第200話 学院に影が差す時
神歴1504年10月4日。
ベルグガルズ大陸、西側のほとんどを支配するヴァルトアール帝国。
その帝都セーラスにあるフィラトゥーテネクス学院では、新学期を迎えてから一ヵ月が経っていた。
1年生だった者たちは2年生になり、新入生が真新しい制服を着て、正門をくぐっている。
背筋を伸ばしている者、服や髪の乱れが目立つ者、下を向いている者、様々な面持ちの貴族たちが、同じ方向に向かって歩いている。
教室の窓から下を見ていたアルフレッドは、校舎に向かってくる面々の行動を観察していた。
学院では家柄とか関係なく、通っている全員が対等な関係とあると掲げている。
しかし、それが詭弁であり、実際は他家から観察されていることを、今の彼は理解している。
1年前には分からなかったが、なぜ上級生が新入生より早く登校するのか、その理由が歩いている者たちの姿勢で分かる。
将来、貴族として、先導するものとして、領を治める者として、関わる家柄は学院時代から見極める必要がある。
彼は真っすぐな眼差しで歩いている少年を見ると、憂鬱な思いが心の中に広がり始め、深く息を吐き出した。
(上級生たちは、少し前までのボクを見て、何を思い、何を考えたんだろうなぁ……皇子なのに……)
詭弁に気付かなかった後悔が、アルフレッドの胸を締め付け、どんよりとした空が、さらに気持ちを後ろ向きにする。
客観的に考えれば、数ヵ月前までの行動は、彼の中で恥じるべき行為であり、消し去りたい過去でもある。
だけど、過去の行いが消えないからこそ……この学院に姿を見せなくなったレティシアの考えが、彼には少しだけ分かる気がした。
それでも、まだ……間に合うのだと、誰かに言ってほしいとも思ってしまう。
(はぁ……何やてるんだ……しっかりしろ、もう後戻りはできないんだ)
アルフレッドは軽く頬を二回たたくと、息を吸い込んで短く吐き出した。
そして、室内の方に視線を向けると、こちらを見ている人物に気付いて目を細めた。
少しだけ頭が傾くと、藍鼠の髪が微かに揺れ、転入生の丸い黒い瞳が細まっていくのを、彼は静かに見ていた。
(進級に合わせて留学生が来るのは、珍しいわけじゃない。……が、……ルーンハイネ教国からの留学生は、今回初めての受け入れだと、叔父上も言ってたな。カリウス・ディヴィノフ……教国をまとめる現教皇ルケリウス・ディヴィノフの長男……。国としては中立的立場をとってるが、精霊の視える者を無理やり教国に連れて行ってるという噂が絶えない……そんな国のやつが、純粋に学びたいという理由で来るとは思えないし、理由もなしに留学してくるとは考えられないな……)
アルフレッドが思考していると、教室の中が一種だけざわつき、彼は教室の入り口に視線を向けた。
すると、数名の女子生徒が足早に駆け込んで入って来ており、暫くするとルシェルがライラを連れて入ってきた。
静かに観察していると、ルシェルの腕にライラがいつものように抱き付いており、振り払わない様子に頭痛を覚え、額に手が無意識に伸びる。
しかし、そんな彼女に笑顔で対応しながらも、時折ルシェルが冷たい視線を向けることに気が付いてしまう。
額に伸ばした手は途中で止まり、その理由を考えている最中、突然右肩をポンッと叩かれた。
「よっ、お前はまともになったのに、お前の兄は相変わらずだな」
笑いながらティノが言うと、空中で止まっていたアルフレッドの手は額を押さえた。
そして、彼が首を左右に振ると、ティノは首筋を触っている。
「ティノ……耳が痛いことを言わないでくれ……」
「まぁ……レティシア嬢がいなくなってから、世界がより広い視野で見えるようになったから、オレも人のことは言えねぇけど……」
頭の後ろで手を組んでティノが答えると、アルフレッドの顔がわずかに右の方に向けられた。
ガヤガヤと教室の中は、複数の声で溢れ、椅子を引く音や、ドアの開閉音が時折響く。
入り口付近を見つめるティノとは違い、アルフレッドの眉間にはシワが寄っている。
「また、家族から何か言われたのか?」
「ああ、言っていいのか分かんねぇけど……」
ティノは投げやりに答えると、頭の後ろで組んでた手を下ろて、肩の力を抜いた。
そして、窓の方を向くと息を吸い込み、空に一度視線を向ける。
だが、すぐに唇を軽く噛んで、登校中の生徒に目を向けると、軽くため息をついて小声で話を続ける。
「何でも近々、隣国のお偉いさんが来るとか……それが、友好的対話なら歓迎だけど、そうとも言えないらしい」
「昨日、エヴァンス先生が、魔法の授業カリキュラムを戦闘応用にすると言っていたな……」
アルフレッドは、昨日言われたことを思い返しながら答えると、友人の横顔が少しだけ寂しそうに見えた。
拳を静かに握る姿や唇を固く閉じている姿は、彼の気持ちを重くし、自然に友人から視線を逸れてしまう。
