第37話 冷たい訪問者
神歴1490年3月3日。
まるで何かを案じるかのように、空はどんよりとした姿を見せ。
フリューネ家の屋敷を隠すように、雪は世界を白く染めていく。
耳を済ませれば、雪が降る音の中に精霊たちの悲しみが聞こえてくるようだ。
暖かい部屋の中では、紅茶の香りがほんのりと広がる。
魔法で灯された照明は、その場の雰囲気を表すかのように、ほんの少し薄暗く。
けれど、部屋の空気は緊迫した不穏な雰囲気が漂っている。
レティシアは紅茶を一口飲むと、ティーカップをソーサーに戻す。
彼女の視界には、頭を抱えるエディットと、それを心配そうに見つめるリタがいた。
先程パトリックから、ダニエルがこの家に向かっていると連絡を受けたばかりだ。
仕方がないと思いながらも、レティシアは息苦しさを感じる。
なぜなら、騎士団の3人が重たい空気を、さらにややこしくしているからだ
パトリックが来てから、レティシアは騎士団の3人がどこか殺気立っていることを感じ取った。
重たい空気を浄化するように、凛とした声が部屋に広がる。
「そろそろ、ダニエルが玄関に着いてしまうわ。行きましょう……」
そう言ったエディットは、おもむろに立ち上がる。
エディットは眉を下げているレティシアの方を見ると、安心させるようにふわりと微笑む。
そして、髪を耳に掛けて左耳をレティシアに見せた。
そこには、青い小さな宝石が付いたピアスが付けられている。
「レティが近くにいる感じがして、今年も着けることにしたわ」
エディットはそう言って、そっとピアスを触ると安心したように笑う。
彼女はレティシアが驚いた表情をした後、嬉しそうに目を細めて静かに微笑んだ。
エディットの言葉に、部屋の中は一瞬の静寂が訪れる。
それから、リタは騎士団の3人に頭を下げると、エディットの後を追うように部屋を出て行く。
騎士団のアルノエもレティシアを抱き抱えると、彼女たちに続き、ドアを静かに閉じた。
静かな廊下には、静かな足音と服が擦れる音が響く。
パトリックの来訪から始まった緊張感が、彼女たちの胸を圧迫する。
しかし、彼女たちはそれを押し殺し、玄関ホールへと向かう。
玄関ホールに到着すると、エディットは深呼吸して、扉を見つめた。
その瞬間、外から聞こえてくる足音が止まり、扉の向こうにダニエルの存在を感じる。
すると、玄関ホールには冷たい冷気が入り込み、肩についた雪を払うようにダニエルが入ってきた。
ダニエルは玄関ホールに集まった面々を見ると、深く眉を寄せた。
そして、上着のコートを軽く持ち上げ、すっと下に引っ張って整える。
「やぁ、エディット。今年は出迎えてくれる人が多いんだね。だけど、手紙にも書いたように人を減らしてほしいんだ。難しいことを、頼んでるわけじゃないと思うんだけど?」
ダニエルはそう言うと、エディットの方を冷たく見る。
その瞬間、エディットが思わず後ずさると、ロレシオとニルヴィスが腰に下げている剣にそっと触れた。
ダニエルは彼らの様子を見て、呆れるように首を左右に振り、わざとらしく息を吐き出す。
けれど、ロレシオとニルヴィスの陰に隠れ、息を潜めるように立っているアルノエをダニエルは見つける。
アルノエの腕の中では、レティシアがダニエルの様子を窺っているようだ。
ダニエルはレティシアを見つけると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
その瞬間、レティシアはまるで背中に冷たい刃物が滑るような感覚を覚えた。
彼女は無意識のうちにアルノエの上着を強く握りしめ、小さな手は意識とは関係なく震える。
それが恐怖によるものなのか、ただ単に気味が悪かったのか、区別が付けられずに不安が広がる。
しかし、一つ確かなことは、あの男の目つきが異常に不気味で、心をざわつかせるのに十分だったということを理解した。
「ダニエル様、お部屋にお連れ致します」
手を胸に当てて頭を下げたジョルジュは、温かみの感じない声でそう言った。
だが、ダニエルはエディットに近付くと、彼女の手を取り力尽くで抱き寄せる。
