第196話 揺れる忠誠と歪む願い
同日、ルカと会話を終え、レティシアは1人で塔の階段を下りていた。
階段を下りる足音は静かで、時折、彼女の息遣いがわずかに広がる。
吐き出される息は長く、何を考えているのか分からない表情で、時々立ち止まって遠くを見つめているようだ。
開けた場所に出ると、彼女とすれ違う上級魔族は、彼女に笑いかけるのに対し、少女は軽く頭を下げて通り過ぎている。
「ゲッ」
レティシアは変な声が聞こえると、思考を止めて、声がした方に視線を向けた。
すると、露骨にいやそうな顔をしたクライヴが立っており、サッと顔を逸らされ、彼女は面倒だと感じた。
そのため、そのまま彼の横を通り過ぎようとしたが、ふと足を止めて彼の顔を覗き込んだ。
「な、何だよ」
彼が泣きそうで嫌悪が交じった表情をして言うと、彼女は何かあったのだと察した。
しかし、ただ異変が見られたから確認したに過ぎず、冷たく「いいえ、何も」とだけ返す。
すぐに考えを戻し、彼女はクライヴの横を完全に通り過ぎると、背後で鼻をすするのが聞こえた。
それでも、足を止めずに歩き続けると、クライヴの足音も聞こえ、彼女は本当に面倒だと思い、ため息をついてしまう。
「話を聞いてほしいの? それとも、何か私に用かしら?」
「……レティシアは」
クライヴは彼女の名前を呼び、続きを話そうとしても声が出てこず、口を閉じると唾を飲み込んだ。
聞きたいことがあるのに、先程のアランとのやり取りを思い出すと、言葉にするのが怖くてしかたない。
「……場所を変えましょ、ここは人目が多いわ」
最初に、深く息を吐き出すのが聞こえ、続いて耳に届いた声が、クライヴには冷たく感じた。
胃の上あたりが重く、返答に困っていると、彼女が歩き出し、慌てて後を追い掛ける。
彼女の足音はあまりにも静かで、クライヴは無意識に彼女の足を凝視してしまう。
暫く進むと、階段を上り始め、鼻先をわずかに動かすと、心臓が一度大きく脈を打ったのが分かった。
階段を一段一段上がり、最上階に向かうに連れて足が重くなる。
(この先にまだいる……行きたくない……)
と思っても、彼女が先へと進み、喉が張り付いて声が出せない。
「あ、あのさ……」
やっと声が出せたのに、それに続く言葉が出ず、「何?」と聞き返され、クライヴは余計に声が出なくなった。
尻尾も耳も、情けないくらいに垂れているのが分かる。
薬を飲んで、尻尾と耳を隠しておけばよかったと、小さな後悔すら生まれる。
それでも、答えないでいると、彼女が再び歩き出し、内心で悪態をつきながら後を追う。
しかし、階段を登り切った彼女が少し進んだ所で足を止めると、クライヴは咄嗟に息を止めた。
ドアをノックする音が聞こえ、耳も塞げばよかったと思ったが、すぐにギィーっとドアの動く音が続く。
「ルカ、少しこの部屋を使っても平気?」
「ああ、それなら、俺は外に出てた方が良いか?」
クライヴはルカの声が聞こえると、感情がぐちゃぐちゃになって胸元を掴んだ。
心臓の音がうるさく、この場を逃げ出したい気持ちに駆られる。
それでも、何度も深呼吸を繰り返しながら、気持ちを落ち着かせようとした。
「いや、一緒の方が良さそうだな」
「私は別に構わないけど……クライヴ、ルカがいても平気?」
ルカとレティシアの声が、クライヴには遠くに聞こえ、耳は鼓動の音に支配される。
できれば、今一番会いたくない人物がこの部屋の中にいるのだと思うと、一歩も前に進めない。
しかし、足音が近付くのが聞こえ、手首を掴まれると力強く引っ張られる。
感覚がないまま部屋の中に入れられ、背後でドアの閉まる音が耳に届いた。
「時間の無駄だ。レティシアに話があったんだろ? とっとと話せ」