一方、ティノは感じる視線が胸を締め付け、悩んでいても変わらないのだと、さらに拳に力を込めた。
けれど、どうにか気持ちを落ち着かせると、今日確認してきた話をする。
「ああ、だけど、エヴァンス先生は、まだ今日学院に姿を現してない。アルフレッド殿下は、何か知らないのか?」
暫しの沈黙が流れると、アルフレッドは短く息を吸い込み、ふぅーっと吐き出した。
「……これは、お前が辺境伯の息子だから話すが、他には他言しないでくれ」
「聞きたくないけど、オレも聞いて来いって言われたしな……」
ティノはやる気のなさを見せながら言うと、視界の隅にアルフレッドを映した。
こちらを見ていた顔が一度床に向けられると、ゆっくりと視線の先へ顔を向けてしまう。
その瞬間、ふと顔を上げたアルフレッドと視線が重なり、ドキッと胸が鼓動を打ち、ニヤリと笑いながら首をかしげた顔が脳裏に焼き付いた。
「……言わなくてもいいなら、言わないが?」
「分かってる、分かってる。家族以外に言わないし、オレも備えられるなら、備える必要がある。親父たちも皇家から情報が共有ないことで、何が起きてるのか分からなくて、ピリピリしてるんだよ……」
アルフレッドは目を固く閉じるティノを見ながら、少しだけ胸の奥に棘が刺さったような気がした。
しかし、だからといって後戻りできないのは、理解している分、言葉にならない気持ちを呑み込んだ。
そして、軽く微笑を浮かべると、「少し場所を変えよう」と言って背筋を伸ばして先を歩いた。
教室を出た2人は、生徒たちがまだ行き交う廊下を進む。
開けられた廊下の窓からは、秋の風が入り込み、生徒たちの髪を揺らす。
話し声や生徒の靴音に交じり、2人の靴音だけが規則正しく響いていた。
口を開かぬまま、硬い表情で廊下を進み、階段を上り始めると、靴音がさらに大きく響く。
階段を上りきると、先導していたアルフレッドは廊下を進み、突き当りにある部屋の前で足を止めた。
それから、扉を開けてから頭を傾け、ティノが部屋に入ると、彼もそれに続き、鍵の閉まる音がした。
「……実は、8月中旬、皇帝陛下宛に2通の手紙が届いた」
アルフレッドは、キョロキョロと辺りを見渡していたティノを見ながら言うと、「へー誰から?」と彼の訪ねる声が聞こえた。
「送り主は、エルガドラ王とガルゼファ王国の両国王だ」
淡々としたアルフレッドの声が部屋の中に響き、ティノは周りを見るのをピッタと止めた。
エルガドラ王国の王太子であるアラン・ソル・エルガドラは、レティシアが姿を消してから、学院に来ていないのは確認済みだ。
そして、ラウル・アル・エヴァンスは学院で先生をしているが、本来はガルゼファ王国の王子だ。
2つの国から手紙が届き、両王子が表舞台から姿を消したのには、それなりの意味を持たせる。
辺境に住まうものとして、ティノはそのことを、幼い頃から学んできて知っている。
「……エヴァンス先生が学院に来てないことを考えると……」
「ああ、多分お前の考えはあってる。完全に帝国に対する抗議の手紙だった」
ティノは後頭部をかくと、「なら、話が拗れれば……」とまで言うと、続く言葉を呑み込んだ。
口にしてしまえば、現実味が増し、受け入れなければならなくなるのが、いやで仕方ない。
「手紙には、戦争が起きないと言えないぐらい、強い言葉が並んでいたそうだ」
言葉を呑み込んだのにもかかわらず、アルフレッドが口にし、ティノは思わず舌打ちした。
しかし、どんなに歯を食いしばっても、心がざわつき、深呼吸を繰り返す。
気持ちをある程度落ち着かせ、なぜこのタイミングで留学生が来たのか考えると、さらに心は叫びそうになる。
「それで……、あの留学生か……」
「ああ、そうだと思う……が……」
アルフレッドは途中で言うのやめると、視線を足元に落とした。
今の状況に納得できる部分もあるが、違和感のように納得できない部分もある。
だが、ある程度の仮説を立てても、その違和感が消えることはない。
そうなると、目を向けていない……疑っていない者がいると考え、関係者全員を疑うのが、きっとレティシアのやり方なのだろう。
彼女のように考えなければ……と分かってはいても、アルフレッドはそこまでは、まだ気持ち的に踏み込めない。
「腑に落ちないのか?」
「いや、そうではないんだが……抗議の手紙には、オプスブル侯爵の婚約話について書かれてた。でも、皇家はイリナ・モンブルヌ嬢とオプスブル侯爵の婚約は確定した物だと認識してたんだ」
ティノはアルフレッドが曖昧に答えると、眉を顰めた。
皇家が確定したと認識しているなら、抗議の手紙はあまりにも不自然だ。
反対に、もし婚約が確定していなければ、オプスブル家と親交の深い両国家が抗議の手紙を送るのは至極当然だ。
