第45話 影と光の交錯
神歴1491年2月5日。
厨房は活気に満ち、様々な音で溢れる。
壮麗な装飾が施された空間は、料理を芸術に変える舞台のようだ。
大理石のカウンタートップには、新鮮な食材が並べられ、その色とりどりの美しさが目を引く。
ジャンは白いエプロンを身につけ、手際よく食材をリズミカルに切る。
彼の手元は素早く、しかし確実で、その動きはまるでダンスのようだ。
大きな暖炉では、鍋が煮立ち、その中からは美味しそうな香りが立ち上っている。
煮込まれた野菜と魚の香りが混ざり合って、空気中に広がる。
「ジャン! ごはん! おにく!」
「はははっ! レティシア様は、本当にお肉が好きですね! 残念ながら本日は、お魚でございます」
昼食の仕込みをしながら、ジャンは笑った。
彼はオレンジブラウンの瞳の瞳に、椅子に座って楽しそうに足を前後に揺らすレティシアを映す。
暖かな夕日のように輝く瞳は、彼の優しさと力強さを表している。
そして、その色は深みがあり、まるで古代の琥珀のようだ。
「おさかなも、すき!」
「そうですか、それなら良かったです」
レティシアは精霊たちから、厨房にエディットが出入りしていると聞いた。
彼女はそれを確かめるために、コッソリと厨房に来ている。
「ジャン、きょう、おかあさま、ここにくる?」
「そうですねぇ、本日はこちらへ来る予定はありませんよー。もう少しでレティシア様のお誕生日ですから、準備で忙しくしているのでしょうね」
「そっか!」
(誕生日の準備で忙しいなら、分かるけど……昨年もお父様が来たから、プレゼントをもらったぐらいで、別にパーティーをしたわけじゃない……そのお父様に関しても、今年は来るとも、来ないとも、どちらの報告も聞いていない……準備で忙しいって、来ない前提なの? 本当に今年は来ないの……?)
レティシアは考えながらも、それを表情には一切出さない。
その代わり、彼女は嬉しそうに出されたココアを飲んでいく。
「ジャン! ありがとう、またあとでね!」
ココアを飲み切ったレティシアは、椅子から飛び降りると、今度はテラスに向かう。
しかし、その途中でパトリックと会い、彼女はテラスにエディットがいるか聞いた。
だけど、返ってきたのは、今日も出掛けていないって言葉だった。
(絶対に変だ……まるで避けているみたい? でも、避ける理由は? アンナの時のこと? いや……でも、お母様に限って、それだけで避けたり……しないはず……)
ニルヴィスは会議を終えて、レティシアを探していた。
彼女が行きそうな場所を回り、彼女の足取りを追う。
すると、テラスから戻る廊下で、顎を触りながら、肩を落として歩くレティシアを見つける。
「レティシアちゃん、どーしたのー?」
『あ、ニヴィ。お母様に会えなかったなぁって考えてたの。そっちは、もう会議は終わったの?』
ニルヴィスは、元気に振る舞うレティシアの様子に、嘘が含まれていることに気が付く。
けれど、彼はあえて気が付いてないように振る舞う。
「うん、終わった~。でも、これと言って、進展はないかな~」
『そうなんだね……! ねっ! 気分転換に、一試合しない?』
レティシアは腕を伸ばし、人差し指を立てながらニルヴィスに言った。
少しでも、彼女はモヤモヤとした気分を変えたかった。
考えれば考えるほど、ぬかるみから抜き出せなくなる。
そんな感覚に、彼女は呑み込まれそうになっている。
だけど、彼女を見たニルヴィスは、頭の後ろで手を組んで口を開く。
「残念ながらしませーん。今日、レティシアちゃん団服の練習着も着てないじゃん」
『着替えてくるからやろう!』
「やーだよっ! 今日、ボクたちを止める人がいないんだから」
『ニヴィのケチーーー!』
ニルヴィスは手を頭の後ろで組んだまま、悔しそうに言うレティシアを見た。
彼女は、両手を固く握りしめ、その手は力の限りに拳を作っている。
その力強さが彼女の感情の深さを物語る。
彼女の体は前に曲がり、まるで重たい荷物を背負っているかのようだ。
彼は彼女から視線を逸らすと、軽く息を吸い込み、長い廊下を見ながら言う。
「ケチでも別にいいよ~それにボクこの後、訓練場に顔を出して指導するから、どのみちレティシアちゃんと一試合は、できないんです~! だから、レティシアちゃんも一緒に訓練場行くなら、着替えておいで」
『はーい!』
元気にレティシアは返事すると、急いで着替えをしに戻る。
だが、浮遊魔法を使っていない彼女は、普通の子どもと同じ速度だ。
彼女は後ろをちらりと見ると、走ることもなく、ニルヴィスが歩いて追い掛けて来ている。
ニルヴィスは嬉しそうに目を細め、腕を組んで眺めていた。
彼の視線の先では、鏡の前でレティシアがクルクルと回る。
「本当に、その団服を気に入ってくれてボクは嬉しいよ」
