第210話 語り継がれない家と沈黙の鍵
神歴1504年10月23日、帝都オーラスは時折雲の隙間から月明かりが差し込み、静寂に包まれていた。
帝都の街はずれでは、複数の足音が続き、辺りを見渡しながら、3人組の影が一軒の家へと入って行く。
暫くして馬車が通り過ぎ、路地に再び深い静けさが戻った。
玄関を入ったジョルジュは、外に気配がないと分かると、フードを脱いで後ろを振り返った。
身長の低い方がフードに手をかけてフードを脱ぐと、茜色の髪が微かに揺れ、髪の毛と同じ茜色の瞳が静かにこちらに向けられる。
けれど、ベルンの隣にいる人物は、フードにすら手をかけず、視線を上げないことから、ジョルジュは内心でため息をついた。
ベルンの方に視線を向け、「家の中を案内します」と申し出たが、「それは結構です」とベルンに即答され、思わず厳しい視線を向けてしまう。
それでも、「分かりました」と答えると、ジョルジュは歩き出し、玄関から近い部屋へと向かう。
「この家の至る所に空間消音魔法の魔法道具があります。窓には、外に灯りが漏れないように、オプスブル家でも使われている窓を使用しているので、明かりが漏れる心配もありません。ここに滞在するのも自由ですし、あなたたちが集まる時にだけ使用しても構いません」
2脚のソファーと背の低いテーブルがある部屋に通されたベルンは、辺りを見渡しながらジョルジュの説明を聞いていた。
豪華な家具が並ぶわけでもなく、壁にある絵や棚に飾られている小物も安物で、年代が少しばかり感じられる。
人が住んでいる気配はないのに、あたかも人が住んでいると思わせる室内に、違和感が残る。
「この場所、元々は何に使われてたんですか?」
「元は、レティシア様の祖父母であるリディア様、フェリックス様と私が秘密裏に使っていました」
ベルンはジョルジュの話を聞きながら、飾られている小物を手に取ると、小物に埃はかかっておらず、棚にも埃がないのを確かめた。
ジョルジュが案内する前に掃除をしたのか、定期的に清掃していたのか分からない。
もしかしたら……と考え、彼は「その前は?」とジョルジュに尋ねた。
「私が来る前のことについては、リディア様とフェリックス様に聞きましたが、御二人は教えてくれませんでしたので、私は知りません……」
「現在、この家の所有者は?」
ベルンは冷静に尋ねると、ふとフードを着た人物の方に視線を向けた。
壁に飾られている絵の額縁を触る姿を目にして、同じ違和感を感じたのだと分かる。
しかし、さらに絵の裏を見ながら包帯が巻かれている手で、絵の裏面まで触って埃の有無を確かめてるのを見ると、見ているところが明らかに違い、視野の違いを思い知らされる。
経験が明らかに足りないと分かっていても、それが理由にならないのも分かっている。
唾を飲み込むのが苦しくても、今はただジョルジュの話に彼は耳を傾ける。
「現在この家の所有者は、オプスブル家とフリューネ家と繋がりがない者です」
「それなのに、ジョルジュ様はここを使えと言ってるのですか? それで、本当に大丈夫だと言えるのですか?」
フードを着た人物は、ジョルジュとベルンのやり取りを聞きながら、飾られている小物の底まで見ると軽く息を吐き出した。
警戒心を持つのも、ベルンの問いも別に悪くはないと感じた。
しかし、あまりにも視野が狭いと思うと、喋るのはベルンだけと決まっていたのだから、もう少し質問する内容も考えとくべきだったと思った。
もしこれで、教育が足りていないと言われても、言い返す言葉がない。
だが、今は他のことを考えるべきじゃないと思うと、ベルンが見なかった場所を徹底的に見ていく。
「はい、大丈夫だと思います。今の持ち主も、この家の存在は知っていますが、きっと一度も訪れたことがないでしょ。代々、そういう決まりらしいので……」
「これまではそうだったかもしれないが、この先は分からないのでは? 持ち主がいつか来るかもしれませんよね?」
「それはないと思います。事情があり、私の方で所有者を調べましたが、所有者だと書かれている人物ですら、どこか怪しいと私は思いました」
ジョルジュは冷静に答えると、少しばかりフードの人物に目を向けた。
これまで、フードの人物が提示した紙は、明らかに知的で先見の明があった。
しかし、いま繰り広げられているベルンの質問は、直線的で差し出した情報に対してだけだ。
なら、こちらが提示する答えを彼らは信じるしかなく、どうにでも情報操作ができる。
けれど、「どういうことですか?」とベルンが訪ねた瞬間、懐からフードの人物が紙を取り出したのが見えた。
