第25話 近くて遠い
神歴1489年4月30日。
「ルカ、きれい?」
『ああ、上手に書けてるよレティシア』
ルカはレティシアが通信魔法道具に向かって見せている、まだミミズにしか見えない文字を見つめる。
彼女は彼が褒めると、へへへっと照れたように笑い、嬉しそうに目を細めた。
その光景を見ながら、ルカは目を細めて優しそうに微笑んだ。
この日、レティシアは今世で初めて通信魔法道具を使っている。
彼が忙しいことは、言われなくても彼女には想像できた。
しかし、それでもこの映像に映る赤目の少年と、少しでも話したかったのだ。
テレパシーが使えないこともあり、レティシアは言葉を選びながら話す。
「あれから、おかあさま、へんなところ、ないよ」
『あれから、また魔力を覗いてもエディット様に異常がなかったんだね?』
「そう! げんき」
嬉しそうに笑ってレティシアが答えると、ルカは安心したような顔をする。
『そっか、それなら良かったよ』
レティシアはルカの頬が緩んだのを見て、嬉しくなってさらに彼を喜ばせようと思って少しだけ前のめりになって話しかける。
「ルカ! つぎ、ごえーできる!」
『エディット様が許可したの?』
「うん! ルカ、よんでくれる!」
『そっか……』
「ルカ、……うれしくない?」
喜んでくれると思ったレティシアとは裏腹に、ルカの声は沈んでいた。
視線を落とし、どことなく元気がないように答えたルカに、レティシアが不安そうに尋ねた。
すると、彼は眉を下げて、どこか寂しそうな目をして答える。
『いや……、エディット様から呼んでもらえるのも、またレティシアの護衛ができるのも正直に言えば嬉しいよ? だけど……次も呼び出されたとしても、必ず行けるとは限らない。一応、レティシアの誕生日には行けるように、俺も考えてるけど……。正直なところ……、今の状況だとなんとも言えないんだ……』
レティシアは、あまりにも悲しそうなルカの声を聞いて思わず口を開く。
「やしき! きていい!!」
本当ならいつでも屋敷に来ていいことを、伝えたかったのだろう。
けれど、それがルカに伝わらなかったのか、彼は困ったように眉を下げる。
『……レティシア……いやだと思うんだけどさ、赤ちゃん言葉を使ってもいいから、もうちょっとなんでそうなったとか、理由まで話してくれると俺はすごく助かるんだけど』
「いや!」
間髪を入れずレティシアが断ると、ルカは深いため息をつく。
しかし、レティシアはこれまでテレパシーを使って、彼と普通に話してきている。
そのこともあって、彼女はどうしても赤ちゃん言葉を使いたくなかった。
(むりむりむり! 恥ずかしいんだよ! 中身何歳だと思ってるのよ!)
レティシアはそう思うと、テーブルの上にあった紙に何かを書き始める。
『はぁ……。いやなのは、分かってて俺はお願いしてるんだけど……、ところで何を書いてるの?』
そう聞かれてレティシアは、大きく紙に書いていた文字をルカに見せる。
『“ルカのバーーカ”』
『レティシアは、すぐ俺に対してバカって言うよね』
クスクスと笑い出すルカを見て、触れられない距離に彼が居るんだと思うと、レティシアはまた少しだけ寂しさを感じる。
「……ルカ」
『んー?』
「たいへん?」
『あー……。1ヵ月も留守にしてたから、それなりにね。なんか気になることでもあった?』
心配そうで、まるで同時に落胆した顔をして尋ねたレティシアに対し、ルカはそう答えると彼女の様子を窺った。
「んーん……」
(時間があったら来てって、今のルカには言えない……)
レティシアはそう思うと、目を伏せて紙に書かれた文字に目を向ける。
「……レティシア? やっぱなんかあった? どうした?」
「……ないよ。ただ……ひとり……ひま」
ルカは何かあったのではないかと不安になって聞いたが、レティシアはそれだけ答えた。
暇と彼女は誤魔化したが、ルカは彼女が単純に暇と言わないのを知っている。
そのことだけで、彼女がルカと会えないことを寂しいと感じているのだと彼は気が付く。
『……そっか。……ねぇ、レティシア』
「なーに?」
ルカに呼ばれてレティシアは顔を上げると、ルカが優しく微笑んでいる。
『……今すぐには無理だけど、それでも、また会えるよ』
映像の向こうでルカがそう言った。
近くに居たなら、きっと今頃はレティシアの頭をなでていただろう。
そんな、いつもの優しい微笑みだった。
「……うん」
レティシアは、鼻がジーンと痛み、その痛みが心の奥深くまで響いているかのようだ。
視界の端には、ぼんやりとした涙が姿を現し、喉の奥が痛くなるように感じる。
それはまるで言葉にできない感情が溢れ出そうで、それを必死に抑え込んでいるかのようだった。
(全部ちゃんと伝えなくても、分かってくれるんだ……。嬉しくて泣きそう)
レティシアの様子を静かに見ていたルカは、彼女が泣きそうになっているのを見て、彼は映像に映っているレティシアに向かって手を伸ばす。
しかし、途中でその動きを止め、その手をゆっくりと下ろし、机の上で拳を握る。
今は隣に行ってあげることができない。
そのことに距離を感じると、その事実に対する無力感が、彼の顔に困った表情を浮かべさせた。
それでも、彼の瞳は優しさに満ちており、レティシアを温かく見つめている。