ただ、そうなるとなぜ皇家が確定と認識していたのか理解できず、ティノは思わず「ん? つまりどういうことだ?」と聞き返してしまった。
「まず、これまでオプスブル家は、婚約関係を結ぶ時、しきたりがあるとボクは聞いてる。しかし、今回はそのしきたりがなかった可能性があるにもかかわらず、皇家は婚約したと思い込んでた。つまり、意図的な意識操作があったとボクは考えてる」
「つまり……オプスブル家側が、しきたりを実行したと言ってた可能性があるのか?」
ティノがアルフレッドの濁した事実を言うと、アルフレッドは目を閉じて深く息を吐き出した。
何度息を吸い込んでも、思ったように声が出せない。
思い留まるなら今だと、安全地帯にいたい心が囁き、後戻りはもうできないんだと、覚悟を決めた思考が言い続ける。
拳を握ると、指先は冷たくなっており、ジーンと手のひらの暖かさが指先から走るように、脳に伝わって彼は口を開けて話す。
「ああ、あまり考えられないが、実行したと言わずとも……オプスブル侯爵に変わって、それなりの立場の者が婚約したと言ってた可能性も、ない訳ではない。だが……オプスブル家は裏切りを許さない家だと、ボクは聞いてるから……腑に落ちない感覚がある」
「……これ……オレが首を突っ込んでいいのか?」
アルフレッドは不安気な表情を浮かべるティノの顔を見て、目を伏せて逸らしてしまう。
だから濁したのに……という小さな不満を呑み込んで、視線だけを上げるが、表情を見てまた視線を下げた。
どうするのが正解か分からず、仕方なく事実だけを口にする。
「……ダメだろうな。――オプスブル侯爵家に裏の顔があるのは、ボクも母上から伝え聞いてるだけだし、実際のところはどうなのか調べようとしたが、オプスブル家のことに首を突っ込むなと母上に釘を刺されてる」
「信じらんねぇ……なら、オレに話すなよ……」
アルフレッドは頭を押さえるティノを見て、全身の毛が逆立ったのが分かった。
怒りではなく、悲しみとも言えない、曖昧な感情が胸の辺りをグルグルと回る。
このまま、皇位継承を望むのであれば、本音で話せる側近は必要になる。
けれど、アルフレッドにはそういった人物が、目の前にいるティノしか今はいない。
少ない交友関係は、兄の立場を刺激しないためでもあったが、状況が変われば足枷でしかない。
そして、今はもしもの可能性を考えて、仲間を増やすしかないのも分かっている。
「なぁ、ティノ……カルカイム辺境伯家は……皇家とフリューネ侯爵家が敵対したら……」
「悪い、それは答えたくない」
ティノが話を遮って即答すると、アルフレッドは思わず息を止めた。
心の奥底は痛み、それでも受け入れなければならないと、息を呑み込んだ。
「……そうだよな、答えにくいことを聞いた。すまない」
ティノは黙ってしまったアルフレッドを見て、ため息をつきながら頭をかいた。
アルフレッドが次期皇位を主張してから、彼の周りから人が蜘蛛の子を散らすように消えた。
そのため、彼の周りに同世代がいることは減り、一回り年が離れたものしか今は寄り付かない。
距離を置きたい訳じゃないが、今の状況はそれさえ足枷になる可能性がある。
皇位が決まらない限り、その状況が続くのかもしれないと考えると、ティノの心はわずかに痛んだ。
「いや、いいよ。お前の立場も分かってるし……だけど、婚約の件に関して、直接オプスブル侯爵に聞けないのか?」
「聞けてない。オプスブル侯爵に文を出したが、1通も返って来てない。それだけじゃなくて……ボクの方の調べでは、オプスブル侯爵が表に出てこなくなってから、暫くして次に継ぐであろう弟も帝国から姿を消してる」
ティノはアルフレッドの話を聞き、皇子らしいことしていると思った。
だけど、同時に同級生が急に大人に見えた瞬間でもあった。
貴族であるならば、いつまでも子供じゃいられないのも理解している。
それでも……学生の間だけは、政治を挟まないで、友と話したかったとティノはふと思った。
そのため、一度『あ~あ』と言いたい気持ちを呑み込み、彼の話の返事をする。
「……今は、お前が出した禁令で、オプスブル侯爵と深い親交があるフリューネ侯爵家にも、聞きに行けないんだろ?」
「……ああ……、そうだな……」
ティノは思ったまま、「八方ふさがりか……」と呟くと、曖昧に笑ったアルフレッドを見て、ゆっくりと目を伏せた。
けれど、数秒の間が空き、「認めたくはないけどね……」とアルフレッドの小さな声が聞こえると、どうするのが正解なのか分からなくなった。
正直、ティノの立場を利用すれば、得られる情報があるのは、彼自身理解している。
しかし、だからといって、ティノは家族まで巻き込みたい訳ではない。
やりたいことは明白なのに、正しいのか分からなくなると動けないのは、貴族の悪いところだと彼は内心で思い、静かに俯く帝国の皇子を見つめた。