目を凝らすと『偽りは裏切りとみなす』と新聞の切り抜きで書かれており、ジョルジュはため息をこぼす。
今回も話さない姿には違和感すら覚えたが、徹底的に素性を隠しているのだと思えば、全て納得して事実のみを話す。
「初めこの家の登録者は、売る気がない、その家がどうしたのか、と私に言ってました。しかし、私がオプスブル前侯爵だと知ると、自分が所有する家だけど、自分の物ではないと言いました」
「なら、別のやつが来るのでは?」
「それもないと思います。私がこの場所を初めて訪れた日から、外部の者が訪れた痕跡は一度もありませんし、そもそも鍵はここにある三本だけだそうです。――過去に複製を試みましたが、使えませんでした」
ベルンは話を聞きながら眉を顰めると、この家がなぜ存在していたのか分からず頭をかいた。
通常であれば、オプスブル家はフリューネ家が所有している建物を、すべて把握している。
だけど、誰も来ない家の鍵を、フリューネ家が持っていたとすれば、フリューネ家がオプスブル家に隠し事をしていたことになる。
だが……両家の関係性を考えると、常にオプスブル家から守られているフリューネ家が、オプスブル家に隠し事をするのは難しい。
だとすると、誰が、どのようにして、どんな理由で、この家をフリューネ家に与えたのかが分からない。
けれど、踏み込んだ質問はするべきじゃないと考え直し、息を軽く吐き出すと予想できる範囲内の質問をする。
「つまり、フリューネ家がオプスブル家に悟られないように、この家を所有してたってことですか?」
「それすら、私には分かりません。推測で言えば、それが一番当てはまりますが……」
「ジョルジュ様、これでは拠点とするには、あまりにもずさんなのではないのですか?」
ジョルジュはベルンの言葉を聞き、軽く目を閉じてため息をついた。
ベルンの疑問も、ベルンの言いたいことも分かる。
当時この家を知った時、過去のオプスブル家当主の記憶に欠けている部分がないのか、血眼で確認したくらいだ。
しかし、どこにもそのような情報はなく、欠けていたのではなく、残されなかったのだと気付いた。
それに対し、思うことがあっても、もしかしたら……フリューネ家の意思かも知れないと思えば、それ以上の追求ができなかったのも事実。
けれど、それを明かす訳にはいかず、ジョルジュは言葉を濁して答える。
「言いたいことは分かります。私も初めて来た時は懸念し、私の方でも調べたくらいです」
しかし、「ならなぜ?」と聞かれ、ジョルジュは目を細めてベルンを見つめた。
「では逆にお聞きしますが、今の状況でオプスブル家とフリューネ家が所有している建物を、あなた方は安心して使えるのですか? 使えませんよね? でしたら、ここ以上に安全な場所はないということです」
「では、オプスブル家やフリューネ家でも、この家を知ってる者が限られてるということですか?」
「ええ、私が知る限り……」
ベルンは顔に出さずに唾を飲み込むと、耳の奥で心臓の鼓動が大きくなったのが分かった。
一歩間違えれば、これは明確な裏切りにすらなる。
密かに使うにしても、こんな緊張状態が誓約に触れないとは言い切れない。
しかし、ルカの言葉を思い出し、何とか平常心を装うと、大きく息を吸い込んだ。
「しかし、皇帝はどうなるのですか?」
「リディア様は、皇帝だろうとも手出しはできないと言っておりました」
ジョルジュはハッキリ言い切ると、考え込んでいる様子のベルンを見つめた。
そして、フードの人物に視線を移して様子を窺うが、微動だにしないことから考えが見えてこない。
けれど、もう一度ベルンの方を向くと、彼は感情を一切込めず、ただただありのままを話す。
「ここを使うのも、使わないのも、あなたたちの自由です。しかし、現在あなた方が使っていると思われる場所は、私が1人で動いても探し出せました。そして、あなた方が密談していると思われる部屋以外、侵入できたと言えばご理解できますか?」
「ここは、そういう心配がないと?」
「先ほども言いましたが、この家の鍵は三本です。鼠一匹入り込んだ形跡もないと言えば、納得しますか?」
ベルンは、一度フードの人物を見ると、魔法道具を突っつく様子を見て、質問してもいいのだと思い尋ねる。
「しかし、それだと空間消音魔法の魔法道具がある理由が分かりませんね」
「それは、私が置いた物です。リディア様とフェリックス様は心配性だと、笑っておられましたが……」
ベルンはジョルジュの話を聞き、腰に手を置いて深く息を吐き出した。
考えれば考えるほど疑問が残り、踏み込めない苛立ちで頭をかいてしまう。
しかし、ここで文句を言っても仕方ないと諦めると、ジョルジュを見ながら冷静に話す。
