第194話 仮面の下で忠犬は背中を向ける
一方、宴に顔を出していたアランは、話が途切れると塔の方を見上げ、深くため息をついた。
耳に届く音は遠くに聞こえ、最上階でルカとレティシアがなんの話をしているのか、気になってしまう。
けれど、レティシアに関係ないと言われたことから、深くは踏み込めず、胸にはモヤッとした気持ちだけが膨らむ。
(おれは何がしたいんだろうな……)
自問自答していると、気持ちが一瞬だけ沈みそうなる。
それでも、気持ちを切り替えようと、息を吸い込んだ瞬間、ふと肩をたたかれ、条件反射で後ろを向いた。
「アラン、体調が悪いのか?」
「あ、いや、そういう訳じゃない。なんでもない、大丈夫だ」
クライヴは、振り返ったアランの顔を見て、彼が無理に笑っていると思った。
アランが仮面をつけように笑うのは、知り合った時から何も変わっていない。
王子だから……半分竜人族だから、半分人族だから……アランは色んな所で色んな言われ方をする。
弱みを見せないのも、素を見せないのも、命を狙われてきた彼が、生き延びる術だった。
そのことを理解しているのに、クライヴはどうしても素のアランでいてほしいと願ってしまう。
そして、素の彼で入れられる場所が、今の彼の表情を曇らせているのも理解している。
「……レティシアのことで悩んでるの?」
クライヴの声は淡白で、宴で賑わう広場の空気を、静かに濁していく。
笑みが浮かんでいたアランの表情からは笑みが消えていき、彼らの周りにいた魔族がチラチラと2人に視線を向けている。
そんな中で、前髪を書き上げたアランが、辺りを見渡して息を吐き出した。
「クライヴ、ちょっと腹を割って話そうか」
アランは歩き出すと、クライヴの肩をたたいて冷静に言った。
レティシアの名前が出たことで、周りにいた上級魔族たちが、聞き耳を立てているのも空気で分かる。
吸い込む空気は重く、クライヴの横を通り過ぎてからは、前へと踏み出す足まで重く感じてしまう。
それでも、ゆっくり話せるような場所を探し始め、賑わう広場から遠ざかって行く。
赤いアランの髪は、歩幅に合わせて弾み、風が2人を追い越すように吹き抜けると、後ろで束ねた赤い毛先はアランを追い越す。
わずかな音を立てながら、草花はその身を振り子のように揺らし、風に身を任せている。
2人の足音は静かで、広場から離れているのに、まだ広場から聞こえる音の方が大きい。
数分ほど歩き続けると、次第に彼らとすれ違う上級魔族も、指折り数えられるほどに減っている。
さらに進んで行くと、少し開けた場所に木製の長椅子があり、その前でアランの足が止まった。
「お前は、レティシアをおれのパートナーにしたいんだろ?」
沈黙を破ったアランの声は、どこか奥行きがなく、淡白で淡々としていた。
それに対し、クライヴは深くため息をつくと、右手で後頭部をかきながら口を開く。
「そうだけど? 今さら、それがどうしたんだよ」
アランはクライヴの声を聞き、静かに目を閉じると、下唇を滑るように噛んだ。
言葉にできない思いが胸を支配し、目を開けても視線を足元に移してしまう。
それでも、短く息を吐き出して心落ち着かせようとしても、気分は変わらず、すぐに大きく息を吸い込んだ。
そして、空に視線を向けると、肩の力を抜きながら長く息を吐き出す。
「おれは……レティシアに決めてもらえば良いと考えてる」
「知ってるよ? でも、何もしないのは違うんじゃないのか?」
クライヴはアランの背中を見ながら答えると、少しだけ視線を下げた。
アランの言葉は初めから想像していたが、だからと言って今さら後には引けない。
尻尾は下がり、小さく左右に揺らすが、アランの背中に視線を戻すと、尻尾は完全に動きを止めてしまう。
「彼女が……レティシアが暗黒湖に行く前、おれは彼女から距離を置きたいと言われた」
一瞬だけクライヴは、アランの発言に驚いて目を大きく開けた。
だが、すぐに驚きは小さな怒りに変わり、拳を強く握りしめると、尻尾の毛が少しだけ逆立った気がした。
