第32話 魔力と3人の騎士
神歴1490年2月12日。
書庫を出たアルノエは、レティシアを部屋に送ると、思い詰めた顔で歩いていた。
彼は書庫のことを思い出し、波のように押し寄せる無力感に潰されそうになる。
それでも、彼は憂鬱な気持ちと共に、冷たく無機質な白く長い廊下を進む。
魔法で照らされた照明は、ぼんやりと灯っている。
それは、まるで彼の気持ちを映し出しているかのようだ。
アルノエは1階に向かうために廊下を曲がった。
すると、腕を頭の上で組んで白い冷たい壁にもたれ掛かる、ニルヴィスと目が合う。
「よっ、お疲れさん」
ニルヴィスは片手を軽く上げて、笑顔でアルノエに気さくに声をかけた。
その後ろには、ロレシオが疲れた顔で窓枠に寄り掛かっている。
「おつかれさま。大変だったな」
ロレシオもニルヴィスと同じようにアルノエに対し、労いの言葉を言った。
しかし、アルノエは言葉を失う。
できれば、今は彼らと会いたくなかったのだ。
そうとは知らず、頭の後ろで手を組んでいるニルヴィスは、アルノエに厳しい視線を向けて聞く。
その声色は軽い口調とは違い、真剣で固い声だ。
「ねぇねぇ、アルノエ。それで、さっきのあれは、なに〜?」
「オレも、状況がよく理解できてない……」
項垂れながら、アルノエは弱々しく答えた。
彼はレティシアが付与術を施す前に、彼女が指を切った辺りから異変を感じていた。
しかし、アルノエは付与術式に対する知識を持っていない。
そのことから、どう対処していいのか、アルノエには判断がつかなかった。
結局彼は、魔力暴走を起こす可能性があったレティシアを、ただ見守ることしかできなかった。
悔しさからアルノエは目を瞑る。
ニルヴィスは、アルノエの様子を微笑みながら見ていた。
しかし、ニルヴィスの目は冷たく、アルノエの様子を窺っている。
一方その頃。
部屋に居たレティシアは、突然思い立ったように立ち上がると、彼女は時計を見た。
夕飯まで時間があるのを確認すると、アルノエを追いかけるために急いで部屋を出て行く。
彼女はアルノエに、明日は短剣に施した付与術の具合を確認したいため、訓練場へ行きたいと伝えることを忘れていたのだ。
(いまさっき、送ってきてもらったばかりだから間に合うよね? それに……、試すことになるけど、ちょうどいいかも……。アルノエがどの程度、気配を読み取れるのかも気になるし……)
そう思ったレティシアは、瞬時に極限まで彼女の中にある魔力を抑え込む。
そして、悟られぬように、足音と気配を消していく。
彼女は楽しそうに笑うと、白くて綺麗な廊下を進む。
気配と足音を消すっといったことも、レティシアの過去の経験から学んだことである。
暗殺や情報収集をなりわいにしていた周りの仲間からも、その技術は評価が高いものだった。
レティシア廊下の曲がり角まで来ると、男性の声が聞こえた。
急いで壁に張り付くと、背筋を伸ばして声の方に意識を向ける。
「それにしても、さっきの魔力の気配は、本気でやばかったよね〜」
「ああ……、俺も膨大な魔力を感じて、慌ててこっちの建物に来た」
そう話す声が聞こえ、レティシアの笑顔に影が落ちる。
ぬかるみを踏んでしまった時のように、彼女の足元がぐらつく。
「オレは近くに居たが……すごく驚いた……」
(あ、アルノエだ……)
アルノエの声を聞いたレティシアは、少しの会話から間違いなく、彼らが彼女の話をしているのだと確信した。
レティシアは記憶をたどり、声だけでアルノエと一緒にいるのが、ニルヴィスとロレシオだと思った。
声の主が誰だか分かったレティシアは、スーッと目を細めると、さらに会話を聞く耳に集中する。
「ボクさ、久しぶりにあんな魔力を感じたよ〜」
「俺もだ……」
「それにしてもあの子、良かったね? ノエが近くに居なかったらボクとロレシオで、多分殺してたよ?」
薄ら笑いを浮かべながら、首をかしげたニルヴィスはそう言った。
それはどこか楽しそうにも見える。
彼らがいる白い廊下は、魔法で照明が灯されているのにもかかわらず、どこか薄暗い。
「おい!」
ロレシオがそう言いながら、ニルヴィスの肩を掴んだ。
肩を掴まれたことによって、少しだけロレシオの方を振り向いたニルヴィスは、無邪気な少年のように笑う。
「ぁははっ! でもさぁ〜ここで魔力暴走を起こされるぐらいなら、殺っちゃうでしょ〜?」