「俺じゃ判断できないから、ここを使うのかは不確かですが、次の連絡をお待ちいただけますか?」
「構いません。鍵もあなた方に預けておきます」
ジョルジュは淡々と話すと、ベルンの方に歩み寄り、彼に鍵を手渡した。
驚いた顔で「良いのですか?」と彼が尋ねると、ジョルジュは軽く微笑んだ。
「構いません。しかし、もしあなた方に指示を出している方に渡すのであれば、この家の中で渡すことを勧めます。精霊の力で作られた鍵のようなので、この家の外で渡しても鍵は渡せません」
「本当に、オプスブル家とフリューネ家は精霊絡みが多いな……」
鍵を見つめながら頭をかいてベルンが言うと、ジョルジュは一度目を閉じたが、暫くして首を左右に振ってベルンを見つめた。
「帝国は、精霊に愛された土地ですよ? 今さらではないのですか?」
「……そうですね。では、ジョルジュ様には悪いのですが、お帰り願いますか?」
ベルンは淡々とした口調で言うと、部屋の入り口に向かって手を差し出しながら頭を下げた。
すると、「その方が良さそうですね」と答えたジョルジュは歩き出し、部屋から出て行く。
暫くすると、玄関が開いて閉まる音が室内にほんの少しだけ響いた。
ジョルジュがいなくなった家に残ったベルンとフードの人物は、暫く家の中を探索した。
そして、最初に通された部屋に集まると、ベルンがため息をこぼした。
「お前はどう思う? あの方がここまで考えていたと思うか?」
ベルンは冷静に尋ねると、フードの人物の様子を窺った。
包帯が巻かれた手が顔の方に伸び、フードをとるのかと凝視してしまう。
しかし、「ぷっ」と笑い声がして「残念だけど、フードは取らないよ?」と続けて言われ顔が熱くなる。
「どうだろうね~。実際のところ、あの方がここを知ってたと、ボクは思えない。ただ、精霊絡みで考えるなら、精霊たちから何かしら聞いた可能性はあるかな~」
「なるほどな……」
「それにしても、ジョルジュ様とのやり取り、あまりにも質問の内容が浅かったんじゃな~い?」
「仕方ないだろ。元々、3回目の接触で出されてた指示は、『語られたことに対し、質問すればいい』ってものだったんだから……」
フードの人物はベルンの話を聞き、「ん-」と呟いて考え込んだ。
指示されていたのであれば、元から質問を用意しても意味なかったことになる。
つまり、これは意図的にベルンの思考を浅いものと演出したことにもなる。
けれど、それが分かったところで、なぜそうさせたのかが見えてこない。
考えを巡らせていると、「俺は」と聞こえ、彼はベルンの話に耳を傾ける。
「あの方が何を考えてるのか、時々分からなくなって、腹の底が見えないことに恐怖を感じるよ」
「そうだね、それは僕も同感だよ。ただ……、あの方は……蝶よ花よと育ったわけじゃないからね~」
ベルンは蝶よ花よと育ったわけじゃないと聞き、過酷な生い立ちだったのかと思い、「それは……」と呟いた。
しかし、「あはは~」と笑われ、胸の奥がいら立ちが募る。
「勘違いしないでね。あの方の育った環境が酷かったわけじゃないよ? だけど、あの方の周りにはあの方を気にしつつも、あの方に時間を割けなかった者たちしかいなかっただけ……。あの方がそれをどう思ってるのか、それはボクも分からない。……ボクたちがあの方を見てなかったのに、あの方はボクたちを常に見てた……。気にかけてくれたし、ボクたちが気を使わないように配慮してくれた……。気付いた時には、あの方の内心を知る者が、誰もいなかっただけ……。あの方は、ボクたちですら見てないものを、常に見てる……そういう方だよ」
「ふ~ん。そんな方に、存在を消された気分は?」
ベルンは咄嗟に口を手で押さえると、「いや、すまない」と続けた。
けれど、フードの人物の方を見ても、おなかを押さえて笑っており、全く何を考えているのかつかめない。
「あはは、痛いところをつくなぁ~。でも、仕方ないんじゃないかな? ボクはそれだけのことをした。でもね、ボクはあの方を信じてるから、存在を消されたと思ってないよ」
「あの方を、何で盲目的にそこまで信じられる?」
フードの人物はベルンの真っすぐな目を見て、ため息をこぼした。
決して、ベルンの言うように盲目的に信じているわけじゃない。
だからといって、信じていないわけでもない。
この気持ちは、言葉するにはあまりにも重く、言葉にしてしまえばあまりにも軽い感情だ。
「ベルン、君はまだ幼いからね~。あの方がボクにこう言ったんだ「いつものように呼んで」って……。ボクが犯した罪を知りながらも、あの方がボクに求めたのはそれだけだった……」