『かわいいんだもん! ニヴィ、洋服を作るの好きよね。宿舎に置いてある洋服、ニヴィが作ってくれたのばっかりだし』
ニルヴィスはレティシアがそう言いながら近付くと、彼女を椅子に座らせた。
彼は、彼女の髪を丁寧にヘアブラシを使ってとかしていく。
彼女が喜んでくれるなら、好きで服を作り続けて良かったっと彼は思う。
彼の表情はとても穏やかだ。
「ボクは作るのが好きだからね~。でも、騎士団に入ってなかったら、作ることもしなかったと思うよ~? リボンは黒にするね~」
『そうなの?』
レティシアが聞くと、鏡に映ったニルヴィスの顔は少しだけ曇った。
「うん……。そんなもんだよ。騎士団に来たから、いろいろと試したいことをやってるんだよ……。家に居た頃は、毎日が息苦しくて、息が詰まる思いしかしなかったしね。まぁ~兄さんたちと、常に比較されたし」
『……そっか』
レティシアは、ニルヴィスが以前に話してくれたことを思い返す。
きっと何重にも重なった重りの中には、彼を否定する言葉も含まれているのだと彼女は思う。
そして、その息苦しさも、息が詰まる気持ちも、彼女は知っている気がした。
それは彼女が、遠い記憶の中で、消してしまいたかった記憶だからだ。
「ボクを騎士団に誘ってくれたジョルジュ様には、感謝しかないけどねっ!」
ニルヴィスは彼の家がいやで、死ぬつもりで家から逃げ出した。
彼は、そのことを後悔したことはない。
だけど、もう少しだけ、家族と向き合えていれば、違った未来があったのかもしれないとも思う
必死に足掻いて、認められるようになっても、当時の記憶が彼を縛る。
だから、彼は無邪気な青年を演じる。
少しでも失敗して、誰かに失望されないために。
「はいっ! かわいくできたと思うよ!」
『ニヴィ、ありがとう!』
レティシアは鏡の前で彼女の姿を確かめる。
髪はリボンと一緒に髪の毛が編み込まれた、ハーフアップだった。
こういうのも、手先が器用なニルヴィスは得意だ。
彼女は、また鏡の前で回り出したい気持ちをグッと堪え、ニルヴィスと一緒に訓練場へと向かった。
訓練場では木剣が空を切る音と、木剣と木剣がぶつかる音が響く。
その中で、青年の声が透き通るように聞こえる。
「そこ!! 踏み込みが浅い!!」
「「「はいっ!」」」
「声だけじゃなくて、剣先にもしっかり意識を向けろ!」
「「「はいっ!」」」
「剣だけ振り回すな!」
「「「はいっ!」」」
(こういう真面目なところを見ると、ニヴィってやっぱり副団長なんだって思うのよね。アンナの時もそうだけど……いつもは、ニコニコしているし、軽くウェーブがかったミディアムヘアーの無邪気な少年って感じの、かわいいタイプなのに)
レティシアはそう思いながら、ニルヴィスの様子を観察していた。
しかし、暫くすると、ニルヴィスと視線が合う。
レティシアは彼の口の動きを見ると、おいでと言われていることに気付く。
なんだろう? っと思い、彼女は走って向かう。
すると、彼は少しだけ意地悪そうな表情を浮かべた。
「レティシアちゃんは、座ってないで走って来てね。今日の訓練に参加しなかった罰だよ」
ニルヴィスは目を見開いたレティシアが、かわいく思えた。
けれど、次第に眉を下げて彼女が頬を膨らませるのを見て、思わず笑いそうになる。
そして彼は、彼女が「せっかく、かわいくして、もらったのに……」と呟くのを聞いて、嬉しいと感じた。
彼女が走っていくのを、彼は微笑んで見送った。
「つーかれーたーっ!」
レティシアはそう言いながら、いつもの木陰にゴロンと横になる。
整えてもらった髪も、走ったせいで崩れ、彼女はため息をこぼす。
しかし、すぐに彼女を呼ぶニルヴィスの声が聞こえる。
「レティシア様! もうすぐお昼なので、そんな所で寝てないでくださーい!」
(あーもう! あれからずっと走ってたんだから、少しくらい休んでも、罰は当たらないって……)
レティシアは心の中で悪態をつきながら、すぐに体を起こすと立ち上がる。
そして、彼女はすぐさま歩き出す。
彼女が歩いていると、背後から強い風が勢いよく吹き付けた。
レティシアは足を止めて、顔に当たらないように髪を抑える。
「おまえは、変わらないな」
風がやむとレティシアの後ろから、そう言った声が聞こえた。
その瞬間、彼女の胸は大きく弾む。
そして彼女は声がした方を振り向くと、自然に視界が歪んでいく。
最後に合った時より、少しだけ背が伸びたその姿に、彼女は思わず言う。
『あなたも、そんなに変わっていないと思うけど?』
レティシアは声の主を見つめると、黒髪の少年が彼女に向かって優しく微笑む。
そして彼は、ゆっくりしゃがむと、口を開く。
「レティシア、おいで」
レティシアはその言葉を聞くと、短い手足を必死に前へ前へと動かす。
彼に向かって走り出した彼女は、その勢いのまま彼に抱き付いていた。




