第195話 記憶の残響と、変わらぬ輪郭
アランはゆっくり歩きながら、先程のクライヴとの会話を思い返していた。
主を思ってのことだと考えれば、誓約を破ろうとしたクライヴの行動は、優柔不断な主に全ての責任がある。
そして、誓約は絶対に破ることも、途中で解くこともできない、生涯を捧げた誓いだ。
本来であれば、優柔不断なやつが手を出していい代物ではないことも、アランはしっかり理解している。
それでも、誓約でクライヴを縛ったのは、罪悪感を抱える彼に対して、少しでも救いになれば……と思ったアランなりの気遣いだ。
しかし、実際に誓約の制裁で苦しむ姿を見て、アランは自分の行動が正しかったのか、分からなくなった。
「……従者も側近も……必要なのは分かってたけど、誓約は結ぶべきじゃなかったのかもな……」
ふと呟いてみたが、気持ちは重くなるばかりだ。
けれど、頭を過ぎっていくのは、誓約について詳しく語ったルカの声と表情と……あの時の温度感だ……。
戦で人に剣を振るうことも、罪人を裁くのも、誓約の制裁と大差ない……。
頭では理解してはいるが、心から信頼していた相手が誓約の制裁を受けていたのを考え、人を見る目がないのか……と自分を疑ってしまう。
だが……クライヴの苦しむ姿を見て、一番初めに抱いた感情は、彼に対する失望だった。
制裁を受けていた時の彼が、何を思っていたのか分からないし、知る必要もないとルカなら切り捨てる。
そして……実際にアランも同じように、知る必要はないと思い、なぜルカが切り捨てるのか理解してしまった。
「信頼してしたからこそ……また信じるためにも、裏切ろうとした理由を、知る必要はないんだな……。ルカ……今、あの時のお前の言葉が、すげーいてぇ……」
アランはその場にしゃがむと、ポケットから通信魔道具を取り出し、知り合った頃のルカがもういないんだ……と改めて実感した。
些細なことを話し、色んなことを相談し合い、笑いあったあの日は、二度と戻らないのだと……空虚な気持ちが膨らむ。
同じ容姿、声、瞳、背丈、どれをとてもルカだと言える。
だが……記憶を所有していれば、元の人格まで同じなのか? と疑問が湧く。
「クライヴと誓約を交わした時……ルカの忠告を聞かずに、ルカに報告してれば……そうしたら……」
呟いていた口は動きを止め、アランは暫くの間目を閉じてジッとしていた。
「そうしたら、何も気にせずにお前と今も話せてたのかな……ルカ……」
アランは、ルカから誓約について説明された時。
誓約を結んだ相手がいることは、口外しない方が良いと忠告を受けている。
その理由は、人質に捕られるリスクが高まるからだと聞いている。
誓約を結んだ時点で、相手は裏切れない。
つまり、誓約を結んだ相手が捕まった時点で、見殺しにするか、死に際を見に行くことしかできないとも、説明されたのだ。
「裏切りは、行動と思考がもたらす物……そりゃー……助けに行く間に、ずっと拷問されてたら、死ぬ可能性しかないもんな……そんな恐怖と痛みのの中、少しでも楽になりたいって思って、主の情報を言うか悩んだ時点で……終わりだ……」
呟いたことで、改めて忠告を聞き、話さなかったことが正しかったのだと思ったが……それでも……言葉にできない後悔だけが募る。
『……信じてた相手が裏切った時、言い訳を聞いて納得しようとするのは、結局は自分の信頼が間違ってたことを受け入れたくないからだ』
アランはルカに言われた時の場面を、脳裏に写すと「やっぱ……いてぇょ……」と呟いて、通信魔道具を胸の位置で握りしめた。
国を治める王になるなら、誓約も必要なものと割り切るしかないだと、頭では理解している。
だが、王太子として認められたあの時とは違い、ルカ、レティシア、アラン、三人の距離は近くて見えない距離がある。
その現実は、アランの心を抉り、それでも王子としての覚悟だけが、彼を支えている。
あふれる涙は地面を濡らすが、アランは服の袖で拭うと、「ダメだな……」と言いながら立ち上がった。
今の気持ちを吐き出せば、強がらなくていい、弱さではない、と誰かが言ってくれるかもしれない。
しかし、アランは生半可な言葉がほしいのではなく、叱責で背中を押してほしいのかもしれないと思った。
