第192話 沈黙の中で香る紅茶は揺れる
神歴1504年8月24日。
帝都オーラスの空には、所々にうろこ雲が漂い、それを青空がほんのりと染めている。
街は活気に溢れ、夏の風が抜けるたび、活気を冷ますかのように、影の下にひんやりとした気配が流れ込む。
沢山の並ぶ通りでは、様々な香りが広がり、香料商の店先では、少年と少女が花弁をひとつずつ、かごにそっと入れている
時折、香料商の前を、「まあ、いい香りね」と声を残しながら、女性たちは足を止め、子どもにひとこと笑いかけてから店内へと入っていく。
パンッパンッと空の方で音が鳴ると、足を止めた人々の視線がヴァルトアール城の方へと向けられた。
その瞬間、勢いよく風が吹き抜け、かごの中から煽られた花弁が、ひらひらと上空へ舞い上がっていく。
その頃、ヴァルトアール城の庭園では、貴族の令嬢が本日の茶会のために集まっていた。
各テーブルの上空には、淵に花の縫い取られた薄布が魔法によって静かに浮かんでおり、揺れることなく日差しを遮る。
それぞれのテーブルには、三段の銀のスタンドに一口サイズの茶菓子が並び、爽やかな紅茶の程よい香りが広がる。
しかし、各席にいる令嬢たちの表情はどこか固く、4月に開かれた時と比べて話し声は小さい。
令嬢たちの顔ぶれも以前と変わりはなく、空席が一つあるのも前回と同様だ。
けれど、前回と違うのは、令嬢たちの視線が空席に向けられていることだろう。
「また、あの席が空席ということは、殿下たちの婚約者が選ばれるのは、また先送りかしら?」
ヴァネッサ・ソフィー・リュイノール公爵令嬢が扇子で口元を隠しながら言うと、シルヴィー・ドゥ・グラグレット公爵令嬢も扇子で口元を隠した。
「まぁ、ヴァネッサ様、今回は意見が合いますね。私も同じことを考えていたところですわ」
シルヴィーがサラッと返答すると、同じテーブルに座る他の令嬢たちが、小さく息を吐いた。
薄っすら湯気が立つカップに、誰一人として手を出している者がいない。
「あらあら、シルヴィー様、それは奇遇ですわ。――それよりも、私が贈ったアクセサリーを着けてくださったのですね」
柔らかく細まった目元をしてヴァネッサが言うと、シルヴィーはペンダントにそっと触れる。
「あら、ヴァネッサ様も、私が贈った髪飾りを着けてくれているではありませんか」
ヴァネッサは「素敵でしょう」と言いながら、薄いピンクの縦ロールを手で揺らすと、髪についた装飾品がキラキラと輝く。
シルヴィーがクスと笑うと、つられたようにヴァネッサがクスクスと笑い出した。
2人を皮切りに、各テーブルでも徐々に令嬢たちの顔に笑みが見え始めた。
しかし、それでも誰もカップに手を伸ばす者はいない。
そんな中、マデリン・ル・ティヴァル公爵令嬢はカップに手を伸ばすと、カップに口を付けた。
けれど、一口含むとカップを置き、ハーフアップにまとめたブロンドの綺麗な髪に指を掛け、ゆっくりと髪飾りを外す。
橙色の瞳は細まり、わずかに微笑むと、空席の方に視線を向ける。
(あなたは、元々茶会に参加しないと仰っていましたが、本当に来ませんでしたね……この事態を、皇家がどうするのか、見ものですわね……レティシア様)
マデリンは再びカップに手を伸ばし、香りを楽しむとカップを傾けて一口飲んだ。
空席に座る予定だったレティシアを想えば、多少の寂しさは募る。
しかし、レティシアの事情を知っている優越感が、彼女の心を静かに満たす。
暫くすると、伝令官が登場すると、一斉に令嬢たちは伝令官の方へと向いた。
少女たちの口元は扇子で隠されており、庭園にはそよ風が流れる。
伝令官は辺りを見渡すようなそぶりを見せた後、皇帝と皇后の入場を伝えた。
皇帝は堂々と歩き、肩に掛かっている赤いマントは、優雅に微かに風になびく。
皇后であるエミリアが着ているドレスは、裾に向かうにつれ水色に変わり、銀の糸で花の刺しゅうが施されていた。
そんな2人から少し離れた場所を、ベラトル・アドガー伯爵が護衛として歩いている。
皇帝と皇后が椅子に座ると、続けてバージル皇子とルシェル皇子の名が呼ばれた。
