何かしら? 何か間違えてしまった?」
「いえ、間違っていません。ですが、どうかなさったのですか? 先程から声をかけていたのですが、聞こえてませんでしたか?」
「ええ、ごめんなさい……集中していて、気が付かなかったわ」
エディットは曖昧に答えると、再び野菜を切り出した。
ゴクリと唾を飲み込むと、また指先に違和感を感じ、不安が広がる。
「そういえば、レティシア様がエディット様を探しているそうなのですが、そろそろ会われてはどうですか?」
「ダメよ~レティは勘がいいのよ? レティと会ってしまえば、コッソリ料理を覚えていることがバレてしまうわ」
何気なくエディットは答えると、ジャンの顔を見て困って微笑んだ。
彼の表情から、心配しているのだと分かる。
それでも、勘の良いレティシアのことを考えると、会うべきではないと思った。
「それに、レティは幼いけど、しっかりしているわ。会えないことも理解してくれると思うし、大人びているから少しくらい大丈夫よ」
「それなら、良いのですが……」
エディットはジャンの顔を見て、一瞬だけレティシアの笑顔が脳裏に浮かんだ。
そして、いつも1人過ごしていても、わがままを言わない姿を思い浮かべると、少しだけ寂しく思った。
「レティなら大丈夫よ。あの子は私たちが思うより、ずっと強い子だもの」
「……そうですね……それにしても……なんと言いますか……前回は一口サイズにと言ってサイズがバラバラだったので、今回は2~3cm程度の角切りと言いましたが……前回とあまり変わらないですね……」
エディットは思わず目を伏せると、恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。
それでも、まな板の上に並ぶ野菜を見ると、サイズがどれもバラバラだと見て分かる。
ジャンの方をチラリと見ると、何かを考えている様子に、申し訳ないと感じてしまう。
(魔法と同じで、料理するときに同じ大きさにしないといけないのが、苦手なのよね……火加減の調節も難しいわ……)
エディットはそう思うと、大きさがバラバラの野菜に目を向けた。
同じ大きさに切っていたつもりなのに、どこから見ても歪でレティシアが喜ばないと考えてしまう。
「今回はポタージュなので、良く火を通せば良いだけです。それに、最終的には形は分からなくなります。なので、そんなに落ち込んだような顔をしないでください」
「そうね……ジャン、ありがとう」
エディットはそう言うと、精一杯ジャンに向かって微笑んだ。
それから、野菜たちを鍋に入れて水を加えると火を通していく。
焦げないように、鍋の中を時折混ぜると、野菜の優しい香りが広がっていくのを感じた。
野菜に火が通ると、一旦器に移してから網を使い、滑らかなペースト状にしていくと、うまくいっていると思った。
それから、ペースト状の野菜を鍋に戻し、スープと混ぜ合わせて味を調えていくと、少し焦げ臭いと感じた。
そして、出来上がったものを皿に移すと、少しだけいつも見ているスープと違うのが分かった。
「……途中まで良くできていたのに……」
「……最後に火加減に注意して見てましたが……なぜか焦げてしまいましたね」
エディットは肩をすくめると、ガッカリしてため息をついた。
しかし、「味は問題ないんですけどね」という言葉を聞き、どこかホッと胸をなで下ろした。
自分でも味を確かめると、確かに味は美味しく、問題が一切ないと思った。
けれど、見た目を考えると、これを見たレティシアがどう思うか考えてしまう。
小さな物音が聞こえ、窓辺に視線を向けると、小さな袋が消えていることに気が付いた。
それを見た瞬間、失敗は失敗だと考え直し、エディットはレティシアの笑顔を思い浮かべ、もう一度野菜を切り始めた。




