第201話 カップの音と揺れるカタチ
同日の夕方。
授業が終わり、アルファール大公家に戻ったアルフレッドは、与えられている自室へと向かった。
自室のドアを開けると、朝にはなかった書類の山が、机の上に積み上げられており、思わずため息が漏れる。
規模や人口が少ない領地なら、毎日職務に追われることもないのだろう。
しかし、レティシアが治めているフリューネ領は、それなりに規模の大きい領地だ。
これが、帝国という舞台に変われば、さらに追われる業務の量も増えるだろう。
そのことを理解していても、今日だけは何もないことを、彼は密かに期待していた。
けれど、皇位を目指すのであれば、淡い期待も同時に望めないのも、ため息が出るほど理解している。
「今日も随分とあるな……日付が変わるまでには、終わるか」
アルフレッドは書類の一番上にあった紙を取って言うと、紙を元の位置に戻して机に置かれている手紙に目を向けた。
白い封筒にはアルフレッドの名前が書かれており、裏面を見ても封蝋はしてあるが、無地で誰が出したか分からない。
何度か裏と表を見ても分からず、(誰からだ?)と彼は内心で思い、封を開けて中身を取り出した。
白い便箋には見覚えがある文字が並び、懐かしさと一緒に読み進めていくと、少しだけ憂鬱な気持ちが襲う。
しかし、読み進めていくうちに、無意識に口元に力が入り、手紙を読み終えて歯を噛み締めていたことに気付いた。
(……母上には悪いが……とてもじゃないけど、今は会って話す気分にならない……)
アルフレッドは手紙を戻しながら内心で思うと、窓の方からカサッという音を耳にし、すぐさま窓の方に移動した。
窓を開けずに外を見るが、そこには誰もおらず、気のせいか……と一瞬考えてしまう。
だが、今度は窓の左下あたりの壁から、トンっと聞こえて気のせいではないと思い、警戒しながら窓を開けて外を見渡す。
その瞬間、見知っている人の気配がし、彼は左手を差し出すと、全身黒服を着た人がサッと現れた。
黒服の人物から折りたたまれた紙を受け取ると、彼は肩の力を抜いて黙ったまま窓を閉めた。
そして、折りたたまれた紙を広げると、書かれている暗号に目を通していく。
(……動きがあると思ったが、調べさせたことは悉く、茶会後から唐突に動きがなくなったな……そうなると……覚悟を決めるしかないか……)
アルフレッドは暗号が書かれたて紙と、届いていた手紙を交互に見ると、重たいため息をついた。
何事も、決めて始めたからには、最後まで責任や行動が伴う。
そのことは、フリューネ領の仕事を任されてから理解し、そこに住まう民がフリューネ家を支持する理由が分かった。
支持は立場から生まれるものではなく、行動がなければ生まれないことを、理解するには十分だった。
今の立場は、唐突に王位継承を主張し、実績がないに等しい。
支持してくれる大半の貴族は、幼い頃から見守ってくれた貴族や、ルシェルの行動に異議を唱える者たちばかりだ。
行動して何かを示さなければ、これ以上の支持を得られない可能性もある。
特に今は、従者の1人もいな状況が、不信感を与える切っ掛けになる可能性すらある。
考えれば考えるほど、ティノに即答されたことが、現実を彼に付きつけ、手紙を再び見るとため息がこぼれる。
(皇位を目指すならば、身内でも蹴落とす覚悟を持てってことか……)
アルフレッドは目を閉じて歯を食いしばると、肺を満たすために息を吸い込んだ。
瞼が小刻みに震え、わずかに唾を飲み込むのも力が入り、目を開けると微かに視界がぼやける。
それでも、彼は手に持っている紙をクシャと丸めると、ドアに向かって歩き出した。
数時間後、アルフレッドは、彼の母であるクレアが住むビオラ宮へ向かっていた。
城の中を抜けると、大きな中庭が広がり、中央には白石で造られた噴水が静かに水音を響かせている。
正面には皇后の住まう鷹の宮がそびえ、威厳ある扉が遠くからでも見える。
右手の回廊を進めば、花々に囲まれたビオラ宮へと続く道があり、左手には月の光を受けるように静かに佇む月の宮がある。
中庭には巡回する騎士の姿があり、アルフレッドとすれ違う騎士は一瞬足を止めて敬礼すると、またすぐに歩き出している。
回廊の先にある扉は、淡い紫の屋根の下で静かに佇んでいた。
扉の前には年配の侍女が一人立っており、アルフレッドの姿を認めると、軽く頭を下げて道を開ける。
彼は足を止めることなく扉の前まで進み、無言のまま扉に手をかけた。