「幼い頃は、暗殺の恐怖に怯えるのが当たり前だった。その時から、人は裏切るのだと知ってた……。もう、昔のルカがいないなら――情は切り捨てろ……王は民を導くものだ。心に線を引け」
アランは考えながら言うと、通信魔道具をポケットにしまい、部屋に戻るために歩き出した。
サラサラと吹く風は、少しも気持ちを軽くしない。
それでも、気分を沈めるものでもないと思うと、幾分か思考は軽くなる。
暫く歩いていると、アランは白い子犬を見つけた。
少しの間、立ち止まって考えたが、後頭部をかくと子犬の方に方向を変えて歩く。
『……あら、何か用かしら?』
「いや、今1人か?」
ステラはアランが尋ねると、一度アランの顔を見て少しだけ考えてから、アランの後ろにいるレイに視線を移した。
そして、コクリと頷くレイを見て、軽く呆れて息を吐き出してしまう。
「ボクもいるよ?」
アランは突然背後から声が聞こえ、心臓が飛び出るほどに驚いた。
気配もなく、突如現れたレイの姿に疑問しかない。
しかし、そのことを言えば失礼になると思い、首裏を触りながら口を開く。
「悪い……。気付かなかった……」
「むしろ気付いてたら、こっちが驚きだよ。――それより、クライヴが暗い顔して、部屋に向かってたけど良いの?」
レイは様子を窺いながら言うと、アランが目を逸らしたのに気付いた。
そして、「今は……いい」とアランが答えると、何かがあったのだと理解し、「ふーん」と適当に答えた。
しかし、空気を察したのか、アランが「……邪魔したみたいだな」と言うと、レイはマジか……と思ってため息をついた。
『アラン、何を考えているのか分からないけど、あなたは何も間違っていないわよ?』
「……なぁ、ステラ……おれは人を見る目がないのか?」
ステラはアランとクライヴの間に、衝突が生じたのだと、クライヴを見て気付いていた。
しかし、実際に2人の間で何があったのかは知らない。
それでも、彼が間違っていないと彼女が思えたのは、少なくとも彼が誠実な人だと理解しているからだ。
それを伝えたつもりだったのに、全く違う回答が返ってきたことで、ステラは少しだけ眉を寄せてしまう。
『人を見る目はあると、ステラは思っているわ。アランは疑り深くて、すぐに誰かを信用しない。何度も相手の本質を読み解いてから、信頼できる者を選んで側に置いているわ』
ステラはアランが「……そっか」と力なく呟くと、人とは本当に面倒な生き物だと思った。
長い時間を生きてきたステラから見れば、レイは別としても、アランは赤子同然だ。
けれど、幻獣だからという理由を盾に、アランを突き放すことは、彼女はしたくない。
そのため、彼が求めていない言葉かもしれないが、思ったことを素直に話す。
『ステラの言葉が信じられないのは、アランが弱いからよ。でも、弱いのが悪いんじゃないのよ。弱いことを知ってもなお、立ち上がれるなら、それでいいの』
「ステラは……ルカやレティシアが変わったと思うか?」
アランはステラに尋ねると、彼女が答えるのを待っていた。
だが、数秒の沈黙の後、ため息が聞こえると、泣きそうになって唇を噛み締めた。
その時、『……それは、ステラが答えて良いことじゃないでしょ』とステラのテレパシーが聞こえると、スーッとレイの方に視線を向けてしまう。
ルカの弟であるレイは、どう思うのか……それが気になった。
しかし、レイの「ボクはできれば答えたくない」と言った声が耳に届くと、少しだけ悲しくなって、胸を押さえてしまう。
胸の奥はどんよりと重く、言葉にできない感情や思いが渦巻き、言葉にできる部分だけ少し吐き出す。
「おれは……暗黒湖から出てきた2人が変わったと感じた。……だけど、その分……似てると思った……。おれが見てきた2人の本質に似てると思った」
ステラは前足をペロッと舐めると、アランとレイの2人を交互に見つめた。
2人を突き放すのも、否定するのも、肯定するのも簡単だ。
しかし……レティシアとの話を思い返し、アランに何を言えば良いのか……少しだけ悩んでしまう。
『……アランがそう思うなら、そうなんじゃない? 人は見たくない姿は見ないから、変わったと簡単に言える……人じゃないステラには、その感覚は分からないけどね。でも、ステラから見て変わったのは、みんなの2人を見る目だよ?』