「尚更分からねぇな」
「分かったら、それはそれで悔しいから分からなくていいよ~」
ベルンはフードの人物の声を聞き、どこか悲しそうな声だと思った。
何があったのか詳しくは聞いていないが、彼と初めて接触した日、彼は震えていた。
なぜそこまでして信じられるのか、なぜ一言で、なぜ……と思考は止まらない。
しかし、いくら考えても他人の気持ちなど分からない。
それならば、今できることをするべきだと、思考を切り替える。
「それで? ここは、どうするんだ?」
「ジョルジュ様の言ってたことを全て信じるわけじゃないけど、ここはボクでも知らなかった場所だ。それなら、あの方が戻るまでは、ここを使っても良いと思う」
「ティヴァル公爵家の周りもきな臭くなったし、そうするか……」
フードの人物がソファーに座ると、「何か動きがあったの?」と言いながら足を組んだ。
「実際に動きがあった訳じゃないが、ティヴァル公爵家の周りに諜報員が増えた気がする」
「ティヴァル公爵はアルファール大公と親しいから、現皇帝の弟であるライアン様がどう動くのか知りたいのかもね~。アルファール大公の周りにも、諜報員が送り込まれてると思うけど、少しでも感付かれたら、皇帝に対して反逆に意思があると思われる可能性があるから、中に入り込むのも難しいだろうし」
フードの人物は冷静に話すと、少しだけ様子を見るべきか? と思った。
けれど、そこまで指示はされておらず、どうすればいいのか考えながら「後、何か報告は?」と尋ねた。
「ダニエル様が、彼の実家で働いてる使用人と接触したと報告があった」
「ガルシア子爵家か……。確か、ガルシア子爵とラコンプ男爵が、数日前に隠れて会ってたな……学院の方はどう?」
「アルフレッド殿下とディヴィノフ神皇子でちょっとしたいざこざがあったが、それ以降は目立った動きはないな。ただ……アルフレッド殿下がグラッフェブル公爵と会ってから、来月に開かれるパーティーの招待状が届いた」
「ありがとう、ベルンは引き続き学院の方を見張ってて。あの方が戻れば、根掘り葉掘り聞かれると思うから」
ベルンは拳を握ると、「分かってる」と呟いて奥歯を噛み締めた。
「後、これはボクからの忠告……あまり、情を持つなよ~? 敵対した時、苦しくなるのは君1人だから」
「それは、経験者の言葉か?」
「これは、剣を握る者の覚悟だよ」
ベルンは何も答えられず、さらに拳を握る手に力が入った。
何も間違ったことを言われていないからこそ、耳が痛い。
覚悟だと理解していても、覚悟が足らないのだと言われているようで、胸の奥が重たい。
「ベルン、迷うな。君は何も間違ってない。誰に忠誠を捧げたか、忘れるな」
「はいはい、本当に何で俺は茨を進んでるんだか」
ベルンは投げやりに答えると、また笑い声が聞こえ、自分がみじめにすら思えた。
だが、(こいつに、俺の気持ちなんて分からない)と思うと、胸が痛んだ。
「あはは、あの方とルカ様がそれを聞いたら、きっと忠告したはずだと言われるよ~」
「確かに、忠告はされたかもな……」
「ボクには君の迷いが分からない。ボクが選べたのは地獄か茨の道だけだったから……。君にとって茨かもしれないけど、当時のボクにとっては光に満ちた世界だったよ」
ベルンはフードの中に見えたダークグリーンの瞳が、どことなく寂し気だと思った。
なぜ、彼の存在を隠すのか、それがどんな意味を持つのか、考えれば分かる。
けれど、このまま放置すれば、彼は本当にこの世から存在を消される。
そのことを、分かっているのか? ……と聞きたい気持ちをグッと我慢すると、言葉にならない気持ちが拳を握らせた。
「君もさ、ボクもさ、前に君が言ったように、あの方の駒じゃないんだから、茨の道だと思わない方が良いんじゃない?」
ベルンはフードの人物を見つめながら、フードの下で彼がどんな顔をして言ったのか気になった。
姿を隠してもなお、彼の視野は常に広く、様々なことを考えながら指示されていない分も補填してる。
先程ジョルジュ様に提示した紙も、フードの人物が用意したものだ。
彼を見ていると、少しでも忠誠を誓い、憧れを抱いたルカに近付きたいなら、考え続けるしかないと分かっている。
それでも、常に考え続ける感覚に、まだ慣れない。
考えない時間がだいぶ減り、体は糖分を求め、脳は疲労が蓄積される。
思考は止まりたいと叫ぶのに、必死に考え続ける習慣を身につけるために、思考をひたら働かせる。
簡単なようで、実際は難しく、常に思考し続ける題材を考え、緊張状態が続く。
ただ分かっていることは、茨の道で駒や人形でありたいなら、考えを止めることだけだ。