扉は音もなく開き、室内からは花の香りと、柔らかな光が漏れている。
ビオラ宮の内装は、外観と同じく華美ではないが、整然とした美しさを保っていた。
中にいた侍女が歩き出すと、アルフレッドは声を出すこともなく続く。
丁寧な装飾がされている手すりがある階段を上り、上の回へと進むと奥の間へと向かう。
両開きの扉のままで来ると、侍女は頭を下げアルフレッドは扉に手をかけた。
椅子に腰掛けたクレアはカップを口元に運ぶと、ゆっくり扉が開く音を聞きながら一口紅茶を飲んだ。
そして、中へと入ってきたアルフレッドに視線を向けると、彼の顔つきを見て様々な思いが胸を締め付けた。
(末の皇子といっても、皇后の息子と同年代にもかかわらず、皇位は4番目という誰も期待しない位置づけ……だからこそ、アルフレッドには皇位よりも、皇族として生き延びる術を教えたわ……それなのに……、アルフレッドには悪いことをしたわね)
クレアは密かにそう思いながら、正面に座ったアルフレッドを見つめると、彼に微笑もうとして思い留まった。
代わりに一息入れると、固い口調で話し出す。
「……よく来てくれたわね、アルフレッド」
「はい、母上がお呼びになっていたので」
彼の声から、これが彼の本心だとクレアは思えず、かつて共に過ごした日々とは違うのだと自覚した。
まだ幼さが残る顔付とは違い、目は母を見る目ではなく、皇帝の妃として見るような目つきだ。
彼が宮を出て行ってから、数ヵ月しか経っていないのにもかかわず、ここまで変わるものかと驚きは残る。
しかし、それと同時に誰が彼をここまで変えてしまったのか……という疑問が湧く。
「突然、皇位継承を主張し、何度も手紙を出したのに、なぜこれまで音沙汰がなかったのかしら?」
「……会うべきではないと判断したからです」
「では、母の力を借りずとも、あなたが望む皇位が手に入ると自惚れていたのかしら?」
「……それは有り得ません。しかし、母上の力を借りるべき時じゃないと判断したまでです」
クレアはアルフレッドの返答を聞き、軽くため息をもらすと、カップの中を見つめた。
(昔はもっと、言葉に迷いがあったはず……今のアルフレッドは、まるで答えを用意してきたかのように話すわ……つまり、今回もここに来る気が、初めはなかったということね……そして、彼はもう……母としての私ではなく、元グラッフェブルの人であった私の立場を重要視しているわね……彼がこうなった要因は……今さら考えても仕方ないわね)
彼女は冷静に考えると、少しだけ寂しい気持ちが胸の中に広がった。
どんなに大切に育てていても、子どもはいつか親元を離れていく。
それが早いか遅いかは、子どもによって違うことは分かっていた。
皇位を望まないように育ててきたからこそ、その日が来るのは少なからず遅いのだと思っていた。
けれど、いま目の前にいる息子は、すでに数ヵ月前と違って見える。
クレアは静かに息を吐き出すと、手に持っていたカップをテーブルに置いた。
微かにカップがソーサーにぶつかる音がすると、カップを目で追っていたアルフレッドは視線をクレアに戻した。
母の教えは常に、皇族として生き延びる術で、今の政治的理解の土台にもなっている。
そのため、皇位継承を主張することは、反対されると分かってて相談もしなかった。
そして、皇后の友としての母の立場を、主張後に関わることで、さらに崩したくなかった。
「……母上には、悪いことをしたと自覚してます。ボクが勝手に皇位継承を主張したことにより、母上は必然的に皇后と敵対することになりました……。そして、いま……さらにその火種を大きくしようとしてる自覚もあります。ですが、どうか身勝手なボクに力を貸していただけないでしょうか?」
クレアはアルフレッドの言葉を聞き、ふぅーと息を吐き出すと、泣きそうになって目を閉じた。
本来、皇族であれば、親の交友関係が、子に皇位を放棄させていい理由にはならない。
しかしながら、少なくとも皇后であるエミリアと、敵対したくなかった事実はある。
友を支えるために皇族になることを受け入れたが、友と間に火種を作りたくないあまり、見落としていたことがあったのだろう。
その結果が、息子に相談されることもなく、皇位継承を主張させ、彼が独りで動かなければならない事態を生んだ。
息子が皇位継承を主張したと聞いた日から、頭では理解しても、長年の思いが今もなお追い付かない。
「理解しているなら……なぜ……」