レティシアはニルヴィスが話すのを聞いて、俯いてしまう。
その表情は暗く、廊下の白い壁がより一層冷たく感じる。
(……やっぱり頑張って抑えたけど……離れてた彼らにも分かったんだね……)
レティシアはそう思うと、拳を握った。
ニルヴィスが言った言葉を、レティシアは否定することができない。
なぜなら、最悪の状況は彼女も考えていたからだ。
「ニルヴィスそれは、分かっているが……違う方法もあるだろ」
ロレシオは苦しそうに言うと、悲し気に下を向く。
けれど、ニルヴィスはその様子をちらっと見ると、口角を上げてアルノエに話しかける。
「えー! じゃ! 違う方法ってなに~? ボクは違う方法なんて、知らないんだけど~? それで、実際近くに居た、ノエはどう思ったの??」
ニルヴィスに聞かれたアルノエは、こうなることを分かっていた。
だからこそ、彼らと会いたくなかったのだ。
アルノエは、俯いて握っていた拳をさらに強く握って答える。
その声は、悔しさに滲み震える。
「オレは……魔力が暴走すると判断してたら……、殺ってた……」
「でしょ〜? そもそも、魔力暴走をこの屋敷で起こしてみろよ〜。規模にもよるけど、エディット様だって無事じゃないよ〜? それならさ、魔力暴走を起こされるより、断然、賢明な判断だとボクは思うけどな〜」
頭の後ろで手を組んだニルヴィスが、まるで空に向かって話すように言った。
レティシアは拳を握っていた手のひらに、爪が食い込む。
(分かっている。――魔力暴走を起こしたら、最悪私も死ぬ可能性がある……。それも……周りを巻き込んで……。魔力封印系のアイテムを持っていない状況なら、私も彼らと同じ選択をした……だから、彼らは何も間違っていない……)
レティシアはそう思うと、拳を広げて爪の跡が残る手のひらを見た。
過去の人生で、彼女は魔力暴走をおこした子どもを、手にかけたことがある。
その時のことを、彼女は忘れることはない。
しかし、彼らにも同じ思いをされたかもしれないと思うと、レティシアは胸が苦しくなった。
「それは分かっているが、ニルヴィス、俺はあんな幼い子を殺したくない!」
ロレシオは喉から叫ぶように声を荒らげ、手で空気を振り払うようして言った。
ニルヴィスは1度ロレシオの方を見ると、ニヤリと笑う。
「ロレシオは、優しいね〜 でも相手が幼児だろうと、危険だと判断したなら殺さなきゃ、これは仕事だよ〜?」
そう言ったニルヴィスは、呆れたように首を左右に振るとため息をついた。
しかし、アルノエは顔を上げて、悲しそうな目をニルヴィスに向ける。
「ニヴィ……。あまり思ってないことを、口に出して言わない方がいい。君だって俺が動かなかったから、書庫まで来なかったんだろ?」
そう言ったアルノエの声は、諭すような厳しさの中に優しさがあった。
ニルヴィスは咄嗟に俯くと、力強く拳を握る。
彼の目には涙が姿を現し、ニルヴィスは涙が零れないように目を閉じた。
「……」
「ニヴィ?」
心配そうにアルノエが、ニルヴィスに声をかけた。
ニルヴィスは顔を勢いよく上げると、キッとアルノエを睨む。
「あーー! もう!! ノエはうるさいなぁー! ……しょうがないじゃん!!! ……ボクさ……ちゃんと聞こえたんだよ “またね” って……」
気持ちを吐き出すように、ニルヴィスは言った。
彼の目には涙が溜まっていて、ニルヴィスはその場に蹲ってしまう。
そして、泣きそうな声でさらに言葉を続ける。
「……守りたいって思うじゃん……。仕事だと分かってても……。できることなら、ボクは……魔力暴走を起こしたからっと言って……、レティシアちゃんを殺したくない」
ニルヴィスの声を聞いたレティシアは、そっと目を瞑った。
(……きっと、彼らは悩んだんだろうな……。それに対しては謝らないと……)
魔力暴走を起こす可能性に気付いた彼らを、自分を殺そうとしたと責め立てる気はレティシアにはない。
彼らの行動は当然であり、最も被害を抑える方法なのだ。
レティシアはそれがいやで、過去の人生では結界魔法である魔力遮断結界を作り上げた。
けれど、この世界にはレティシアが作った結界魔法はない。
レティシアはゆっくり目を開けると、悪いと思いつつも、3人がどの程度の気配で気付くのか知りたくなった。