けれど、拳を握る手をゆっくりと広げ、尻尾を軽く左右に振って話し出す。
「それで? だからどうしたんだよ。そんなことを気にして、何もしてないのか?」
「ああ、そうだな。おれは、彼女の意志を尊重した」
アランは数秒の間目を閉じると、胸の奥でモヤッとしたが、分厚い雲を見ながら冷静に答えた。
けれど、背後でザッと踏み込む足音が聞こえると、息を吸い込む度に胸の辺りは重くなっていく。
粗方、クライヴから何を言われるのか想像できてしまい、吐き出す息も深くなる。
「んで? 暗黒湖から帰ってきた彼女が別人だと感じたから、僕には何もするなって?」
「……いいや、そもそも……おれはきっと彼女を恋愛感情では見てないんだよ。レティシアの居場所になれれば良いと思うが、それは彼女が望めばだ」
間を置きながらアランは淡々と話していたが、逆に拳を握ったクライヴは鋭い目つきをアランの背中に向けていた。
そよそよと吹く抜けた風は、わずかに2人の髪をなびかせ、近くにある花壇の草花を揺らしている。
「違うね。アランはルカとの友情を気にし過ぎて、踏み込めないだけなんじゃないのか? ルカ自身、人格は別だって言ってただろ? それなら、アランと友情を築いたルカと今の彼は違う。だったら、彼女に対する思いは、今の彼にはもうないだろ。なんで、気にする必要があるんだよ」
アランは咄嗟にクライヴの発言に反論ができず、唇を噛み締めた。
クライヴの言っていることが、完全に間違っていれば……と思う程に、彼の発言は胸に突き刺さる。
それでも、これまで見てきたルカの思いをなかったことにできず、喉の奥は焼き付くように痛む。
「……別人だと感じた……でも、初めてルカと会った時をおれは思い出したんだよ。あの時のルカも、妙に冷たくて……踏み込めない距離があった」
クライヴは奥歯をギリッと鳴らすと、抱いた気持のまま「それがどうしたんだよ!」と大きな声を出した。
アランの優しさも、誠実さも知ってはいるが、だからといって……全ては受け入れられない。
「彼女に手を差し伸べて、彼女やルカが変わったから、手を引くのか? 彼女が傷付くのを見たくないんじゃないのかよ」
「ああ、レティシアが傷付くのは見たくない。でも、彼女は傷付いても、1人で歩ける……」
アランは吐き出すように言うと、手のひらを見つめた。
幼い頃に繋いだレティシアの手の温もりも、リスライべ大陸に来てから繋いだ手の感触も、素でいられた時間も……何ひとつ忘れていない。
しかし、暗黒湖に向かう前、レティシアの手を掴んだ時、明らかに彼女の手は強張っていた。
結局、過去のルカを思い出すから距離を置きたいと言われ、彼女が命を落とす可能性もあることも教えてもらえなかった。
その結果、彼女が1人で悩む後姿しか見守ることしかできず、それでも彼女は確かに1人で進んだ。
「言い訳を並べて、アランが失いたくないだけなんじゃないのか? 彼女に手を伸ばす度に、彼女が離れていった時のことを考えてんだろ?」
「……ああ、考えてる。昔から、彼女は隣に居るようで、遠くを見つめていて隣に居なかったからな」
目を閉じながらアランが淡々とした様子で言うと、クライヴは深く息を吐き出して頭をグシャグシャにかいた。
雨の匂いを運ぶような風が吹くと、草花は大きく揺れ、少し離れた場所にあった木々はざわざわと音を立てる。
数分の沈黙がその場を支配し、2人に動きが見られなかった。
だが、抑揚がない「彼女のことは好きじゃないのか?」と言ったクライヴの声が、突如静かに広がった。
「レティシアは……友達だ。慈愛のような感情がない訳じゃないが、それは恋愛感情とは違うだろ」
アランが言い切った次の瞬間、「はぁああ……」と深いクライヴのため息が響いた。
「だからどうした? そもそも、一度現れた番を失ったアランは、他の人に恋愛感情は抱けない。これは、半分だろうと竜人の血を引くアランには、絶対に変えられない。それなら、慈愛でも傍にいてほしいと思う人の、傍にいてもいいんじゃないのか? それで、支えてあげればいいだけだろ? 僕は間違ったことを言ってるか?」