クライヴの耳に飛び込んできた声は、あまりにも冷たく、ルカから警戒の匂いがした。
しかし、声や匂いとは違い、感じ取れる視線はピリピリとしている。
「お茶を入れるわ。どこにあるの?」
「俺がやるからいい。それより、こいつをどうにかしろ」
ルカは部屋の奥にある棚を開けているレティシアに向かって言うと、彼女が振り返ったタイミングで、クイッと頭を少しだけクライヴの方に傾けた。
すると、徐々に彼女の眉間にシワが寄り始めたのが見え、彼女も本意で連れてきたのではないと確信した。
「生憎、私は彼の世話係じゃないわ」
「分かってる。だけど、俺よりもお前の方が、そいつと話したことが多いだろ」
レティシアはルカが歩き出すのを見て、首を左右に小さく振ると、内心で深くため息をついた。
そして、紅茶を入れるのを諦めると、仕方ないと割り切ってソファーの方に向かいながら口を開く。
「クライヴ、とりあえず座ったらどう?」
部屋の中には、棚の戸が閉まる音や、カチャカチャと食器がぶつかる音の中で、手際よくルカがティーセットをトレーに載せている。
次第に、コポコポとお湯が沸く音が交ざり、再びカチャカチャと食器が微かに音を鳴らす。
暫くして、再び「ねぇ、……聞いているの?」とレティシアの声がすると、ルカが入れる紅茶の香りがテーブルの辺りから広がる。
「話す気があるなら座れ、話す気がないなら、この部屋から消えろ」
クライヴはルカの声にビクッと肩を震わせると、少しだけ顔を上げて声がした方を見た。
けれど、何を考えているのか分からない背中と、目を細めているレティシアが見え、咄嗟に頭を下げてしまう。
「悪いけど、私も暇じゃないわ。勝手に連れてきたけど、話したいことがあったんじゃないの?」
「話したいこと……は、ある……」
躊躇いながらクライヴは答えたが、すぐさま「なら、話なさいよ」と突き放すようなレティシアの声が聞こえた。
考えながら口を開くが、「……」何も言えなくて口を閉ざすと、「時間の無駄だな」とルカの声がして、黒く濁った気持ちが溢れた。
無意識に「お前は……いいよな」と呟くと、気持ちの歯止めが利かなくなり、そのまま喉から言葉が出ていく。
「お前は……人格が変わったって……言えば……終わりだもんな」
クライヴは、ルカが振り返って「何が言いたい?」と尋ねると、思わず鼻で笑った。
そして、蔑むように笑みを浮かべると、思いは口からこぼれる。
「そのままだよ……どうせ周り何て、お前にとっては……ゴミ同然なんだろ?」
「クライヴ、口を慎みなさい。ここは帝国じゃないけど、あなたはアランの側近で、ルカは帝国が認めた貴族よ」
レティシアの叱責に、クライヴは一瞬言葉に詰まった。
しかし、もう自分じゃどうしようもないくらい、感情がぐちゃぐちゃで、胸の辺りは重く傷む。
「レティシアもさ……君が周りをどれだけ……傷付けてるか分からない……?」
「それが、どうしたの?」
カップを口から離したレティシアが、淡々とした様子で答えると、クライヴの鼻筋にはクッキリとしたシワが寄った。
彼の頬には薄っすらと血管が浮き出ており、歯がギリッと音を鳴らす。
暫しの沈黙の中、拳を握る彼の両腕は小刻みに震えている。
「……自分は傷付きたくないのに……平気で周りを傷付けてるのか……」
クライヴの声は部屋の中で響くが、ルカもレティシアも答える気がないのか、彼から視線を逸らした。
「化け物だなお前たち……人の皮すら被れてない化け物だ」
カップを口元に運んでいたレティシアの手が止まり、中にある液体が小さく波を打つ。
次第にカップの中にある淡茶色の紅茶は、彼女の無表情な顔を映し出し、遠ざかっていくと部屋の天井を反映させる。
