第28話 日常と想い
初めてレティシアが、アルノエと一緒に訓練場を訪れた日。
レティシアたちが部屋に戻ると、アンナはアルノエが残した置手紙を手に握りしめて、彼女の帰りを心配そうに待っていた。
アルノエはアンナを見ると、レティシアを下ろしてから、そばに行くと彼女を落ち着かせるように話しかけた。
その声は穏やかで、とても落ち着きがあった。
彼はアンナが落ち着いたのを確認すると、丁寧にいろいろと説明をして彼女を安心させると、アンナに頭を下げて謝罪していた。
アンナはアルノエの対応に好感を持つと、涙を拭いながら笑いかけてレティシアにお茶を提案する。
心配を掛けたことを悪いと感じたのか、レティシアは微笑むと、頷いてその提案を受け入れた。
その日から、アンナがレティシアの部屋で過ごす時間が増え、アルノエも時間ができると、仕事の合間にレティシアの部屋に姿を見せるようになった。
アルノエが見守る中、レティシアとアンナはたわいもない話をしたり、アルノエがレティシアに文字を教えたりして3人は楽しく過ごすようになった。
それは、レティシアがアルノエと訓練場を訪れた日から、1ヵ月経っても変わらず続いている。
「わたし、最近こうやってレティシア様とアルノエ様と過ごすことが増えて、レティシア様がわたしともよくお話をしてくれて、とっても嬉しんですよ!」
本当に嬉しそうにアンナが言うと、文字を書く練習していたレティシアは顔を上げた。
そして、向かいに座るアンナを見ると、子どもらしい笑顔を浮かべる。
「わたしも、たのしいよ!」
そう答えたレティシアは、嬉しそうに目を細めると口角を上げた。
「ルカ様が帰ってしまわれてから、レティシア様はどこか寂しそうだったので……。でも最近はよくレティシア様が笑うのは、アルノエ様のおかげですね!」
アンナはそう言いながら、今度は少し頬をピンクに染めてふんわりとした笑顔を、レティシアの隣に座るアルノエに向ける。
アルノエは最近よく笑うようになったレティシアの話を聞いて、その事実が嬉しいと思う。
彼は優しく微笑みながらレティシアのことを見た後、アンナの方を見た。
「いえ、私は何もしておりません。しかし、私が来るようになってレティシア様の笑顔が、以前よりも増えたのでしたら、私も嬉しい限りです」
彼はそう言うと、再びレティシアに顔を向けて微笑んだ。
(アンナに心配を掛けていたんだね……。確かに、アンナと2人で過ごす時間があっても、私が本を読んでいることも多かったから、アルノエが来てから変わった……。彼女との会話も増えたし、笑うことも多くなった。そう考えると、アルノエに感謝しなきゃだね)
レティシアそう思うと、周りが自分のことをちゃんと見ているんだという事実が嬉しかった。
ふわふわと心が軽くなるような、それでいて胸のあたりがポカポカしてくるような不思議な感覚になる。
「アルノエ! これ、こう?」
「そうですよ、上手です。レティシア様、少々お手を失礼します」
レティシアが満面の笑みでアルノエに聞くと、彼は嬉しそうに微笑みながらそう言った。
その微笑みは、まるで妹を思う兄のように温かくて優しいものだ。
そして、おもむろに立ち上がると、レティシアの背後に周った。
彼は後ろから彼女のペンを持っている手に自分の手を添えると、彼女の手を動かしながら文字を書いていく。
「こんな感じで書くと、さらに綺麗に書けますよ」
アルノエはこうしてレティシアに対し、丁寧に教えている。
その声は、まるで風が彼女に寄り添ってくれるような、温かなものだった。
レティシアはそんなアルノエに感謝しつつも、視線を感じて盗み見るようにアンナの方を見る。
すると、アンナはアルノエの姿を、まるで恋する少女のようなうっとりとした表情をしながら見つめている。
(人の恋愛に対して、なんか言うつもりはないけど……。これは、完全に恋する乙女だな……もしかして、これがアンナの初恋なのかな?)