「分かってる!! だけど、ルカが別人だと言ったんだ! ボクはそれを受け止めるしかないじゃん!!」
突然、レイの怒鳴り声が聞こえると、アランは驚いて彼の方を向いた。
レイの目には涙が溜まっており、鼻筋にはシワが寄って怒っているのだと分かる。
けれど、何が彼の逆鱗に触れたのか分からず、ステラとレイを交互に見るが、ステラが顔を背けると、合流する前に2人の間で何かあったのだと思った。
「おいおい……急にどうしたんだよ、落ち着けよ」
「ボクはどうしたら良いの? 2人がもうボクの知らない2人なら、ボクはどうしたら良いのさ!!」
アランは両手で頭を押さえるレイを見て、彼に手を伸ばすが、触れて良いのか……と悩んでしまう。
なんとか口から出た言葉は、「いや、だから……」と自分でも呆れる一言だった。
『これまでと同じだと、何がいけないの? 信じた気持ちも、記憶も、築いた時間も、2人は記憶にあるわよ? なら、何がダメなの? 何が違うの? 2人は、ルカとレティシアの何を見てきたの?』
ステラは冷たく言い切ると、モヤッとした気持ちを吐き出すように、深くため息をついた。
言いたいことも、伝えたいこともあるが、それは……ステラが口を出して良いことじゃないと彼女は理解している。
そのため、大きく息を吸い込むと、2人を見ながら尋ねる。
『……2人は……ルカとレティシアに人形でいてほしいの?』
「あー。そういうことか……やっぱおれはダメで、やっぱりいてぇよ……」
アランが額を押さえてしゃがむと、レイは首を左右に振って尋ねた。
「意味が分かんないんだけど? ボクにも分かりやすく言ってよ」
「……おれ、信頼は相手が変わらない限り、本質も変わらないものだと思ってた。だけど……ルカやレティシアが変わったと感じた時、本質は昔の2人なのに……信じて良いのか分からなくなった。それでもさ……信頼って積み重ねだろ? なら、その本質はどうやっても崩れない。信じたいおれの気持ちも、無駄じゃないし、信じたいと思うのも弱さじゃない」
アランは淡々と考えを述べると、思わず自嘲気味に笑ってしまう。
「むしろ、信じるのには強さが必要だ。おれは、この強さだけがあればいいと思ってた」
そして、アランはポケットから通信魔道具を取り出すと、そっと表面を何度もなでて続きを話す。
「だけど……ルカは、ずっと裏切られても受け止める強さを持てって言ってたんだな……信頼と裏切りは、紙一重だから……、そんで、信じるのは、弱い心を相手に預けないとできないから……。ずっとずっと……ルカとクライヴは、おれに弱さを見せてくれてたのに……おれは……」
レイはアランの言葉を聞き、胸が締め付けられ、堪えていた涙が溢れた。
「ボクだって……こんな醜い気持ち……ルカに、預けたかった……でも、ルカがボクを恨んでいるかもしれないのに……できるわけないじゃん……それなのに……それなのに……追い駆けてたルカはいないんだって言われて……ボクはどうしたら良いの……」
ステラは息を吐き出すと、2人に手を差し伸べるべきか悩んだ。
記憶を失う前のルカは、ステラから見て2人が考えているよりもずっと弱く、今にも崩れそうなほど繊細で脆かった。
それを理で縛り、自分の感情すら切る捨てる覚悟を持った人だった。
たとえ、人格が変わろうとも、積み重なった記憶が今の彼を形作っている限り、彼の本質は変わることは早々ないのだろうとステラは考えている。
それでも、絶対とは言い切れず、いろいろと考えて、スーッと腰を浮かした。
『……レイ、確定していない事実に怯え、何もしないのは、ルカのことを本気で考えていない証拠よ? どうすべきかは、あなたが答えを出しなさい。少なくとも……昔は答えを出したのでしょ?』
ステラは言い切ると、レティシアに呼ばれた気がして、その場を離れ始めた。
チラッと振り返ると、アランが宥めるようにレイの頭をなでているのが見え、軽く笑みが零れた。
正直なところ、ルカもレティシアも本質的には、変わっていないとステラは思っている。
しかし、人格が変わっていないと言い切って良いのか、彼女には分からない。
結局のところ、見る人が違えば、見え方が変わる。
ただ、それだけのことだと、彼女は結論付けた。




