第23話 それぞれの気持ち
神歴1489年3月25日。
部屋には簡素な家具が置かれ、窓からは暖かな日差しが差し込む。
しかし、机の上には山のように書類が積み上がっており、仕事の多さを物語っている。
ジョルジュの自室で書類に目を通していたルカは、書かれていることに頭が痛くなる思いがした。
フリューネ家には、表向きにオプスブル家当主を務めているモーガンと、オプス族の頭領であるルカが滞在している。
その間、オプスブル家を任されているのは、モーガンの義弟であるジャックだ。
その義弟が、とうとうどうすることもできない状況になって音を上げた。
「ルカ様、いかがなさいますか?」
後ろで手を組んで立つジョルジュを、ベッドに座っていたルカは一瞥すると、右手で前髪をかきあげた。
サラサラと前髪が落ちてくると、彼が平然を装っているようにも感じられる。
「どうするって、戻るしかないだろ」
そう言ってルカは持っていた書類をベッドの上に置くと、ジョルジュは少し驚いた様子で聞き返す。
「ですが、本当にそれでよろしいのですか?」
「何が言いたいんだよ?」
ルカの眉がわずかに上がると、彼はジョルジュを睨み付けた。
すると、睨み付けられたジョルジュは、思わず足元に視線を落とす。
「いえ、私はただ、本当にそれでいいのかと思いまして……」
どこか困った様子でジョルジュが言うと、舌打ちをしたルカは苛立った様子で皮肉交じりに言う。
「じゃ、仮に俺が帰らなかったら、これを誰が処理するんだよ。どう考えても、俺が行かなきゃならないことだろ。それとも、何? お前が頭領に復帰して、俺の代わりに行ってくれるのか?」
「出過ぎたことを申し上げました。大変申し訳ございません」
「まだ、ダニエルがいたなら断ってたよ。でも今はいない。それなら俺が行くしかないだろ」
吐き捨てるように言ったルカの言葉からは、苛立ちと不満が含まれていた。
しかし、視線を上げたジョルジュの顔には、悲しげな表情が浮かんでいる。
「……そうですね。ですが、レティシア様には何とお伝えするおつもりですか?」
「……別に。仕事が終わったって言うしかないだろ」
「それで、本当によろしいのですか?」
「だからさ! 何が言いたいんだよ!」
声を荒らげてルカが言うと、ジョルジュは後ろで組んでいた手で拳を握りしめた。
(私は今さらルカに祖父として接することも、彼を普通の人として接することはできない。けれど、人として接してくれる人を簡単に手放してほしくない)
「これから言うことは、できればお忘れください。この先は、あなたの祖父として言います。レティシア様とあなたを見ていると、あなたに全てを押し付けてしまったことを悪いと感じています。ですから、私どもに素直になることも、心を許すことがなくても仕方ないことだと考えています。私どもは、まだ幼いあなたに一族を背負わせてしまったのですから……。ですが、レティシア様は違うのではありませんか? レティシア様は私どもと違い、あなたを1人の人族、1人の少年として見て居ります。――このままですと、レティシア様との溝が深まるばかりですよ?」
ジョルジュは孫であるルカを大切な存在だと思っても、オプスブルの一員としてしか接してこなかった。
これはオプスブル家の事情があるため、仕方がないことではある。
けれども、幼いころから期待されていただけに、誰も彼のことを人として扱っていない。
その自覚はジョルジュにもあったが、それも仕方がないことだと、割り切るしかないと自分に言い聞かせてきた。
しかし、初めてレティシアがルカと過ごしたあの日。
部屋に戻ってきたレティシアからは、強い憎悪をジョルジュは感じた。
何も知らないから……、と言えばそうなのだろう。
だけど、ルカのことを大切にするエディットとレティシアの行動が、ジョルジュの罪悪感を刺激した。
「……どうしろって言うんだよ。彼女から距離を置いたんだぞ。……俺には、どうにもできない」
ルカはそう話すと、悔しそうに唇を噛んだ。
「レティシア様の前だけでも、素直になられてはどうでしょうか?」
ルカは、ジョルジュの言葉に驚いたように目を見開いた。
しかし、すぐにその表情には影が落ち、彼は寂しげに告げる。
「……無理だろうな。――まぁ、でも……考えてみるよ」
「――ルカ様。一族のこと、頼みました」
そう言ってジョルジュがルカに深々と頭を下げると、祖父と孫の時間は終わったんだとルカは理解する。
「ああ、分かってる。モーガンにも明日には帰ると伝えてくれ」
「かしこまりました」
そう言ってルカはジョルジュの部屋を後にした。
一方その頃。
ルカとの間に気まずい雰囲気が流れているレティシアは、頭を抱えていた。
(はぁ……。完全にやった……完全にやらかした……。信頼されてないって思ったら、急にルカと距離を感じて、距離をとっちゃったよ……。謝るべきだよね? 初めから言えないって言ってたし……。もぉー! 私は何やってんのよ!!)