レティシアはそう思いながら、再び紙に視線を戻すと、書く練習を再開する。
ルカにしか読めなかった、ミミズにしか見えなかった文字が、ルカ以外にも読める文字になっている。
彼女はペロッと唇をなめると、さらに気合を入れて書いていく。
レティシアも彼女なりに、この世界に馴染もうとしているのだ。
アルノエは、そんなレティシアを微笑ましく見つめていた。
彼は、努力を重ね、日に日に上達する彼女を嬉しく思う反面、そんなレティシアを近くで見守れることに、喜びを感じている。
その様子を見ていたアンナは、手を添えられて教えてもらえるレティシアを、少しだけ羨ましいと思う。
そして、頬をほのかにピンクに染めたアンナは、勇気を振り絞るようにアルノエに話しかける。
「あ、あの! アルノエ様、私の方も見ていただけますか?」
「はい、もちろんいいですよ。――アンナさんのは、もう少し文字の繋げ方を意識した方が、いいかもしれませんね」
そう言いながらアルノエは、レティシアの後ろから移動すると、再びレティシアの隣に座ってしまう。
アンナはその様子を見てどこか残念そうにしながらも、彼に言われた通りに書いていく。
きっとアンナもレティシアみたいに、アルノエに手を添えてもらいたかったのだろう。
(アンナ、私は何もしてあげられないけど……、2人は歳が近いから、がんばれ! 私は人の恋愛を手伝えるほど、恋愛経験が豊富じゃないのよ。過去でも、誰かと恋愛したこともないし……。アンナ……ごめん。アドバイスとか、協力はできそうにないわ……)
2人の様子を盗み見ていたレティシアはそう思うと、ペンを握る手に力が入る。
それから、たまにアルノエに聞いたりしながら、彼が戻らなければならない時間まで、アンナとアルノエの会話に耳を傾けながら練習を続けた。
レティシアの部屋を出たアンナは、彼女の仕事場に向かう途中で庭園に立ち寄っていた。
彼女はどこか楽しそうに鼻歌を歌いながら、歩みを進める。
庭園で咲いている花は、風に揺れ。
冷たい風が、彼女の頬をなで。
メイド服の長い裾は風になびき、広がる。
けれど、レティシアが管理している花壇まで行くと、彼女は立ち止まって花壇を見つめた。
アルノエとレティシアが彼女の瞳に浮かび、3人でこの花壇の手入れをした日のことを思い出し、彼女は微かに微笑んでしまう。
だが、その笑顔は徐々に消え、その顔はどこか悲しそうにも見える。
アンナはおもむろにしゃがむと、膝に顔を伏せた。
彼女はアルノエの姿を思い浮かべると、初めて彼と会った日の出来事が頭に浮かんだ。
あの日の彼の優しさや親切さ、穏やかな声が心に鮮明に蘇る
しかし、それは徐々に3人で過ごす日常へと変化した。
あの日の優しさも、穏やかな声も、今はレティシアにだけ向けられている。
「――レティシア様は、いいなぁ……」
アンナは小さく呟くと、彼女は少しだけ顔を上げて、右手の甲を見つめた。
手には小さな傷があったものの、アンナの手は綺麗に手入れされている。
アンナは再びアルノエの姿を思い浮かべると、彼の隣で座って笑う自分の姿を思い浮かべてしまう。
「わたしも……触れてほしかった……」
そう呟いた声は、先ほどよりも小さく、風に掻き消されてしまう。
彼女はまた顔を伏せると、口からはため息がこぼれた。
しかし、それでも些細な出来事は脳裏から離れず、胸の奥はほのかに甘く脈を打ち、頬を熱くする。
それは彼女の心拍数を上げ、好きだという気持ちが溢れてくる。
そして、彼女は徐々に憧れの気持ちが、恋の感情に変わっていることに改めて気づいた。
(アルノエ様とわたしじゃ、釣り合わない……)
彼女はそう思うと、メイド服を握りしめた。
アンナはフリューネ家で働いていても、エディットが帝都から連れてきた元孤児。