アランは答えるために振り返ると、首をかしげているクライヴが視界に留まった。
そして、一瞬だけ顎を上にあげるのを見て、『どうなんだよ?』と問われた気がして、眉間にシワを寄せてしまう。
「ルカは彼女のことが好きだったし、彼女もルカに気持ちがある。――長年、思いをひた隠しにしてきたルカを見てきたからこそ、お前が考えてるように簡単じゃないんだよ」
クライヴは鼻で笑うと、思わず右手で額を押さえた。
あまりにも呆れすぎて視線は下がり、ぐちゃぐちゃの感情が爆発してしまいそうだ。
ルカの気持ちも、レティシアの気持ちも、どうだっていい! アランの気持ちが一番大事だと、言えたらどんなに楽か……とすら考えてしまう。
それでも、言えない気持ちを胸の奥に仕舞い、前髪をかき上げながら顔を上げると、片眉をつり上げ、皮肉を込めて口を開く。
「簡単だろ。彼女は1人しかいないんだ。アラン……僕は君の側近だ。だけど、同時に君の友だ。アランを支えるのが役目だし、間違いを正すのも役目だ。そして、アランの背中を押すのも……あの日から僕の役目だ」
アランはクライヴの言葉の裏に、誓約の存在があるのだと分かった。
誓約を結んでいるからこそ、様々な思いを呑み込んで、言葉を選んでいる。
それでも……裏切ることができない存在も傍に置くべきだと、理由も含めて教えてくれたのはルカだ。
「分かってる。だから、側近にお前を選んだ」
「それなら、ちゃんと向き合えよ、彼女と。……距離を置かれたくらいで、うじうじ悩むな。エルガドラ王国の王太子なんだからな」
クライヴは冷たく言うと、「王太子か……」と呟いて視線を下げたアランを静かに見ていた。
そして、遠い記憶を脳裏で思い返していた。
アランの番が亡くなったと知った時、彼は無意識にアランの立場を考えた。
このままアランが国王になったら、子が必要になるけど……妃になれるのを喜ぶ女性は、どのくらいいるんだろう……と考えた日もあった。
会うたびに、仮面の付け方が上達し、香る匂いまで偽るようになった友人を怖く思う日もあった。
そんな日々に、光を届けてくれたのはレティシアだ。
1人で歩ける彼女だから、アランが素でいれられるのだと分かり、彼女が番の生まれ変わりだったら……と願った日すらある。
けれど、そうじゃないと知っているからこそ、アランが動くのを待つしかないのだとも、クライヴは理解している。
「……レティシアにとっては、王太子という肩書も価値がないんだけどな」
アランは自嘲気味に言うと、クライヴに対してニッコリと笑って見せた。
次の瞬間、彼の表情を見て傷付いたのだと分かったが、「仕方ないだろ? 事実だ」と困ったように言って笑う。
「どうだろうな。少なくとも、僕が見た限り、彼女はアランに対して恋愛感情は抱いてなくても、アランのことを大切な存在として思ってるように見えたよ」
「大切な存在か……」
クライヴは消えてしまいそうな呟きを聞き、重い胸を息で膨らませ、少しでも気分を軽くしようとした。
しかし、視界がわずかに滲み、尻尾は下がって左右に揺れる。
再び胸が重くなっていくと、そのまま今の考えを述べる。
「そもそも、恋愛感情は必要か? 互いを大切に思い、尊重し合ってれば、問題ないだろ?」
アランはクライヴの言いたいことが、痛いほど分かった。
喉の奥が少しひりつき、空に視線を移すと分厚い雲が動かずに漂っている。
思わず大きく息を吸い込み、「分かってる。分かってるさ」と笑って言うと、喉の奥は更に焼き付く。
「もう、おれはそれでしか伴侶を決められないのも、理解してる。おれが心から信頼してるレティシアを、お前が妃と考えるのも納得できる」
「それなら……」
弱げなクライヴの声を聞き、アランはハッキリさせないとな……と密かに思った。
「それでもだ。おれはレティシアやルカの気持ちを踏みにじりたくない。誠実でありたいんだよ……2人がおれに対して誠実だったように……だから、彼女が距離を置きたいと言えば、従いたい」