バージルは淡いピンクの服に、栗色の花が胸元についている。
そして、ルシェルが登場すると、令嬢たちの視線は釘付けになった。
ルシェルの白い服の襟元や袖口には、金とシルバーでできた杢糸が使われており、胸元には青い花がついていた。
「本日は、我が国の未来を形づくる場に、ようこそお集まりいただいた。天候にも恵まれ、我らが2人の皇子が、歩みゆく先を共にするにふさわしい者を……この中から選ぶとしよう。……しかし、残念ながら光と闇の均衡が崩れ、その対応に追われ、今回も全ての席が埋まっているわけではない。だが、我は席の有無よりも、その場に何が残るかが大事であると考えている」
皇帝であるロッシュディが言い切ると、その場は少しのざわつきが広がった。
何名かの令嬢は空席の方を向いており、ヴァネッサはバージルの方を向いて「最悪ですわ」と呟いた。
そして、近くにいたシルヴィーの視線は、バージルとヴァネッサを何度も往復している。
「光と闇の均衡が戻ることを、我は願っておる。――では、早速だが、バージル・ド・ヴァルトアールの婚約者候補の発表だが……ヴァネッサ・ソフィー・リュイノール! バージルともにヴァルトアール帝国を頼んだぞ」
ヴァネッサは皇帝が堂々とした態度で告げると、咄嗟に下を向いてドレスを握りしめた。
声を出さないために唇を噛み締めたが、小刻みに揺れる手には一粒の涙が零れ落ちる。
短命の皇子に嫁ぐ意味を、公爵令嬢なら理解していて当然だ。
この先のことを思えば、ヴァネッサは目を閉じて歯を食いしばった。
「続けて、ルシェル・テオ・ド・ヴァルトアールの婚約者候補の発表……と言いたいところだが……アルフレッドが皇位を主張してくれたことから、ルシェルの婚約者候補の発表は待ってくれとの声が多数の貴族から上がった。これについては、全ての貴族が把握していないことも、少なからず影響していると考えてもらって構わない。また、アルフレッドが皇位を主張してくれたことは、帝国の未来を見据え、自らの志を示す者が増えたことを喜ばしく思う。――だが、同時に皇位を主張したことから、アルフレッドの伴侶も選ばなければならなくなった」
皇帝であるロッシュディは、一旦話を止めると、会場の中を一度見渡した。
令嬢たちの顔を眺め、彼女たちの反応の有無を確かめる。
令嬢たちの中には、俯いている者や、戸惑っている様子の令嬢もいる。
しかし、呑気に茶を飲んでいる令嬢や、口元を隠しながら欠伸をしているような令嬢もいる。
そのことに、内心では呆れたが、表情には出さずに、彼は続けて話す。
「そこで、アルフレッドと年齢が同じルシェルは同時に発表すべきだと、議会で何日にも渡って議論があった。そのため、改めてルシェルとアルフレッドの婚約者候補を1から選定しよう。その間、令嬢たちの中に、婚約したい令息がいる者は、次に我が主催する茶会までに婚約の届を出してほしい」
会場に一瞬のどよめきが流れたが、ロッシュディが咳ばらいをすると、警備を任されている騎士たちから、カチャという音が鳴った。
すると、どよめきは徐々に収まり、笑みを浮かべたロッシュディの口が開く。
「最後に……貴族の中には、『どこぞの家が“独立”を考えている』という根拠なき噂に驚され、帝国の在り方を根本的に揺るがしている者たちがおる! これは、由々しき事態であり、帝国民の1人として、誠に遺憾である。しかし、この場に集った者たちの中に、浅はかな思惑を抱く者などおらぬことを、我は信じている。けれど、残念なことに、“自らを律するだけ”では、もはや足りぬ時代だ……そのことも、忘れないでほしい。――さぁ、茶が冷める前に、茶会を進めようではないか。皆の者、楽しんでくれ」
マデリンは皇帝の話を聞き、扇子で口元を隠すと、口角がわずかに上がった。
(ヴァネッサ様が選ばれたのは、駒だけではなく、皇家の威厳でしょうね。しかし、同時に貴族たちへの牽制かしら? どちらにしろ、統率者としては間違っていませんが、皇帝としては……指揮を執ったことがない私には、分かりませんわ)
カップを手に取ったマデリンは、冷静に目に映る範囲で、辺りを観察した。