「そうね……私は、人でありたいと思うけど、同時に化け物かもしれない。それを、否定しないわ」
「……」
ルカは黙ってしまったクライヴに対し、「それが言いたかったのか?」と問い掛けた。
けれど、彼が2回続けて小さく首を横に振ると、再び「なら、ちゃんと話せ」とルカの冷たい声が続いた。
「僕は……レティシアに聞きたかった……ルカのことを今も好きなのか……」
クライヴの声は微かに震えており、彼の視線は床の方に向いている。
「ルカに聞きたかった……今もレティシアが好きなのか……」
部屋の中には、カップとソーサーが小さくぶつかる音がし、クライヴの声が静かに落とされていく。
「もう好きじゃないなら……」
俯いたままのクライヴの両手は拳を握るが、それと対照的な2人がソファーにいた。
カップを片手に持ち紅茶を飲むレティシアと、腕を組んで閉じているルカは、始めの位置から動いていないクライヴの方を見ていない。
「……アランが2人の間に入る隙間を……開けてほしい……」
沈黙の中、ルカは肺を空気で満たして目を開けると、口を閉ざしたまま時間を掛けながら肺を空にしていく。
クライヴとレティシアの姿がルカの赤い瞳に映し出されていたが、その視線がカップへと移ると、足を組んだルカの口は静かに開かれる。
「好きにすればいい。俺は別に止めてないし、レティシアに近寄るなとも言ってない」
「じゃ、2人きりでもう会わないでほしい……アランが遠慮するから……」
ルカは分かったと答えるために口を開いたが、その瞬間「それは無理ね」と言ったレティシアの声が耳に届いた。
「アランがどう思うかとか、あなたがどう思うかは関係ないわ。これは、フリューネ家とオプスブル家の問題よ。外野が口出ししないでちょうだい」
ハッキリとしたレティシアの声が響いたが、それは大きくも小さくもなく、あまりにも淡々としていた。
「なら、どうしたらいいんだよ!!」
レティシアはクライヴが叫ぶと、冷静に「あなたはどうしたいの?」と尋ねて彼の様子を窺った。
しかし、再び「だから!」と彼が叫ぶと、彼女は深くため息をついてしまう。
「私とルカにどうしてほしいかじゃなくて、あなたはどうしたい? って聞いているの」
クライヴはレティシアに改めて聞かれ、何と答えていいか分からなくなった。
何度もどうしたいのか考えても分からず、「……分からない……僕は……」と呟いた途端、視界が滲み始めた。
どうあってほしいのか……その思いは今もまだ喉に残っている。
しかし、自分がどうすべきなのか……具体的な思考は彼の中にはない。
アランのために何かしたい、そのために動いて考えてきたと自信を持って言える。
けれど、彼が思い描く希望の結末は、他者を前提として成り立ち、他者との関係性の中にある。
それなら……レティシアが聞いている“自分がどうしたい”とは一体何なのか、彼には分からなくなった。
考えはまとまらず、それでも思いだけは口にする。
「僕は……ルカがいなくなれば……レティシアがアランの方を向いてくれると思った……でも、違うの?」
「クライヴ、あなたは強いのね。アランのために、自分が分からなくなるまで、自分を捨てられるんだもの。私にはできないわ。私は、最後まで私でいたいから」
レティシアは落ち着いた口調で言うと、一瞬だけルカの方を見た。
しかし、直ぐにカップに視線を移すと、微かに微笑んでカップに手を伸ばす。
誰かのために動くのは、自己犠牲と紙一重であり、自分の存在理由を、その人に託してしまう。
そこに残るのは、やり遂げた達成感ではなく、役に立てたという思いや安心感だけだ。
けれど、盲目的に相手を思って動いていれば、次第に黒い感情が芽生え、自己中心的な思考へと落ちる。
