第55話 最後の願いと別れ
エディットの部屋を出て、書庫の前を通ると、重たい空気をレティシアは破る。
『ルカ、私は書庫にある魔方陣の書き換えてから、部屋に戻るわ』
「分かった。それなら、俺は騎士団の方に行って、主が変わったことを報告してから、おまえの部屋に向かう」
ルカはレティシアに答えると、走って騎士団の方へと向かった。
レティシアは書庫に入ると、書庫の奥へと進み、隅に隠れたようにある魔方陣へと向かう。
魔方陣が浮き出ると、彼女はそこに座って空間魔法から宝石を取り出す。
それは彼女が毎晩やっていた鍛錬で、彼女の魔力が込められている宝石だ。
あるだけの宝石を取り出すと、彼女は魔方陣を書き換えていく。
(入出制限は増やしておこう……パトリックやジョルジュも残ると思うし、屋敷で働いている人に危険が及ぶようなら、鍵を持つ者が判断できるようにしよう……この書庫がここで最も安全な場所になるように……)
レティシアは迷うこともなく作業を続けていき、書き換えを終えると、現れた小さな箱に宝石を詰めていく。
(私がいない間、この部屋を使う人はいない……だからきっと次に戻るまでは、これで足りる……宝石に魔力を溜めていた理由は違うけど、これで少しは、私もみんなのことを護れる……)
レティシアは作業が終わると、立ち上がり自分の部屋へと戻る。
白い廊下が霞んで、灰色に見えた。
冷たい空気が、頬に当たると痛いように感じる。
喉は熱を持ち、苦しいほどに痛む。
それでも、レティシアは泣かないように、歯を食いしばった。
部屋に戻ると、彼女は衣装部屋から鞄を取り出した。
その鞄はそこまで大きくなく、レティシアが持ってもあまり違和感がない大きさだ。
(必要最低限でいい。ドレスもすぐに着れなくなる。思い出が詰まった物だけ持っていこう……もう泣かない、もう泣かない)
レティシアは唇を噛み締め、溢れそうになる涙を堪えた。
そして、この3年でエディットや屋敷で働く者たちから、貰ったプレゼントを鞄へとしまう。
レティシアが荷物をまとめていると、報告を終えたルカが部屋に入って来た。
ルカも鞄を取り出すと、荷物をまとめ始める。
「フリューネ騎士団は、ここに残していくことに決まった。……だけど、ロレシオ、アルノエ、ニルヴィスは連れて行く。俺たちの護るべき対象の最優先は、レティシアだから……それでいいか? レティシア」
レティシアは荷物をまとめながら、騎士団の報告を聞くと、胸が熱くなって泣きそうになった。
(お母様がここに残るから、お母様のために騎士団を残すという判断してくれたのね……)
『……うん……ルカ……ありがとう、それでいいわ』
ルカはレティシアがそう言うと、胸が苦しくなった。
それでも、彼は何も言わずに荷物をまとめ続けた。
鞄に荷物を詰める音だけが部屋に広がり、彼らに厳しい現実を突きつける。
変わらないと信じていた明日が、簡単に壊れることを彼らは知っていた。
だからこそ、幼いながらも、もう今日までの明日がないことを理解している。
荷物をまとめまとめ終わると、レティシアとルカは玄関へと向かった。
玄関ホールではすでに、ニルヴィス、ロレシオ、アルノエ、ジャンが荷物を持って待っていた。
遅れてジョルジュが来ると、彼はレティシアに青い宝石が付いた指輪を渡す。
「エディット様からです。フリューネ家に代々、受け継がれてきた指輪です……レティシア様、行ってらっしゃいませ」
ジョルジュは、それだけ言うと、頭を深く下げた。
目には涙が浮かんでおり、彼は唇をきつく閉じる。
そうしなければ、送り出せないと彼は思ったからだ。
しかし、彼は顔を上げると、真っすぐにレティシアを見た。
目の前には、浮遊魔法を使っているレティシアの姿があった。
彼はまるで彼女の姿を、目に焼き付けるかのように見つめる。
『ジョルジュ、書庫の入出にお母様、ジョルジュ、リタ、パトリック、4人の名前を刻みました。この屋敷の中で最も安全な場所です。他の人たちの入出は、この鍵を使ってください……後は任せました……行ってまいります』
レティシアは書庫のことを伝えると、ジョルジュに鍵を渡した。
それから、振り返ると玄関の扉へと進みだす。
彼女は、ルカたちが歩き出したのを見て、前を向いて彼らについて行く。
外は冷たい雨が降っていた。
曇っていた空が、まるで彼らの代わり泣いているようだ。
風が吹くと、微かに精霊たちの悲しみが聞こえ。
雨の匂いが、悲しみを深くする。
レティシアは屋敷から離れた場所にあった 転移魔方陣まで進む。
そして前を進むルカに続いて、魔方陣に足を踏み入れようとした時。