そう思いながらレティシアは、ソファーの上で寝転びながらクッションを抱きしめ、足をばたつかせる。
(どうやって謝ろぉ……。普通にごめん? 気持ちも話す? それより、許してくれるのかな……。もぉー! どうしよう……)
レティシアはクッションを抱きしめて天井を見つめていた。
頭では謝るべきだと分かっていても、彼女は気まずさから謝ることができていない。
そのため、後悔だけが、何度も波のように押し寄せてくる。
(あんなこと、言わなければよかった……)
レティシアはそう思うと、目を閉じた。
彼女はあの時、ルカがどんな顔をしていたか分からない。
けれど、彼が傷付いた可能性もあることを分かっている。
レティシアが繰り返し悩んでいると、ドアが開く音がして彼女は起き上がってドアの方を向く。
ジョルジュの部屋に行っていたルカが、部屋に戻ってきたようだ。
けれど、ルカはレティシアと目を合わせることもなく、衣装部屋へと向かう。
暫くすると、鞄を持ってきたルカは荷物を詰め始めた。
それを見ていたレティシアは、気まずかった気持ちも忘れ、咄嗟にルカに尋ねる。
『えっ!? ルカ! 今日、帰るの!?』
「いや、明日の朝帰る」
『そうなんだ……急だね……』
「ああ。おまえの言う通り、仕事は終わったからな」
数日前に彼女が言ったこと。
それなのに、レティシアの胸はナイフが刺さったように痛む。
(い、いま、言わなきゃだよね……これを逃したら、もう言えない気がする……)
レティシアはそう思うと、クッションを抱きしめる腕に力が入る。
『あ、あのね。あ、あの日は、ごめん……。最初にルカから言えないって言われてたのに、結局教えてもらえなかったことで、信頼されてないって思った……』
「……」
『……』
ルカはふと手を止めると、ジョルジュに言われたことを思い返していた。
彼の手には銀色に輝く丸い金属が握られている。
けれど、ルカは何と答えて良いのか分からず、短く返事する。
「……そっ……」
レティシアの方からは、ルカの表情が見えない。
沈黙が流れてルカに一言だけ言われたレティシアは、いたたまれなくなった。
鼻がジーンとして彼女は透明化魔法と浮遊魔法を使うと、逃げるようにして部屋を出て行く。
レティシアが部屋から出て行くのを見たルカは、下を向いて手の中にある丸い金属をギュッと握る。
徐々に視界が歪み、彼は強く目を閉じた。
自室から逃げたレティシアは書庫に入ると、隠れるようにして本棚の間を通って奥の方に進む。
照明はいつもよりも冷たく感じられ、車庫の中はどんよりとした光に包まれている。
(逃げてしまった……自分から突き放しておいて、突き放されたら傷付くとか……、本当……バカみたい……)
レティシアは書庫の隅にある本を何も考えずに、1冊とりながら自分の行動を考える。
(何がしたかったんだろうね私……)
泣きそうになりながら、彼女は先程とった本を抱きしめてゆっくりと膝を折り、床に座り込んだ。
レティシアが本を開くと、それはちょっとした童話だった。
(子どもじみた行動している、今の私にはお似合いね……)
彼女は自嘲気味に笑うと、本を読み進めていく……。
その本の内容は、いつも一緒に過ごす精霊たちと2人の人族の話だった。
レティシアはルカと過ごした時間を思い返すと、じんわり目に涙が滲む。
不意に、童話を読み進めていたレティシアのページをめくる手が止まる。
(このまま、この童話のように2度とルカと会えなくなったら……、いやだな……いやだよ……)
レティシアがそう思うと、涙が頬を滑り落ちる。
「……別に、信頼してない訳じゃないよ」
突然そう言う声が聞こえた。
レティシアはゆっくりと顔を上げて声がした方を見ると、ルカが立っている。
ルカはレティシアに近付き、彼女の顔が見えるように正面にしゃがんだ。
そして、彼女に手を伸ばすと、彼女の頬に触れて優しく涙を拭う。
彼は感情が出ないように柔らかく笑いかけると、彼女の頭を静かになでた。
「正直、少しだけ傷付いた……。けど、あの時レティシアが傷付いたのも分かってる……。本音を言えば……突き放されて、おまえには関係ないって態度をとられて……。俺より幼いレティシアが相手なのに、どこまで踏み込んでいいのか、分からなくなった……」
『……ごめん』
「別にいいよ。レティシアが言ったことは間違ってないし、ただの護衛なのに、俺が踏み込み過ぎただけだから」
