番外編❀ささやかなひと時
神歴1489年3月某日。
エディットの部屋では、窓辺にエディットが椅子に座り、その近くでルカとレティシアが床に寝そべっていた。
心地よい日差しが窓から入り込み、部屋の中を優しく暖かいものへと変えていく。
紙がパラパラとめくる音と、少し落ち着いてパラッパラッとめくれる音が聞こえる。
そこに糸が布と擦れる音が加わり、程よいリズム感を創り出している。
エディットは時折2人に視線を向け、優しく微笑むと手元にまた視線を戻した。
紡がれる小さな音たちは、部屋の中を暖かいものにしてくれる。
やがて、無造作に本が床に散らばっていくと、少年が本を変えるタイミングで綺麗に積み上げていた。
ほんの微かに小さなため息が聞こえると、クスッと笑う女性の声が聞こえた。
「ねぇ、レティシア? 読み終わったら綺麗においてくれる?」
エディットが話しかけると、小さな女の子は顔を上げた。
『あ、お母様、じゃまでしたか?』
「いえね、さっきからレティが散らかしたところを、ルカが整えているのよ?」
そう言ってエディットが微笑むと、どこか慌てた様子でルカが顔を上げた。
「あ、エディット様、これは私が勝手にやってることなので、レティシア様は何も悪くありません」
「良いのよルカ、ここには私たちしかいないのよ? そこまでかしこまらなくていいわ」
ニッコリと笑みを浮かべてエディットが言うと、「ですが……」と言い淀むルカの声が聞こえた。
すると、ふふふ、とエディットの方から笑う声が聞こえ、少し感じた緊張感を和らげてくれる。
「本当に忠実な子ね。でも、本当に良いのよ? それより、今日のお昼はどうだったかしら?」
ルカが「本日も」と言い始めると、「ルカ」とエディットが彼の話を遮り、「……ね? あまりかしこまらないで」と言葉を続けた。
そして、手に持っていた布を膝の上に置くと、「ね? 今だけでもいいから」と柔らかい声で言った。
「……はい。今日も美味しかったです」
「嫌いな物は入っていなかった? 苦手な物とかもなかったかしら?」
「いえ、ありませんでした……前回も言いましたが、苦手な物とか嫌いな物はありません」
「そうなのね……レティはどうだったかしら?」
『私も嫌いな物も、苦手な物もありません。なので、美味しくいただけました』
戸惑うように言うルカと、淡々と答えたレティシア。
2人は果たして会話する気があるのかという疑問すら湧く。
本を与えられれば、大抵は本を読み続ける2人は今も自然体なのだろう。
しかし、エディットの方を見れば、彼女は眉を下げてチラチラと2人を見ており、手元はモジモジと動かしている。
その様子から、彼女は彼らと会話がしたかったのだろうと推測できる。
「あ、あのね……レティ、お母さんが、その……本を読んでもいいかしら?」
エディットがそう言うと、彼女は安そうな顔で頬に手を添えている。
首をかしげたレティシアは、『……良いですよ?』と答えると、エディットの表情が笑顔に変わった。
その瞬間(良かったですねエディット様)と思うと、心の中で笑みが浮かぶ。
そして、エディットは背中の方から一冊の本を取ると、立ち上がって布を椅子の上に置いた。
そのまま彼女はレティシアとルカの間に腰を下ろし、柔らかい笑みを浮かべながら本をゆっくりと広げた。
「それじゃ、お母さんが読むから、2人はちゃんと聞いててね?」
2人が頷くと、エディットはゆっくりと本を読み始めた。それは、ちょっとした童話であり、昔から帝国にある物語だ。
それと同時に、伯爵以上であるなら、必ず子どもに読み聞かせてきた物である。
物語は世界の始まりを教え、帝国が出来た経緯や成り立ちを伝え、人と精霊の友情が描かれている。
物語を読み進める彼女の声は落ち着いていて優しく、安らぎと安心感をくれる暖かなものだ。
遅い速度で紙をめくる音が部屋の中に小さく響き、エディットの声が全ての緊張を解き放つような気持ちにさせてくれる。
暫くすると、小さな寝息が一つ聞こえ始め、それに続くように小さなため息が聞こえ始めた。
本を読んでいた声が止まり、ふと3人の方に視線を向けると、また暖かな気持ちが湧いてくる。
優しい手つきでレティシアの頭をなでているエディットは微笑んでおり、目元からは愛情が感じられる。
しかし、こちらに向かってエディットが口元に人差し指を当てると、彼女は黒髪の少年に手を伸ばした。
その様子を見ていると鼓動は早くなり、背筋に汗が流れて緊張が体を包み込む。
起きないでほしいと願うばかりで、エディットを止めることができない。
だが予想に反して、エディットが黒い髪を優しくなでても少年が起きる気配は見受けられない。
安堵の気持ちが全身を包み込み、息を吐き出しそうになった。
けれど、目を閉じて息を呑み込むと、気持ちを落ち着かせた。
耳に届くのは心地よい子どもの寝息と、微かに布が擦れる音だけだ。
起きた少年がどんな顔をするのか想像すると、思わず笑みが零れそうになる。
窓から差し込む光がさらに柔らかくなると、少年がむくっと起き上がるのが見えた。
彼の横顔には困惑が広がっており、思わず心の中で笑ってしまいそうになる。
しかし、「あら、ルカ起きたのね。よく眠れたかしら?」とエディットが言うのが聞こえた。
その声があまりにも優しくて、思わず少年を見つめながら(良かったですねルカ様)と思ってしまう。
伸ばされた手に戸惑いを見せつつも、少年の横顔は頭をなでられて曖昧な笑みを浮かべている。
エディットの表情は柔らかく、まるで母親のように見える。
もぞもぞとレティシアが動くのが見えると、彼女はルカの方に向き口元に人差し指を当てた。
それから私に向かって手を差し出すと、長年の付き合いで彼女が今何を求めているのか分かっている。
そのため、私は足音を少しも立てずに動き、エディットにクシを静かに手渡した。
嬉しそうに受け取った彼女は、そのままクシを黒髪に当てて優しく動かし始めた。
すると、近くで小さな体が動く気配が感じられ『……ん……リタ……?』とテレパシーが使われ、私は少しばかり肩を落とした。
「はい、レティシア様、おはようございます。良く眠れましたか?」
私が尋ねると、レティシアは眠たそうに目を擦りながら小さく頷いた。
何気ない……普通なら当たり前だと感じるこんな日常が、私に幸せだと思わせてくれる。
当主として働くエディットは常日頃から忙しく、レティシアがわがままを言わないのもあって、少女は1人になることが多かった。
本を読む姿も、私に話しかける態度も、彼女の年齢とは釣り合わない。
だけど、時折見せる幼い姿を見るたび、ゆっくりと大人になってほしいという気持ちは膨らむ。
今は少年が彼女の傍にいて、子どもらしく過ごしているのだと思えば、それも嬉しく思う。
これからも、時々こんな何気ない日が来るのだと思うと、それだけで明日も素敵な日になると思えた。
この幸せが、永遠に続くことを願いながら。