けれど、アルノエはフリューネ家で騎士として働いているが、彼は子爵で貴族だ。
この事実は、変えることができない。
例えば、アルノエが彼女と同じように、彼女を思えばまた違うかも知れない。
しかし、アンナはアルノエから感じる好意が、レティシアの面倒を見ている “メイド” だからということを、彼女は知っている。
そのため、レティシアから離れてしまえば、もう彼と同じ時間を過ごすこともなくなる。
「……好きだなぁ」
アンナは、唇を噛むと、彼女の視界が、薄っすらと滲む。
(もっと一緒にいたい……。そうしたら、アルノエ様の気持ちも変わるかなぁ……)
彼女は視線を上げると、秋の日差しが花壇を照らし、花々の色はより一層鮮やかに見えた。
風が吹くと、花々は優雅に揺れる。
(どうしたらいいの……)
彼女は、そう思うと目を瞑った。
レティシアの花壇を見ようと、エディットは散歩の途中で、アンナがいる花壇にリタと一緒に立ち寄った。
そこで、しゃがんでるアンナを見つけると、彼女はアンナの肩に手を置き、優しく声をかける。
「あら、アンナどうしたの? 体調でも悪いの?」
不意に肩に手を置かれたアンナは、驚きながらも振り返った。
「大丈夫?」
エディットは心配そうに、首をかしげる。
けれども、アンナは答える気配がない。
アンナの目には、薄っすらまた涙が浮かぶ。
「あらあら、どうしちゃったの? 何かあったの?」
エディットがそう言うと、アンナは困ったように笑った。
「いえ、なんでもありません。ただ、エディットに拾ってもらえた幸せを、噛み締めていただけです」
アンナはそう言うと、目尻の涙を自分の指で拭う。
「本当に? 何かあったら、いつでも言ってね? 私で力になれることは、力になるから。なんでも言ってちょうだい」
エディットはそう言うと、アンナに微笑みかける。
その微笑みは、優しく包み込んでくれる陽だまりのようだった。
「ありがとうございます。では、困ったらエディット様に言いますね」
アンナはそう言うと、おもむろに立ち上がって頭を下げる。
「ご心配をお掛けしてしまい申し訳ありません。まだ仕事が残っていますので失礼します」
「気にしなくていいわ。アンナ、無理しないでね」
「はい、エディット様! ありがとうございます」
アンナはそう言って屋敷の方に向かって行く。
「大丈夫かしら……」
エディットは、アンナの後姿を見ながら、歩いていく彼女に心配そうな眼差しを向ける。
「大丈夫でしょう。エディット様は、気にし過ぎなのです」
リタが淡々と答えると、エディットは頬を膨らませた。
けど、リタの無表情からは、感情が読み取れない。
「もぉう、リタは昔からそうよね。私のこと以外は、どうでもいいみたいな顔しちゃって」
「いえ、今はエディット様とレティシア様です」
「……そう言うことじゃなくて……、まぁ、いいわ。――ねぇ、リタ」
呆れながらエディットが言うと、彼女は花壇を見つめながら、風に揺れている髪を耳に掛けた。
「はい、なんでしょうか?」
レティシアが花を植えてる花壇は、花の特徴を分かって植えられていた。
その花が、日向か日陰のどちらが好みなのか、咲く時期も考え、補色や同系色も意識されている。
また、花壇の中央に背の高い植物が置かれ、中間にはボリューム感を出して、アクセントになる花もある。
全体を見た時のことを考えて、植えられている花壇だ。
「綺麗ね……」
「そうですね、とても綺麗です」
エディットは花壇を見つめ、その美しさに心を奪われ感動していた。
彼女の目は、レティシアに対する愛と尊敬で輝く。
その表情は、心が軽くなるような優しい微笑みを浮かべている。
一方リタは、静かに花壇を眺め、花々が風に揺れると微かに微笑んだ。