『ねぇ、レティシア。暇ならさ、俺に手紙を書いてよ。こうして見せてくれるのもいいけど、君からの手紙もほしいかな。そうすれ』
「ない……」
ルカが全てを言い切る前に、被せるようにレティシアは言った。
『……うん。……手紙は書かないんだね』
「うん……。かかない」
『それはそれは、残念だ……』
やれやれというような表情をしながらも、本当に残念そうにルカが言った。
すると、ドアをノックする音が聞こえる。
一瞬ルカはドアの方へと向くと、またすぐにレティシアの方を見る。
『ごめん、レティシア。またね。多分時間的に仕事の話だと思うから、切るね』
「うん! ルカ、またね」
レティシアがそう言い終えると、ルカは通信を切った。
レティシアは先程までルカが映っていた場所を眺めると、また少しだけ寂しい気持ちになる。
(一緒にいた時間が長かったもんね……。私がやること全部、護衛と一緒って言うよりも友達とか、お兄ちゃんとずっと一緒って感じだったもん……)
レティシアはそう思い、ふぅーっと深く息を吐き出すと、泣き出しそうになる気持ちを落ち着かせながら、いつもの日課の準備をし始める。
(永遠に別れたわけじゃない。寂しいからと言って、いつもやっていることをやらない訳にはいかない……)
自分を鼓舞しながらも、彼女はふっと手を止めると映像が映っていた場所を見る。
その目には徐々に涙が滲んだが、腕を目元に軽く押し当てて左右に動かした。
そして、ほんのわずかに赤くなった鼻をすすると、すぐにいつものように宝石に魔力を溜め始めた。
◇◇◇
一方、レティシアとの通信を切ったルカは、深く息を吐き出した。
そして、机の上で握っていた拳を見つめると、さらに拳を強く握りしめる。
けれど、ゆっくりと拳を広げると、椅子の背もたれに寄り掛かりながらドアの向こうにいる人物に声をかける。
「入れ」
ドアの向こう側から、大きく息を吸い込んで短く吐き出す気配がした。
そして、こげ茶と栗色が混ざり合った深みのある色調の髪をした男が、部屋の中に入ってくる。
「お忙しいところ申し訳ありません。ご報告いたします。本日、フリューネ家の騎士団から了承したとの報告とともに、帝都に向かったとの報告が入りました。以降はこちらの指示に従うとのことです」
「そうか、なら影と合流させるから、お前たちは報告だけを待て」
「かしこまりました。それと、追っている蛇のタトゥーですが、他にも蛇のタトゥーを入れている人物がいたと、エルガドラ王国にいる諜報員から報告がありました。それから、こちらはエルガドラ王国から皇帝陛下経由で、再び密書が届いておりました」
ルカは男から密書を受け取ると、それを暫し見つめた。
(前回、ちゃんと断ったのになぜだ?)
ルカはそう思ったが、軽く息を吐き出してゆっくりと封を開け、密書の中身を確認する。
手紙に綴られた拙い文字とは違い、紙の擦れる音が静寂に包まれた部屋に重く響く。
内容を読み進めるうちに、ルカの眉間には深いシワが寄り、こめかみには血管が浮き出てきた。
彼の思考は最も現状での最善な選択を出そうと回転し続けるが、見つからずに瞳には怒りと焦りの色が見える。
(こっちでのことも片付いてない……こんな時に――クソッ!!)
グシャッと握り潰された密書を持つ手はわずかに震え、ルカの口からは怒りが含まれ重々しい息が吐き出された。
その様子を見ていた男は、血の気が引いていき、思わず後ずさった。
しかし、ルカはその音に気付き、後ずさった男を軽く見ながら薄笑いを浮かべる。
その笑みには冷たい怒りと決意が宿っていた。
「ジャック、別にお前を闇に引きずり込んだりしないさ。お前は義兄のモーガンと同じだな。そろそろ俺に馴れないなら、お前を影から抜くぞ」
「申し訳ございません、以後気を付けます」
ルカは小ばかにしたように鼻で笑うと、引き出しから便箋を取り出して密書に対する返事を書いていく。
文章には暗号が使われ、それでも書かれている文字は丁寧で綺麗だ。
さらさらと羽根ペンが紙をなぞり、時折、手が紙の上を移動する音が聞こえる。
その間、ジャックが彼にお茶を出したが、ルカに軽く脇に除けられてしまう。
返事を書き終えると、ルカはそれに封をし、魔法を使って対象の人物しか読めないようにしてジャックに渡す。
「これを、持っていけ。それと、また家を空けるから、そのことをモーガンに伝えておけ」
「かしこまりました」
ジャックが部屋を出ると、ルカはレティシアとの通信で使っていた通信魔法道具を手に取って見つめた。
先程のレティシアとのやり取りが脳裏に浮かび、彼は瞼を閉じると軽く通信魔法道具を握りしめた。
(本当なら、今すぐにでも会いに行きたい……でも、それはできない。レティシアを誘拐しようとした依頼者は、帝都で相次いでる死亡事件と同じように死んでた。その依頼者と同じ蛇のタトゥーを入れてる者が、組織的に動いてるなら完全に何か裏がある……そう考えれば、密書を送ってきたエルガドラ王国にもいたとなれば、完全に無関係だとは言い切れない……だけど、ダニエルの行動も不可解だし、彼の思惑が見えてこない……俺がいない間、何後もなければいいが……)
目を開けた瞳には寂しさと焦りの色が滲む。
「おまえの誕生日に、間に合うと良いんだけどな……」
そう呟いたルカは、通信魔法道具を上着の内ポケットにしまった。




