第198話 語られぬ願いと、声なき声たち
相変わらず、空には分厚い雲が佇み、リスライべ大陸を覆い隠していた、神歴1504年9月11日。
街の中央に位置する塔の屋根上には、白い獣が小さな前足を伸ばし、全身で背伸びをしながら、小さな口を大きく開けて欠伸をしている。
腰を下ろしたステラは、もう一度欠伸をすると、静かに下の方を見ていた。
わずかに涙で潤んだ金の瞳には、街の景色が微かに映し出され、遠くの方で人が動いているように見える。
下にある部屋の開け放たれた窓からは、男女の話し声が響き、彼女は体を伏せると、頭を前足に乗せてゆっくりと目を閉じた。
部屋の中は上座から扉に向かって赤い絨毯が敷かれ、上座にある大きな椅子にはニクシオンが座っており、傍でオクターが控えていた。
真ん中にある絨毯を挟むように、左側にはレティシア、ルカ、アルノエが、右側にはアラン、クライヴ、レイが立っている。
開け放たれた窓からは、風が吹き込んで彼らの髪を揺らしていく。
「それでは、近々リスライべ大陸を離れるということでしょうか?」
ニクシオンが問いかけると、レティシアが静かに頷いた。
「ええ、ここでの用も終えたのに、いつまでもここにいるわけにはいかないわ。それに、ヴァルトアール帝国の方もどうなっているのか気になるのが本音よ」
鈴のような声は柔らかく、透き通るようにスラスラと言葉を重ねた。
しかし、右側に立っている3人の視線は、徐々に下がっていた。
「そうですか……では、帰りはどうしますか?」
「どうするって……来た時のように帰るわよ?」
ニクシオンはレティシアが目を細めたのを見て、他の5人に目を向けて彼らの様子を窺った。
そして、どうするべきか考えながらゆっくり瞬きすると、再度レティシアの方に視線を向ける。
「……聞き方を間違えました。他の皆様がどうするのか気になっただけですので、お気になさらないでください」
レティシアの瞳が右に傾き、「なるほどね……」と囁くような彼女の声が聞こえると、ニクシオンは彼女の視線が彼の方に戻るのを見て微笑んだ。
「察しが良くて助かります。この後にでも、時間を設けます」
「分かったわ」
レティシアは短く答えると、ニクシオンの傍らにいるオクターが目を逸らしたのが分かった。
けれど、彼がどうして目を逸らしたのか分からず、何気なく隣に立つルカに視線だけ向け、またオクターに視線を戻した。
すると、慌てた様子でオクターの視線が泳ぐのを見て、彼の行動を不審に感じてしまう。
それでも、思わず下げた視線を再び上げると、真っすぐにニクシオンだけを見て、オクターを視界に入れないようにした。
「では、ポルエラへの移動に使うヴェルドリンは、私の方で用意しておきます。他に何か用意しておくものはありますか?」
「いいえ、私は特にないわ」
口を開きかけたニクシオンは、「それなら、俺の方からいいか?」とルカが言うと、口を閉じて小さく微笑んだ。
真っすぐにルカの方に向けられた表情は変わらず、誰も一言も話さない時間が数秒続く。
全員の視線がニクシオンに向けられる中、彼の視線が一度下がり、再び視線が上がると赤い瞳の目元は柔らかく細まる。
「ええ、構いませんよ」
「なら、途中で立ち寄るウィアミスティカで泊まる宿と、ポルエラに着いてから何日か滞在できる宿を、用意してくれると助かるんだが可能か?」
ルカが言い終えると、表情を少しも変えていないニクシオンは頷いた。
彼の手は指先だけで指を組み、目だけがわずかに並ぶ6人を追うような動きがある。
「はい、初めから用意しようと考えていたので、もちろん可能ですよ」
「あと、金を両替できないか?」
「それでした、オクターを同伴させますので、彼に支払いをお任せください。長旅に必要な買い出しですよね?」
ニクシオンがオクターの名を出した途端、オクターはギョッとした様子でニクシオンの方を向いた。
しかし、彼が口を開くことはなく、ルカも「ああ、そうだ。悪いな」と短く答えた。
「いえ、お気にせず……オクターも良いですね?」
オクターはニクシオンに視線を向けられると、彼からそっと視線を逸らし、眉間にシワを寄せた。
後ろで組んでいる手は拳を握るが、軽く息を吸い込んで、肩の力を抜いて正面に向き直し口を開く。
「……はい、畏まりました」
「では、他になければ、一旦レティシア様を残し、他の方々には出て行ってもらいたいのですが、可能でしょうか?」