彼女は屋敷の方へ1度だけ振り返った。
その姿は、まるで目に焼き付けるように屋敷を見ているようだ。
『お母様、行ってまいります』
レティシアはそう言って、転移魔方陣へと足を踏み入れた。
視界は白い光によって遮られ、それが止むと先程までとは違う景色が目の前に広がる。
微かに香るのは潮の香りではなく、森に包まれているような木々の深い香り。
ひっそり描かれている転移魔方陣は、はた目から見たら分からない。
しかし、転移魔方陣を包む雰囲気が、森の住人さえも拒み。
その周りには、フリューネ家の書庫にあったものと同じ特殊な結界が貼られている。
森を抜けて初めて見るオプスブル領は、レティシアの想像とは少しだけ違った。
街を行き交う人々の足音はとても静かで、そのことに気付いてしまえば異様な光景としか映らない。
そのため、足音からその人物がこの地の者か、そうでないかが分かってしまう。
そして、ルカとすれ違う人々は、彼に敬意を払いながらも、どこか脅えているような気さえする。
それでも、先頭を歩く少年は、ただ堂々と前を向いて進む。
レティシアはその光景を見て、彼の置かれている現状が、彼女が想像していた物より酷いのだと知った。
オプスブル家の門を抜けると、そこには黒い外見の立派な家がそびえたつ。
庭園は綺麗に手入れが行き届き、フリューネ家と同様に様々な花を咲かせている。
しかし、入り口の扉を開けた瞬間、ほのかに香る鉄の臭いと、薬品の臭いが普通の家ではないことを告げる。
黒い服を着た使用人がルカの姿を見て、一斉に列をなす。
その様子はどこかの国の王子だと、勘違いさせるものでもあった。
だが、彼らの顔に浮かぶのは、主を歓迎するよりも恐怖で支配されているような歪な表情だ。
「レティシア、報告したらすぐに出発するから、適当に応接室で休んでて、アルノエとニルヴィス、案内を頼んでいいか?」
「かしこまりました」「わかったよ~」
「ロレシオは俺に付いてこい」
「かしこまりました」
「さぁさぁ、レティシアちゃんはこっちだよ~」
アルノエに抱き抱えられているレティシアは、そのままニルヴィスの後を追うように応接室へと向かった。
廊下には花瓶や装飾などなく、白い壁と黒い絨毯が印象的だ。
応接室に入ると、長テーブルに1人用のソファーが6脚置かれ、テーブルとは不釣り合いだと感じた。
「驚かれましか?」
アルノエはレティシアをソファーに座らせると、静かに彼女に尋ねた。
『ええ、少しだけ……』
ニルヴィスは、頭の後ろで手を組んで、悲しげに呟く。
「そうだよねぇ~でも……ルカ様には、これが普通だったんだよ。みんなルカ様が怖いんだよ……僕たちやルカ様と深く関わってる者は、小さい頃のルカ様を知ってるし、レティシア様とルカ様が出会ってから、ルカ様が変わってきたのも知ってるから、ちょっと違うんだろうけど……」
ニルヴィスやアルノエは、フリューネ家に行くまではこの屋敷で生活していた時期がある。
そのため、ルカがこの家で、どのような扱いを受けていたのか彼らは知っている。
『……そう……ところで、ルカのご家族にあいさつした方がいいのかしら?』
レティシアの声は、とても落ち着いており、彼女の考えがニルヴィスは読めない。
「ん-、それはフリューネ家の主として?」
『……ダメかしら?』
「正直な話、やめておいた方がいいとボクは思うんだよね~」
『なんで?』
「レティシアちゃんは聞いてるか分からないんだけどさ~、ルカ様には弟がいるんだよ。でも、実はルイズ様とモーガン様が、あまりルカ様のことをよく思ってないみたいなんだよ……だから、突然ルカ様が帰って来て、今は神経質になってると思うんだよね」
『なるほどね……だけど、オプスブル家はフリューネ家に仕えているのよね? それなら、あいさつするのは当然じゃないのかしら?』
「う~ん……多分ルカ様はいやがるよ……それでも呼ぶ?」
ルカに弟がいることも、彼の親がどんな風に彼と接しているのか、それはルカ自身からある程度レティシアは聞いている。
しかし、これまでレティシアは、それについて何も言ってこなかった。
それは、彼女がオプスブル家の家庭環境に、口出しできる権利がなかったからだ。
けれど、少なくとも当主を引き継いだ今の彼女は、ある程度のことに対して口出しできる権利を持っている。
『……呼ぶわ、いいえ、呼んでちょうだい』
ニルヴィスが頬をかきながら困っていると、静かに応接室の扉が開いた。
しかし、そこに人の影はなく、微かに精霊がいた痕跡だけが残されている。
『ほら! 2人とも呼びに行ってちょうだい!』