「無理にとは言いません。ボクも自分の立場を理解しています。しかし、力を貸していただけるなら、貸していただきたいと思っております」
右上を見ながら目に涙を溜める母が、何度も息を吐く姿を見て、アルフレッドは心が痛んだ。
こうなることを、全く予測していたわけではない。
けれど、実際に目の辺りにすると、申し訳ない気持ちになる。
その憂鬱さも加わり、家から足を遠ざける要因となり、仕事に追われる日々がましだと思えた。
暫しの間、重い沈黙が流れ、やはりだめか……と諦めが入った時、静かではあるが、落ち着いた声が耳に届き始める。
「……分かりました。あなたと現グラッフェブル公爵が、対面の機会を設けられるよう話をしてみます」
「母上……ありがとうございます」
アルフレッドは言い切ると、口を堅く閉じて頭を下げながら、喉の奥が熱くなった気がした。
閉じた瞼は自然に力が入り、膝の上で拳を握ると、息を止めて唾を飲み込んだ。
そして、軽く息を吸い込むと、無表情でクレアに向き直した。
「……必ず、母上のご厚意に背かぬよう、結果を出して見せます」
クレアは軽く瞼を閉じると、何度も呼吸を繰り返した。
瞼の裏には、幼い頃のアルフレッドの姿が幾度も浮かび、耳に届く時計の音に合わせて消えていく。
しかし、真っすぐにアルフレッドを見ると、微かに口元が緩み、軽く首をかしげた。
「母と会わない間、大きくなりましたね……けれど、あなたは現状をどう見ているのですか?」
「現状、皇家は危うい立場に立たされていると感じています」
アルフレッドは微笑むクレアに対し、冷静に答えた瞬間、母の雰囲気が変わって息を呑んだ。
目を逸らすことができず、「それは、どこからどう見てですか?」と優しい声で問われ、途端に心臓の音が耳まで届いた。
そして、優雅にカップに手を伸ばす母を見つめながら、彼は額に汗が滲むのを感じ、口角が少しだけ上がると唾を飲み込んだ。
「……まず、二度にわたってフリューネ侯爵が、皇帝主催の茶会に参加しなかったことにより、貴族の間ではフリューネ侯爵と皇家の間に確執があるのか、フリューネ侯爵が独立を考えてるのではないのか――という懸念が持たれてます。これにより、皇位派閥争いにも影響が出ており、どの派閥にも属せず、フリューネ侯爵の動きを待つ貴族が増えてます」
「あなた個人としては?」
クレアは問いかけると、カップの中にある紅茶に視線を一度落とし、ゆっくりアルフレッドに視線を戻した。
まだまだ、感情を完全に隠しきれていない点を見ると、まだ彼が幼いとすら思えてしまう。
しかし、思考を巡らす彼の顔は、明らかに息子ではなく皇子の顔だと思えた。
「……フリューネ侯爵が独立も視野に入れてると考えてます。ただ……必ずではなく、次期皇帝が誰に決まるかで、判断するものと考えてます」
「ということは、すでに皇位を主張していたルシェル殿下、バージル殿下、メイナード殿下では、独立もあり得ると思っているのですか? そして、自分ならそれを阻止できると?」
クレアはハッキリとした口調で聞くと、カップ越しに彼の表情を観察した。
眉の1つも動かさない皇子が、今何を考えているのか分からない。
それでも、息子が質問の意図を考え、言葉を選んでいるのは分かる。
「完全に阻止できるとは言い切れません。しかしながら、これまでのフリューネ侯爵家の立ち位置を考えれば、いまフリューネ侯爵を皇家に取り込みたい皇帝陛下やルシェル殿下の行動は、少なくともフリューネ侯爵の独立を固めるものだと考えてます」
「それは、直接フリューネ侯爵から聞いたのかしら?」
アルフレッドは口を開いたが、すぐに閉じ、「……いえ、ただ……」と言葉を濁した。
時に事実を話すのは簡単だが、関わっている人の立場を脅かす要因にもなる。
それを理解しているからこそ、単純に自分の立場を強化するために話せば良いという問題ではないことも、彼は分かっている。
「ただ? ただ、何ですか?」
「……これは、口外してほしくないのですが、フリューネ侯爵が姿を見せなくなる少し前から、フリューネ侯爵はボクにフリューネ領の仕事を任せてました。なので、政治的に育てる意思があるように思えたんです。そのため、ボクが皇位を主張するのかも含め、もう1つのカードとして彼女は考えてた気がしたんです」
クレアは咄嗟にサッと扇子で目の下を隠すと、息を呑み込んだ。
多くの民が知らない掟の上で、フリューネ侯爵家は事実上帝国のトップに立っている。