そのため、自分がどうしたいのかがハッキリしていなければ、盲目的になってしまうことを彼女は理解している。
「レティシアもずるいよ……アランの番がもういないのを知ってるのに……彼の居場所になってから、ルカを忘れたいからって簡単に切り捨てる……」
「……」
「否定はしないんだな?」
クライヴはレティシアの方を見ると、首をすこしだけ傾けた。
その瞬間、彼女の目が細まるのを見て、思わず笑みが零れる。
「アランに話を聞いたのね?」
「ああ、距離を置きたいって言ったんだろ?」
淡々と聞きながら、クライヴは彼女の様子を見ながら尋ねた。
そして、軽く息を吐き出した彼女の顔が、スッと真顔になると彼は目を細めて彼女を凝視した。
「ええ、言ったわ。暗黒湖に入るために、迷いに繋がるものは排除したかったの……ここに帰ってくるためにも」
「なら……もう、アランとの距離を戻してもいいんじゃない? なのに、何でまだ距離を取ってるの?」
レティシアはクライヴに聞かれて、正直に答えて良いのか悩んだ。
しかし、真剣な声に偽りで返すのは、良くないと考えて正直な思いを話す。
「それは……私を見るアランの目に動揺が見えたからよ。話は聞いているのでしょ? それなら、一度拒絶した者が、一方的な理由で距離を縮められないでしょ」
「僕は……それでも、縮めてほしかった……そうすれば……アランが苦しむのを見ないで済んだ……」
静かに話を聞いていたルカは、暗黒湖に行く前に自分だけではなく、周りからも彼女が距離を置いていたのを初めて知った。
暗黒湖の性質を考えるのであれば、それ程までに彼女が追い詰められていたことになる。
そして、その時に開けた距離が、暗黒湖から戻った日に、明確な溝になったのだと分かった。
けれど、その溝は彼女が埋めるものではなく、動揺した者たちが埋めなければならないと彼は思ってしまう。
「勝手だな。変わったと困惑し、見かたを変えたのはお前たちだ。それなのに、お前たちは俺たちのことを何も見ず、今の俺たちを受け入れられないのを、まるで俺たちのせいだと思ってる。俺とレティシアは、お前たちの都合のいい居場所でも、道具でもない」
クライヴはルカの声が聞こえると、バッと勢いよく彼の方を向いた。
脚と腕を組んでいる姿はどこか余裕があり、足元がグラついている自分との差を見せつけられた気がした。
それでも、向き合ってくれているんだと思うと、溢れるように思いのたけをぶつけてしまう。
「分かってる! 分かってるんだよ!! それでも、それでも……ルカの隣にいるくらいなら、レティシアにはアランの隣にいてほしい……ルカは……またレティシアを傷付けるかもしれない。そうなったら、またアランが傷付く……。僕は、アランを幸せにしたいし、幸せになってほしい……もちろん、アランの傍にいてくれるならレティシアもだ……」
「信頼して話してくれるのはいいが、それで彼女がいやだと言ったら?」
ルカが首をかしげると、クライヴは泣きそうになった。
一方的な感情をぶつけても、それを信頼と捉えたルカの懐の深さと、誠実さが言葉に滲んでいる気がした。
「そうなったら、もう何も言えない……諦めることはできないけどね。それに、ルカとは敵対できないから、そうならないために考えるよ……」
クライヴは軽く笑うと、深く息を吐き出した。
アランのことは大切で、自分を犠牲にしても幸せにしたい。
けれど、アランが望まないことをするのは、アランのためではなく、アランを言い訳にした自己満足だ。
ともなれば、アランに全てを告白し、彼がそれでも側近として認めてくれるのを待とうと、クライヴは密かに思った。