「俺の最低限のお願いも、もう聞いてくれないんだね。今年も君のために指輪を持ってきたのに。ゆっくり部屋で話そう」
ダニエルはエディットの耳元で囁くと、彼女の手を引っ張って2階へと続く階段に向かう。
エディットの足は縺れて転びそうになるが、ダニエルは1度だけ振り返り、彼女の手を引っ張って引き寄せる。
レティシアは連れて行かれるエディットを、心配そうに見つめた。
そして彼女は冷たく、軽蔑するような視線をダニエルに向ける。
しかし、彼女はこの場に残っている者たちが、彼女と同じようにダニエルを見つめている雰囲気を感じた。
レティシアはアルノエに『行こう』と短く伝えた。
彼女は宿舎に向かう途中、右耳に着けていた緑の宝石が付いたピアスをそっと触り、意識をピアスに向けている。
ピアスからはまだ何も聞こえないことに、レティシアは不安になった。
レティシアが部屋に着くと、ピアスから声が聞こえ始めた。
彼女は慌ててアルノエの腕から逃れると、ピアスに意識を向ける。
*
『リタ、悪いけど出て行ってくれ』
『……』
ドスドスと重たい足音が聞こえると、何かが壁にぶつかる音と、女性の息を吞む声が聞こえた。
『出て行けって言ったんだ!!』
『――リタ、お願いよ。言うことを聞いてちょうだい!』
ダニエルが怒鳴る声がすると、エディットの声が震えているように聞こえた。
レティシアは聞きながら、眉間に深いシワを作り、エディットの部屋がある方の壁に鋭い視線を向ける。
『かしこまりました。何かありましたら、お声をおかけください』
弱弱しくリタが話す声が聞こえると、レティシアは先程の音はもしかしたら、リタが壁に叩きつけられた音ではないのかと思った。
そして、ゆっくりっとドアが閉まる音が静かに響く。
『エディット、なぜ屋敷に騎士団がいるんだ?』
『今日はたまたま呼んでいただけよ。あなたがいる期間は、宿舎からこちらに来ないでほしいって伝えているわ』
『本当だろうな?』
『ええ、でも怒っているからと言って、リタにあんなことをしていいと私は思わないわ』
『誰のっ!!』
ドン! っと叩きつけるような音が聞こえると、食器が小さく鳴った。
暫くすると、深いため息が聞こえる。
『はぁ……まぁいい。悪かった』
『私じゃなくて、リタに謝ってちょうだい』
『なんで俺がメイドに対して、謝る必要があるんだ?』
エディットの声からは少しばかり苛立ちの色が見えたが、ダニエルの声は呆れたようなものだった。
そして、エディットの声は悲しみの色に染まる。
『もういいわ。あなたは昔と変わってしまったのね。昔は使用人にも優しかったのに』
『ふん、俺はいつも優しいと思うけどな? ところで、これ……』
『……前のと似ているように見えるけど、何か変わったのかしら?』
『ああ、前のよりも丈夫になったと思うよ。あれからも研究は続けてて、今は平民にも試してもらったりしてる。だから、今回はすぐには壊れないよ、それは保証するよ。でも、今は手作りだから、多少は個体差があると思うんだ。それでも、また壊れたら教えてほしい』
『……分かったわ』
『それじゃ、俺は休んでくるよ』
どこか軽やかな足音が聞こえると、ドアを閉める音が聞こえ、続けてドッサっという音が聞こえた。
その瞬間、ピアスから盗み聞きしていたレティシアは、全身に緊張が走る。
しかし、エディットのすすり泣く声が聞こえ始めると、レティシアはエディットがその場に力なく座り込んだのだと思った。
*
レティシアはピアスから手を離し、天井を見つめた。
彼女は、エディットがダニエルをどう思っているのか考える。
しかし、どんなに考えても彼女には結論が出ない。
エディットのために何ができるのか、エディットが何を望んでいるのか。
その答えがよりレティシアの自由を縛る。
(お母様……お母様は今でもお父様を信頼し、愛しているのですか? 私がお父様と会わなければ、お母様は安心できますか? 私は……どうしたらいいの……)
レティシアはそう思うと、ゆっくりと目を閉じる。
すると、目尻からは涙が流れ出した。