ルカは話を終えようとしたニクシオンを見て、チラッと一瞬だけレティシアの方に視線を向けると、深く息を吐き出した。
そして、「なら、もう1つ」と低い声で言うと、目を細めてニクシオンに鋭い視線を向ける。
「ここに来る経路として、別の道があるだろ? それは、何だ?」
ニクシオンはルカの表情を見ると、思わずにんまりと笑みを浮かべた。
暫くルカの様子を窺うと、ゆるく組んでた指をしっかりと組み直し、軽く息を吐きながら笑ってしまう。
「……やはり、ルカ様も察しが良いですね。しかし、これは……フリューネ家を守るためエレニア様が決め、オプスブル家初代当主であるリオ様と闇の精霊が賛同して、記憶に残さないようにしました。ですので、たとえ闇の精霊と現在契約しているオプスブル家の者でも、教えられない決まりです」
笑顔を浮かべるニクシオンとは対照的に、ルカの目はさらに細まった。
「となると、初代オプスブル家当主以降の記憶には存在しない、ヴァルトアール帝国からリスライべ大陸を行き来する道が、船以外にもあったということか?」
「できれば、このこともお忘れになってくださると、大いに助かります。それとも、今後オプスブル家はあなた方が守っている掟を放棄するのですか?」
ルカはニクシオンに問われると、ゆっくりと瞬きをして感情を落ち着かせた。
闇の掟は初代当主と初代皇帝が、彼らの願いを円滑に守れるように作ったものだ。
レティシアがいなければ、掟を守る理由はないが、レティシアがいるなら掟は必要になる。
しかし、船以外の経路があることを、記憶に残さないとなれば、それは……いざという時、フリューネ家を守れないのと同義だ。
エレニアの願いだと頭では理解しているが、掟を守るという理由からは、到底納得できない。
「……いや、だが……俺が生きてる限り、レティシアがいなくなれば、ここに来たと判断するだけだ」
ルカが言い切ると、ニクシオンは一瞬だけ目を見開いたが、また笑みを浮かべた。
「……では、勝手にそう判断してもらって構いません。会えるかは……また別の話ですが」
「それは、私がルカに話してもダメということ?」
澄んだレティシアの声が響くと、全員の視線が彼女に向けられた。
窓から入った風がサーっと吹き抜け、彼らの髪をなびかせた。
数秒の沈黙が続くと、レティシアが首をかしげ、「どうなの?」と淡々とした口を動かした。
「……そうです。レティシア様、これはエレニア様の願いです」
「そう……とても、矛盾した人物だったのね……」
ニクシオンは呆れた様子で話すレティシアを見て、胸の辺りがモヤッとして眉を顰めた。
どんなに彼女の様子を見続けても、彼女が何を本当は言いたいのか分からない。
そのため、「と言いますと?」と尋ねたが、彼女の肩がわずかに上がり、ガックリと下がったのが見えた。
「いえ、あなたはエレニアが、フリューネ家を守るために決めたと言っていたわ。だけど、何かあった時に助けられる可能性があるオプスブル家を、排除しているのよ。現に、もし仮にオプスブル家が知っていたら、フェリックス様とリディア様は生きて帰って……」
レティシアはそこまで言うと、フェリックスとリディアが暗黒湖に入った経緯を思い返していた。
彼らは命の危機を感じ、結果的に入ったが……それなら、オプスブル家に言えば良かった話だ。
けれど、それすらせず、当時のオプスブル家当主であるジョルジュにすら、行き先を言わなかった。
それは、『いつかはオプスブル家の者に、何らかの異常が起きる可能性を見越していた』からとも言っていた。
ならそうした理由は……彼らなりに、守られる立場でありながら、オプスブル家を守りたかったのだとも考えられる。
(フェリックス様は、『言葉は思いだ』と言っていたけど……言葉にできない思いがあったのね……)
レティシアはフェリックスとのやり取りを思い出し、心の中で呟いたが、ふと自分の思考に引っかかりを覚えた。
「……もしかして、エレニア様が本当に望んだのは……」
ニクシオンはレティシアが呟くと、軽く目を閉じて当時のことを思い出していた。
花のように笑うエレニアの顔が、一瞬だけオプスブル家当主の背中を見て曇る瞬間があった。
けれど、彼女の本心は最後まで、彼女の口から語られることなく、彼女はこの世を去った。
(エレニア様は最後まで語らなかった……それなら、彼女が最後まで隠していた想いを、他者が気安く口にしていいものではない)
ニクシオンはそう思うと、静かに目を開け、エレニアの子孫であるレティシアを真っすぐに見つめて口を開く。
