第31話 短剣と試練
神歴1490年2月12日。
昼食後、レティシアは少しだけ庭で過ごすと、早めに部屋に戻った。
彼女は短剣が入った箱を抱えると、わずかに強張った顔をしながら書庫へと向かう。
廊下にある窓の外では鳥が歌い。
窓から入る日差しから、書庫に向かうレティシアは、ほんのり温かく感じる。
「レティシア様?」
不意に、レティシアは名前を呼ばれて足を止めた。
「どうしたのですか? 今の時間ですと、いつもはまだお庭にいらっしゃるお時間ですよね?」
アルノエはそう言いながら、レティシアの方に歩いてきた。
本来なら、レティシアはまだ庭にいる時間だ。
それにもかかわらず、彼女がここにいたことでアルノエは心配になった。
レティシアは、思わず苦笑いを浮かべる。
庭から早く戻ったのも、アルノエやアンナに会わないためだったからだ。
『ちょっと、書庫に行こうかなって思って……』
「それでしたら、オレはこの後、レティシア様のお部屋に向かおうと思っておりました。なので、ご一緒いたします」
優しくアルノエが微笑みながら言った。
レティシアは諦めたように『分かったよ』と言うと、書庫に向かって歩き出す。
出来ることならば、誰にも心配をかけたくなかったレティシアは、1人で書庫に行きたいと思っていた。
けれど、レティシアの様子がいつもと違うと感じたアルノエは、彼女を1人にしてはいけない気がした。
書庫に入ると、レティシアは鍵を閉めた。
そして、左手に天井まで高い本棚に沿って進み、突き当りを右に曲がる。
そこには、他の場所と比べると広い空間があり、エレガントなアームチェアと小さなテーブルが置かれている。
レティシアは置かれていたアームチェアには座らず、木製の床に座ろうとした。
しかし、アルノエはレティシアの肩に軽く触れる。
「少々お待ちください」
そう言って、アルノエはレティシアを止めた。
彼はマントを取ると、レティシアが座れるように床にマントを敷く。
『別にそんなこと、護衛だからってしなくてもいいんだよ? ルカとここに来てた時は、毎回そのまま床に座っていたし……』
レティシアはそう言うが、アルノエはそれでも丁寧にマントを広げる。
木製でも、ずっと床に座っていれば体は冷えていく。
ましてや、レティシアはまだ小さな子どもだ。
大人よりも早く体が冷えていくのを、アルノエは心配していた。
アルノエは言葉を選びながら、レティシアに言う。
「いえ。レティシア様はまだ幼いですが、女性です。ですので、体をあまり冷やすべきではないと思います」
譲りそうにもないアルノエの態度に、レティシアは半ば仕方がないと諦め、敷かれたマントの上に座った。
「レティシア様、こちらで本を読まれるのですか?」
プレゼントを受け取った日から、かなりの時間をともに過ごした。
それにもかかわらず、アルノエはレティシアが堅苦しさをいやがるという事実を知りつつも、彼女に対して敬語を使い続けている。
もちろん、そのことでレティシアは怒ったりなどしない。
けれど、レティシアはアルノエが少しだけ、不器用な人なのだと思った。
『ううん。ルカに貰った短剣に、付与術の術式を書こうと思ってね。部屋だとアンナが入ってくるかもしれないけど、書庫なら通常は鍵を持った人しか入れないの。だから、途中で中断されるってこともない。もし失敗した時も、ここなら問題ないから、ここでやろうと思ったの』
レティシアはそう言いながら、持っている箱を床に置いた。
箱の蓋を開けて中から短剣を取り出すと、短剣を鞘から抜いて目の前に2つを並べる。
彼女は気持ちを落ち着かせるように、目を閉じて深く息を吸い込む。
肺がいっぱいの空気で満たされると、時間をかけて今度は肺を空にしていく。
レティシアはゆっくりと目を開けると、短剣で指先を軽く切り、意識を集中させる。
少しだけ離れた所にいたアルノエは、レティシアの気配が変わるのを感じ取った。
彼はそっと、腰に下げている剣に手を置き、レティシアの様子を見ている。
アルノエの瞳は不安と焦りで霞んで、額からは頬を伝う汗が流れた。
レティシアの指先から、わずかに属性を含んだ魔力を出しながら、彼女は空中に文字を書いていく。
【光が盈ちし時汝その真の姿を現し主に力を貸し与え、闇が盈ちし時汝その真の姿を縮小し主の為に姿偽り、生命の源盈ちし時汝凍て付かせる氷の刃となり、真炎盈ちし時汝劫火纏いし炎の剣となり、天つ風響く時汝切り裂く風の刃となれ、汝闇を宿し時その力を影に隠し護り抜くものとなれ、我汝の主なり】
空中に書いた文字は、赤く光りながら紙に書いたように並ぶ。
レティシアは属性を含んだ魔力を流している指で、最初から1文字1文字なぞりながら拾っていく。