「あの2人が誠実? 2人の気持ちを踏みにじってない? どう考えても、あの2人はアランの気持ちを踏みにじってるだろ!! アランの気持ちも知らずに、あの2人はアランから距離を置いてる! あの2人の、どこが誠実なんだよ!! 良く考えろ!」
クライヴは言い切るのと同じタイミングで、空気を引き裂くように勢いよく右手を横に振った。
「言いたいことは分かる。だけどさ……おれは2人が恋愛感情で悩んでたのも、知ってるから……今さら……おれからレティシアにルカと結ばれないなら、おれとの将来を考えてくれとは言えない」
「何だよそれ……」
アランはどこか肩を落とすクライヴを見て、「悪いな……」と素直に思ったことを呟いた。
しかし、彼が口を開くのを見て、いつものように笑って続きを話す。
「だけど、おれは2人のことが大切なんだ……2人の中で、おれが過去になってもな」
「……誠実でありたいなら、逃げんなよ。2人が大切なら、2人の間にも踏み込めよ……」
クライヴは拳を握りながら言うと、分かってくれないアランをキッと睨んだ。
「僕は、先陣を切って敵に立ち向かうアランを支えたいわけで、誰かの後ろに隠れてる奴を支えるつもりはない」
クライヴは一息で言い切ると、アランから顔を背け、レティシアとルカがいる塔を睨み付け歩き出した。
鼻先をわずかに動かし、空気の流れから2人の匂いを嗅ぎ分ける。
どんなにアランに言ってもアランが変わらないなら、アラン以外が変わるしかない。
なんでもやれる、何だってできる、レティシアが再びルカを好きになる前に……アランのためなら……、黒い感情が芽生えて心を支配し、思考が止まらない。
あいつさえ消えれば……と考え、思わず笑みが零れた瞬間、グッと刺されたように胸の奥が苦しくなり、その場に膝をついた。
鼓動が鼓膜を激しく叩き、息を吸い込むことも、吐き出すこともできない。
苦しい、うるさい、痛い、体の血液がはじけ飛びそうなくらいに感じ、胸を押さえる手もパンパンだ。
誓約が働いたのだと分かっても、クライヴにはどうすることもできない。
しかし、トンと急に肩を叩かれ、心臓は恐怖で大きく跳ねた。
「一瞬でも、おれの意志を裏切るようなことを考えただろ? 次は裏切りとみなし、そのまま死なせるぞ」
凍りつくような冷たいアランの声が、クライヴの耳にしっかりと届いて体が楽になった。
それでも、足には力が入らず、短く息を吸い込み、遠ざかって行くアランの背中を見つめることしかできない。
溢れた雫が頬を濡らし、完全にアランの背中が見えなくなると、拳で地面を力一杯何度も殴った。
「クソッ! クソックソッ、クソッ!! ……僕は何を考えてるんだ! 本当のバカだ……」
クライヴは血が垂れる手を見つめながら、初めてアランと約束を交わした日を思い出していた。
「アラン、君の大切な者を僕が護るよ。だから、大切な人を増やしてもいいんだよ! ……そうだな、今は君と君の番は僕が一生守るからね」
幼い頃の思い出が胸を締め付け、守れなかった命と約束が重く圧し掛かる。
「今度こそ……今度こそ、君が増やした大切な人たちを……ちゃんと護るから……」
クライヴは空に向かって呟くと、声を押し殺して涙を流した。
幼い頃の約束は、半年もしないうちに破られた。
それは、幼かったクライヴの心にも深い傷を残した。
しかし……クライヴは誰にも言えないことがある。
それは、アランの番がいなくなった日、泣きながら助けを求める番に顔を背け、幼かった彼は恐怖に支配され、アランの番を助けもせずに逃げだしていることだ。
それから、クライヴは見殺しにしたアランの番の顔を、一度たりとも忘れたことがない。
その後、番の亡骸が見つかった日を境に、アランは大切な者を作らなかった。
だが、暫く経ってからルカが現れ、レティシアが現れ、アランの大切な者は増えていった。
そして、狼獣人として、クライヴはアランと再び約束し、誓約を交わして側近になったのである。
『おれの大切な人を護って、クライヴ』
そう言って笑ったアランの顔を思いだし、クライヴは自分がしようとしたことに、胸が苦しくなった。