「レティシア様、私ですら彼女の本心は知りません。そして、知る術はもうありません。しかし、仮に何かに気が付いたのであれば、彼女の本当の思いは、あなたの胸の内にだけおしまい下さい」
「そう、それなら、後でもう一度、暗黒湖に入るわ……確かめたいことがあるの」
ニクシオンは決意に満ちたレティシアのロイヤルブルーの瞳を見て、胃の辺りがずっしりと重く感じた。
彼女もエレニアと同じ目をするのだと思うと、血は争えないな……とすら考えてしまう。
「……分かりました。お一人で行かれるということでしょうか?」
「ええ、1人で行きたいわ……良いわよね?」
ニクシオンはレティシアの声を聞き、胸の靄を消すために深くため息をついた。
それでも、靄は消えずにグルグルと様々な感情が交ざり合い、指を組んでいた手に力が入る。
どうにかして、冷静になろうとして、時間を稼ぐための提案を口にする。
「お言葉ですが、あまりにも危険かと思います。一先ず、先日入ったばかりですし、少し時間を置かれてはいかがでしょうか?」
「いいえ、今じゃなきゃ、もう二度と確認できないわ」
「俺は反対だ。闇の精霊も反対してる。お前は行くべきじゃない」
ルカはレティシアの方を見ながら会話に割って入ると、ハッキリとした口調で言い切った。
次の瞬間、レティシアの顔が視界に入り、目を細めた彼女が苛立っているのだと気が付いた。
「それなら……闇の精霊様は、エレニアが何を本当に望んでいたのか知っているのでしょ? 答えなさいよ」
ルカはレティシアに問われると、闇の精霊に尋ねたが、精霊の話を聞いて眉間にシワを寄せた。
そして、理解しようと思考を始めようとすると、精霊の声に急かされ、困惑したまま言われたことを話す。
「お前は……その答えをもう知ってるって……どういうことだ?」
レティシアは、胸が苦しくなって、「そう……分かったわ」と言って息を吸い込んだ。
しかし、涙が零れ落ち、「ええ……そうね」と言いながらも、冷たい涙が頬を伝ったのを感じていた。
瞼を閉じる度、喉は微かにひりつき、鼻の奥がジーンと痛む。
それでも、頬を掠める風が涙の後をひんやりとさせる。
(きっと……エレニアは、守られるのが苦しかったのね。自分の力で立てる彼女は、誰かの隣に立ちたかった……でも、立てなかった。当時は、きっと……立つことも許されなかったのね……だから、フリューネ家を守るためにという言い訳を並べた。……多分、暗黒湖や小島にあった光る木の近くにあった花たちは、思いを読み取って音を奏でる……今の私の気持ちを、あの空間が今度はどう拾うのか……確かめたかったな……)
レティシアは視界の先から伸びる手と、「レティシア……?」と言ったルカの声を聞き、我に返って咄嗟にルカの手を払った。
そして、どうにか気持ちを落ち着かせようと、言葉にして自分にも言い聞かせる。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ……大丈夫だから」
静かに2人のやり取りを見ていたニクシオンは、オクターの方に視線を向けると、彼に軽く頷いて見せた。
すると、オクターが動き出したのを見て、再度レティシアたちの方に向きなおすと、優しく声をかける。
「……レティシア様、オクターが別室にご案内します。どうか、そちらの方で少しお休みになられてください。後程、私も向かいます」
「こちらへどうぞ、レティシア様」
オクターが扉を開くと、風が吹き込み、「ええ……」と鈴を転がすように澄んではいるが、か細く揺れるレティシアの声が響いた。
足音を立てずに歩くレティシアの背に、オクター以外の者たちの視線が向く。
だが、レティシアの背後でパタリと扉が閉ざされると、ルカが視線を落として払い除けられた手を見つめ。
アルノエとレイがルカの方を、どこか愁いを帯びた瞳で見つめている。
しかし、アランはレティシアが立ち去った扉を見つめており、そんなアランに対し、クライヴは視線を向けていた。
屋根の上に寝そべっていたステラは、窓から聞こえる声が無くなると、体を起こして深くため息をついた。
空に視線を向けるが、青い空はどこにもなく、まるで雲が心まで覆い隠してると感じた。
ステラは最後に合った時のエレニアの姿を思い浮かべるが、彼女はいつものように親のことを尋ねていた。
今さら……彼女の本心を知ろうと思っても、もう手が届かないのだと……時間の流れを思い知った。