それでも、帝国建国以来、クレアが知る限り、フリューネ侯爵家は政治に口を出してこなかった。
仮に口を挟んでも、意見を求められた時だけであり、その時に初めて意見を述べてきた。
そのため、フリューネ領の経済状況は皇家ですら、未知に包まれている部分が多い。
そのフリューネ家が、アルフレッドに仕事を任せたのは、場合によっては……と不安が過ぎり、彼女はそのまま尋ねる。
「つまり、あなたはフリューネ侯爵の操り人形になったのですか?」
「多分、フリューネ侯爵は、ボクのことを操り人形だと思ってません。――操り人形ではなく、感情と政治を切り離し、現状を見て判断できる人だと思われてるとボクは考えてます。……ただ、皇位を持つ中で、一番まともだったから……という理由もあるのかもしれませんが……そこは、いまさら重要ではありません」
アルフレッドの言葉を聞き、クレアは肩の力が抜け、安心してホッと息をこぼした。
しかし、よくよく話を整理すると、明らかにフリューネ侯爵には、何かしらの思惑があるのだと読める。
これまでの話をまとめつつ、噂にとどまらず、“独立”の話もあり得るのだとクレアは考えた。
それでも、確証がもてない以上、フリューネ侯爵の動きを見る必要ある。
「……そうですか。では、フリューネ侯爵が全面的にあなたを支持する立場を見せるまで、現グラッフェブル公爵にあった際には、フリューネ侯爵のことは伏せなさい」
「その点は理解してます。彼女の意志がどこにあるか分からない状況で、彼女の行動に触れることは致しません」
アルフレッドが言い終わると、クレアは微笑んで軽く頷いた。
「それならいいわ……、そういえば、今期から来た留学生をどう?」
アルフレッドは留学生の話へと変わると、少しだけ視線を下げ、思考を巡らせた。
そもそも、カリウス・ディヴィノフについて、情報はあまりにも少ない。
その背景にある理由も、皇帝は曖昧にしたまま、彼の留学を認めた。
そうであれば、何かしらの思惑が双方にあるとみるべきだ。
視線を上げると、クレアの視線とぶつかり、彼は軽く息を吐き出して話し出す。
「印象でしたら、真面目で多少扱いにくい程度の認識です。――ですが、母上が聞きたかったのは、ルーンハイネ教国をまとめる現教祖の息子としての印象ですね? それなら、純粋に学びたいという理由で来るとは思ってません」
「そう、あなたもそう思うのね」
ため息交じりにクレアが言うと、一瞬だけアルフレッドは眉を顰めた。
そして、カップに手を伸ばしながらクレアが正面を向いているのに対し、アルフレッドは右下に視線を向けた。
時計の秒針がカチカチと音を鳴らし続け、暫くすると正面に向き直った彼の口が開く。
「あくまでボクの憶測ですが、ガルゼファ王国とエルガドラ王国との交渉が上手く進んでないと思ってます。そのため、少しでも他国との繋がりを、作ろうとしたのではないのでしょうか?」
「皇帝陛下が全面的に押し進めたのなら、その推測も正しかったかもしれませんが、進言したのはメイナード殿下です」
アルフレッドは一瞬目を細めると、思考を巡らせた。
結局、皇位争いは多くのカードと情報を持つものが、最も皇帝に近い。
しかし、そのカードも揃わないうちに行動を始めると、必ずどこかで綻びが生まれる。
そのため、アルフレッドは土台を作りつつ、情報の収集に力を入れている。
「……何か、裏がありそうですね。確か、メイナード殿下の母君であるソーニャ妃の祖国であるペードュウ王国は、ルーンハイネ教国は友好国でしたね」
「ええ、その点も含め、あなたの駒で調べておきなさい」
アルフレッドは拳を握ると、「かしこまりました」と答えて席を立った。
様々な推測が頭を駆け巡り、すぐに調べる必要があると彼は感じた。
クレアに対して頭を下げると、そのまま早歩きで扉の方へと向かう。
「それと……、グラッフェブル公爵に会った際には、駒を昔用意してくれたことに対し、お礼を言っておきなさい。あなたの御爺様があなたのことを思い、幼いあなたに用意した物ですから」
「! ……はい、しっかり感謝を述べてきます」
クレアはもう一度頭を下げたアルフレッドの背中から目を離さず、彼が部屋から出て行くのを見ていた。
扉がわずかな音を立てて閉まると、彼女も席を立ち、急いで机と向かう。
そして、引き出しから便箋をとると、ペンを持ってインクをしみこませた。
便箋に、『親愛なるお父様、至急お願いしたいことがあります』と文字を綴ると、扉の方を一瞥して続きを書いた。