それはちょっとした好奇心と、彼らにどれだけ心配をかけてしまったのか、知りたかったからだ。
彼女は、消していた気配を徐々に元に戻していく。
そして気配を少しだけ戻したところで、3人に緊張が走って警戒したのが、レティシアには分かった。
(この辺りか……ルカほどじゃないにしろ、やっぱり感覚もいいのね……。それなら、早い段階で私の魔力の異変にも、気付いたんだわ……)
レティシアはそう思うと、廊下の角から大きな一歩を踏み出して姿を見せた。
『こんばんは。お騒がせしてごめんなさい』
そう言いながら姿を見せたレティシアは、頭をかきながら眉を下げて笑った。
3人は警戒を解くと、ニルヴィスがしゃがんだまま、レティシアに笑顔を向ける。
「いいよ〜いいよ〜。でも~なんで、あんなことになったのかだけ、教えてくれる〜?」
首をコテンとかしげながら、ニルヴィスは優しくレティシアに聞いた。
(全く驚いてないところを見ると、テレパシーのことも知っているのね……。それならアルノエと同じように、ルカから話が行っているのかもしれない)
レティシアそう思いながら、チラッとアルノエをみると彼は頷いた。
(ルカの手紙に書かれてた2人が、この2人だったのかもね……)
『さっきのは、付与術をやったの。でも、普通の付与術式じゃなくて、主従関係を結ぶ形で、使用者制限と5属性付与をやったからだと思うわ』
レティシアがそう答えると、ニルヴィスは怪訝そうな顔をする。
「それ、ボクに見せてもらえる?」
ニルヴィスはそうレティシアに言うと、彼女は小さくなった短剣を取り出し、ニルヴィスに差し出した。
ニルヴィスはそれを手に取り、書かれている術式と、魔力の流れを観察するように眺めた。
その目はとても鋭く、まるで短剣が持っている本来の鋭さを、思い出させるものだ。
「ふ〜ん、なるほどね〜。魔力探知には、全く引っかからないね〜。相当強い結び付きがある……もしかして血を使った?」
そう言ったニルヴィスの目はスーッと細くなり、レティシアを見極めていた。
ニルヴィスはレティシアの瞬きや、瞳孔の変化さえ見逃さないように彼女を見つめる。
『使ったよ。その方が扱いやすいから』
レティシアがそう答えると、ニルヴィスはアルノエとロレシオの方を見た。
それは、まるで眼だけで知っているか聞いているようだ。
「オレは、分からない……初めて見たから」
「俺も分からないぞ、付与の付いた武器を使わないからな」
2人の言葉を聞いたニルヴィスは静かに頷いた。
それからニルヴィスは、頭に手を当てると、指でトントンとたたく。
彼は付与術の知識があったからこそ、この後はどうすべきなのか考える。
レティシアはニルヴィスの反応から、彼には付与術に関しての知識があるのだと思った。
そして、同時にニルヴィスがレティシアのことを、どう思うのかも不安になる。
窓から見える外の景色は暗く。
遠くからは、楽しげに話す使用人の声や、使用人が集まる部屋に運ばれる食器の音が聞こえる。
ニルヴィスは暫く考えてから、レティシアに微笑みかけながら話し出す。
「レティシアちゃん、短剣に刻まれた術式については、ボクからルカ様に報告するね? それで、なんか用があったんでしょ?」
『あ、うん。明日、その短剣を試したくて、アルノエに訓練場のことをお願いしようと思って……』
レティシアが不安げに言うと、ニルヴィスは人差し指を顎にあてながら答える。
「んー。短剣の使用も含めて聞いてみるから、それまで使わないでほしいかな? 大丈夫だったら、今度は洋服を準備させて、予定を事前に聞きに行くよ〜! アルノエ、ちゃんとレティシアちゃんを食堂に送り届けてね〜」
ニルヴィスはそう言うと、レティシアの手を取って手のひらに短剣を置いた。
そして、おもむろに立ち上がると、ロレシオに小さな声で「行こう」っと言って、白い無機質な廊下を歩いて行く。
ニルヴィスの心では、複雑な感情が渦巻いている。
けれど、悟られないように彼は前を向いて進んだ。
アルノエは遠ざかって行く2人を見つめると、レティシアに笑いかけて手を差し出す。
「では、食堂に向かいましょうか」
(確かに心配させることをしたけど、こんなに大事になるとは思わなかったわ……)
レティシアはそう思うと、アルノエに差し出された手を取り食堂へと向かった。