レティシアはニルヴィスとアルノエを部屋から追い出すと、暫く待って浮遊魔法を使って部屋の外へと出た。
透明魔法を使い、彼女は姿を消すと探索を始める。
好奇心からではなく、まるで導かれるように彼女は痕跡をたどって屋敷の中を進む。
建物から出ると、離れた所にもう一軒の屋敷を見つけた。
彼女はそちらへと向かい、裏庭に回ると透明魔法を解いて動きを止めた。
そこには、幼い子どもがメイドに抱えられて眠っており、黒髪から眠っているのがルカの弟だと分かる。
『レティシア、君に見せたかったんだ』
ふと精霊らしき声が隣で聞こえると、彼女は子どもを見ながら静かに頷いた。
先程、応接室の扉を開けたのも、彼女をここに導いたのも、この精霊なのだろう。
『ここはね、彼が生まれる前に建てられたんだよ』
『……ここに、ルカは来たことあるの?』
『ルカは、ここに近付いたことは1度もないよ』
『……それは、ルカがそう言われたから?』
『それは言えない』
精霊の薄紅色の瞳は静かに揺れ、静かに視線を落とした。
『……そっか、ありがとう……でも、なんで私をここに連れてきたの?』
『知ってほしかったから。それと、君なら何か変えられると思った。そして、きっといつか君のためになると思ってね』
『……あなたは誰なの?』
『ふふふ、それはまだ内緒だよ。でも、また会おうねレティシア』
精霊らしき存在はそう告げると、存在が薄れていくように姿を消した。
すると、すぐに1人の男性が、険しい表情をして走ってくる。
「レティシア様!! ここに来られては困ります!!」
モーガンがレティシアに呼びかけるが、彼女は幼いルカの弟を見ていた。
目を覚ました小さな白い手は左右に揺れ、まるで彼女に手を振っているように見える。
薄紅色の瞳とパクパク動く唇が、まるで彼女に何かを語りかけているんだとすら誤解しそうだ。
『そう、ならルカをここに呼んでちょうだい、それまで私もここから動かないから』
淡々としたようにレティシアが言うと、モーガンは彼女を睨み付けた。
ルカと同じように異質な存在だとしても、彼女が新しいフリューネ家の主であろうとも、所詮ただの子どもに過ぎない。
その考えが彼の態度に現れ、彼は幼いレティシアを見下ろしながら言う。
「レティシア様、お言葉ですが、例えフリューネ家の主になったからと言って、全てが許されたわけではありません」
レティシアがスーッとモーガンに視線を向けると、彼はビックっと肩を上げた。
彼女の瞳から感じる冷たさは、幼い子どもから感じられる冷たさではない。
背筋を氷の刃でなぞられた感覚がし、彼は彼女の知らなかった一面を知る。
ルカとは違う恐怖を感じ、彼は一歩も動けず、彼女から視線が逸らせない。
『モーガン、あなたも勘違いしているんじゃなくて? 私を見下す権利も、立場も、あなたはもっていないわ。そして、ルカはあなたの息子で、あなたは彼の父親なのよ。1人を守るなら、2人とも守りなさいよ。それができないなら、2人の子どもに見放されるのを、今から脅えて待っていなさい』
レティシアの冷たい声がモーガンの耳に残り、歩き始めた小さな背中を彼は見つめる。
しかし、彼女が遠ざかると、モーガンは咄嗟にルカの弟がいる方を向いた。
薄紅色の瞳は去っていく彼女を真っすぐに見つめ、伸ばされた小さな手は彼女に向けられているように見える。
どんなにモーガンやルイズが、ルカから弟を引き離そうとしようとも、弟が兄を探しているようにモーガンは感じていた。
もしかしたら、彼女が告げたことは、何ひとつ間違っていないのかもしれない。
もしかしたら、2人の息子から見放される未来があるかもしれない。
いや、すでに思い描いていた未来は、音を立てて崩れ始めているのかもしれない……
そう思えば、今度はいやな汗が彼の背筋をなぞる。
曲がり角を曲がると、レティシアは喉の奥が熱くなった。
ルカと初めて会った日に感じた想いが、再び彼女の感情をかき乱し、視界が歪むのを止められない。
あの日からフリューネ家で過ごしていた時の彼は、子どものようにエディットと接していた。
少なくとも、ルカもレティシアと似たような感情を、エディットに抱いていたのだとレティシアは気付く。
そう考えると、ルカとエディットとレティシアが過ごした時間は、きっとルカにとっても大切な時間だったはずだ。
それにもかかわらず、彼はいやがるレティシアを説得し、エディットの願いを聞き入れようとした。
様々な感情が押し寄せ、レティシアは声を出さずに1人でオプスブル家の敷地を歩く。
その背中はあまりにも小さく、背負いきれない思いが溢れているようだ。