『ううん。違うよ……ルカの事情も考えてなかった、私が悪い……』
レティシアが首を横に振ってそう言うと、涙が頬を伝って本にポタポタっと零れ落ちた。
ルカは困ったように、けれど泣きそうな顔をして、レティシアの頬に触れてまた涙を拭う。
話せることなら、彼は全てを彼女に話したいと思う。
しかし、時が来るまで、それは許されない。
「……ねぇ、レティシア。俺のことは、まだ話せないけど……君ならいつか答えにたどり着けると思ってるよ……。だからさ……できたら、今までのように考えてることとか、俺に教えてほしい。レティシアを裏切ったりしないし、力になれることは、力になるから……」
『うん……』
ルカはレティシアが頷くと、頬をなでて眉を下げて柔らかく微笑んだ。
「……それじゃ、あの日レティシアが何を考えていたか、聞いてもいい?」
彼の声はとても優しく、レティシアはまた涙を流してしまう。
けれど、彼女は鼻をすすると話し出す。
『ギルドが帝国の管轄じゃないなら、情報ギルドがあると思ったの……』
「情報ギルドならあるけど、レティシアのような子どもが行く場所じゃないかな?」
『……それでもあるなら、そこに情報があるかもしれないでしょ?』
「子どものレティシアが直接行って、テレパシーを使って話すの?」
『――ジョルジュやパトリックに行ってもらおうかと……』
「それこそ、ないなぁ。あの2人はエディット様の指示なら聞くけど、まだレティシアの指示は受けないよ」
レティシアが言ったことに対して、ルカはどこか呆れたように言った。
彼女は心配そうにルカのことを見ると、話を続ける。
『……ルカは、私のお願いを聞いてくれるの?』
「だから、何を考えてるのか聞いた」
真っすぐにレティシアを見つめてルカがそう言うと、彼女は鼻の奥がジーンと痛くなり熱を持ち始めたのを感じた。
『……どんなに本を読んでも、納得できなくて……。情報ギルドを使って、魔塔が研究している資料とかあったら、もっと分かるかと……思って……』
「なるほどな……。結論を言えば、魔塔に入るのはまず無理だろうな……。外で情報を漏らすような連中でもないし……、この帝国ならなおさらだ」
(完全に行き止まりなのね……)
ルカの言葉を聞いたレティシアは、そう思って落ち込んでしまう。
けれど、嘘を言いたくなかったルカは、彼女が落ち込むことを分かっていて、事実だけを伝えた。
ルカは思わず拳を握りしめたが、すぐにゆっくりと開いていく。
「それと……これ……。さっき部屋で渡そうと思ったけど、レティシアが逃げるように部屋を出て行くから、渡しそびれた」
ルカはそう言いながら、胸ポケットから銀色に輝く金属製のケースを取り出した。
見た目は懐中時計のようにも見える。
彼はレティシアの手を取って、彼女の手のひらに乗せる。
「通信魔法道具だよ。前に読んでた本にもあったと思うから、使い方は分かるよね?」
『うん、大丈夫』
「俺と父さんは明日の朝には帰るけど、直接連絡が取れた方が楽だと思うから渡しておく」
レティシアはルカに渡された通信魔法道具を見つめる。
しかし、彼女の眉間には、わずかにシワが寄っていた。
嬉しいはずなのに、使い方を考えると彼女は複雑な気持ちになる。
『通信魔法道具は……』
「うん? 通信魔法道具は?」
『通信魔法道具は……、テレパシーが使えない……』
「あっ……」
自然にレティシアがテレパシーを使っているため、普段ルカは彼女がテレパシーを使わないで話すところをあまり見ない。
けれど、彼女が話しているところを見たことがあるので、レティシアが片言で話すことは知っている。
そのことを思い出すと、ルカは頬をかきながら困ったような表情をした。
「えっと……頑張って話して……?」
ルカはそう言うと、レティシアが赤ちゃん言葉で話すのを想像したのか、肩を震わせながら笑う。
すると、次第に彼女の顔は赤く染まり、頬を膨らませる。
『ルカのバカ! それなら紙に書くよ!』
「ミミズ文字な?」
ルカはそう言ってさらに笑い出す。
何度転生しても同じ文字を使っていなければ、文字は始めから覚えなければならない。
そのため、レティシアも綺麗に書く練習しなければ上達はしない。
『……練習する』
「うん。もう笑ったりしないから、たまにはそれを見せてね……」
ルカはそう言うと、ふわりと微笑んでレティシアの頭をなでた。