そして、拾う作業が終わると、彼女は短剣に意識を向ける。
少しずつ、けれど確実に短剣と文字が同調するように、魔力の調整をしながら1文字1文字短剣に刻む。
普段のレティシアの文字は上達したとはいえど、このように奇麗な文字ではない。
だが、術式文字は根本的に書く意味合いが違う。
なぜなら、術式文字は想いと知識が、その文字を最終的に形成するからだ。
途中レティシアは疲労感に襲われるが、彼女は手を止めることはなかった。
ここで中断してしまえば、全て最初からになってしまう。
しかし、この術式は通常の術式とは異なるため、やり直すということはできない。
短剣に途中まで刻まれた文字は消えなくなり、短剣に同じ術式を刻めなくなるからだ。
そのため、彼女は最後まで集中して、作業を続けた。
それが終わると、鞘にも似たような作業を施し、短剣を鞘の中に仕舞う。
「ふぅー……」
作業を終えたレティシアの口から、思わず息が吐き出された。
少しだけ離れた所から見ていたアルノエは、レティシアに駆け寄ると彼女にハンカチを手渡す。
「オレ、初めて付与術を拝見しました」
アルノエが驚いたように言うと、先程術式を施した短剣を見つめる。
しかし、アルノエは短剣を見ながらも、レティシアの体内から感じる魔力に意識を向けている。
レティシアは短剣に闇の属性の魔力を流し込み、短剣を小さくして返事する。
『へぇ、そうなんだ? でも、これは普通のじゃないから、なんの参考にもならないと思うよ? ……うん、大丈夫……魔力感知にも引っ掛からない……』
レティシアはそう言うと、疲労から少しだけ目眩を感じた。
すると彼女の顔を、アルノエが心配するように覗き込んだ。
「あの……レティシア様大丈夫ですか? 顔色が悪いように見えますが……」
アルノエはそう言うと、レティシアの頬を触る。
触れた頬は、冷たくなっていて彼は心配になった。
しかし、彼女は考えるそぶりをし、アルノエの質問に対し質問で返す。
『アルノエ、私は少しだけ寝るから、夕飯前に起こしに来られる?』
レティシアの質問に驚いたアルノエは、一瞬言葉に詰まった。
けれど、それでも彼は言葉を続けて、レティシアに聞く。
「えっと……それは大丈夫なのですが、レティシアは大丈夫なのですか? お部屋に戻りますか?」
『ううん。部屋に戻ったら勘付かれるし、ここの方が安全だから、ここで寝るわ』
レティシアは軽く首を左右に振った。
そして、アルノエに鍵を渡して、ゴロンと横になった。
レティシアは横になると、膝を抱え込むようにして包まる。
それから目を閉じて、彼女の中で暴れ回っている魔力を抑え込む。
小さくなった短剣を握りしめながら、彼女は胸を抑えた。
(まだ子どもの体で、通常とは違う方法……。さらに5属性同時付与は、やっぱりきつかったわね……。この書庫は元から結界が張ってある……大丈夫……抑え込めれば……魔力は暴走しない……。アルノエ以外には、バレない……大丈夫……大丈夫よ……大丈夫)
レティシアはそう思いながら、ひたすら自分の中で暴れ回る魔力と向き合った。
下手したら、魔力暴走を起こす可能性があった彼女は気が抜けなかった。
血が沸騰する感覚と、全身の魔力が外に出ようと内側から膨れる感覚。
それは、まるで深い海に落とされたようだ。
息を吸い込むのも苦しく、息を吐き出すのも気管が焼けるように熱い。
けれど、少しでも隠さなければならないと思うと、彼女は息を潜めるしかなかった。
数時間苦しんだレティシアは、やっと体内の魔力が収まると、疲労から眠っていた。
アルノエはレティシアが寝たのを確認すると、その近くに座った。
彼は膝に顔を伏せると、重たいため息をつきそうになる。
しかし、レティシアが寝ているのを思い出すと、顔を上げて大きく息を吸い込んだ。
アルノエは手のひらを悲し気に睨み、悔しそうに瞑る。
そして、何もできなかった己の無力感に、彼は歯を食いしばって祈るように拳を握った。
暫くしてして、小さくなって眠るレティシアを、アルノエは悲しそうに見つめる。
それから彼は、息を吹きかけるように「オレは、どうすればよかったんですか……ルカ様……」と言葉をこぼした。
レティシアは目を覚ますと、起き上がって辺りを見渡した。
変わりがないことを目視で確認すると、レティシアは、安心したように短く息を吐き出す。
アルノエはレティシアが鍵を渡したのにもかかわらず、彼女の近くに座って静かに本を読んでいる。
その姿がわずかに、ガーネットの瞳を持っている少年と重なる。
レティシアは無意識に「ルカ……」と小さく呟いた。
手の中にある小さくなった短剣を、レティシアは見つめる。
そして、その短剣を大切そうに触ると、胸の辺りで握りしめた。