令嬢たちの中には、口元を隠しながらも、隣の令嬢に「どうしよう」と小声で話している者の声が、注意深く耳を澄ませた彼女の耳に届く。
帝国の暗黙の掟を知る令嬢が、この中にはどれほどいるのかすら興味が湧き、思考は止められない。
(掟が他家でどのように扱われているのか、知る術がない中、陛下は立派にやっているとお父様も評価していましたが……改めて皇帝陛下の発言を聞いた限り、彼の行動に制限を掛けているのは、明らかに初代皇帝が定めた掟の存在ですわ。――本格的にフリューネ侯爵家とオプスブル侯爵家が政治に首を突っ込まなければ、変えることすらできない……掟……。難しいですわね、帝国民は掟を捨てられないからこそ、フリューネ侯爵とオプスブル侯爵が、帝国政治に首を突っ込まれたくない。ともなれば、皇帝も良くこの場でルシェル派の意見を通さなかっただけ、まだ聡明ですわ。伝令官の行動で、レティシア様の不在が分かり、すぐさま発言の内容を変えたと考えれば、高く評価しますわ)
マデリンはそう思いながらルシェルに視線を向けると、ゾクリと冷たい何かが背筋を走った。
瞬時に視線を逸らし、カップの方に視線を向けるが、遠くから足音が聞こえてくると、ゴクリと無意識に喉を鳴らしてしまう。
足音は通り過ぎず、段々と近付くに連れ、マデリンの鼓動は早くなる。
首に手をかけられたように、席を立つことも、この場から逃げることもできない。
しかし、足音がすぐそばで止むと、マドリードの喉は渇き、心臓の音が耳まで届く。
「やぁ、マデリン・ル・ティヴァル公爵令嬢。緊張しなくていいよ?」
一瞬、マデリンは息を呑み込んだが、教わったように笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、ルシェル殿下」
「ここの席の令嬢は、今日も来てくれなかったんだ。今日、僕は彼女の名を呼びたいのに……」
ルシェルはマデリンの様子を見ながら言うと、わずかに彼女の視線が動いたのを見て微笑んだ。
そして、「然様ですか……」と答えたマデリンの声に、戸惑いが交ざっていると感じた。
「彼女がどこに居るのか、君は知ってる……よね?」
「……残念ですが、私は何も知りませんわ」
マデリンはルシェルの問いに対し、心を落ち着かせて答えた。
だが、ルシェルの目が笑っていないことに気付くと、背中に冷たい汗が流れ、鼓動が騒がしいと思ってしまう。
「そうか……それは残念。君の言葉に嘘がないことを願うよ」
「分かることがありましたら、ご連絡しますわ」
微笑んでマデリンが答えたが、同じようにルシェルも笑みを崩さない。
「ありがとう。あ、それと……」
ルシェルは途中で言うのを止めると、笑みを浮かべたまま、一瞬だけマデリンに一瞬だけ視線を向け、彼女の様子を窺った。
そして、テーブルの上にある三段の銀のスタンドに手を伸ばし、ピックで茶菓子を掴んでマデリンの皿に置くと、彼女が気付くように短く息を吐き出す。
ビックと肩を震わせるマデリンを見て、ため息すらつきたい気持ちになる。
本来であれば、このテーブル並ぶ茶菓子もレティシアが食べたていた物だと考えれば、思わずマデリンの皿に置いた綺麗な茶菓子に向ける視線も冷たくなる。
「レティシアが君と繋がってることは、皇家は知ってるからね」
ルシェルはマデリンが黙っていると、彼女の皿に追加の茶菓子を乗せる。
しかし、左側にある空席に目を向けると、ギリっと歯を食いしばり、深呼吸してマデリンに話しかける。
「前回の茶会の時から、この空席がレティシアのだって君は知ってたんだろう?」
「……いえ、知りませんでした」
マデリンが答えた次の瞬間、ルシェルが鼻を鳴らした。
「おかしいな……君の父君は、ここに呼ばれた令嬢を把握している立場なのに?」
笑みを浮かべながら首をかしげてるルシェルとは対照的に、表情が固まったマデリンの視線は皿の方に向いている。
「そうですか……お父様とは、政治の話はしませんので……」
「まぁ、いいさ。今度、君の家にお邪魔するよ。話したいこともあるからね」
元の場所にピックを戻したルシェルが言うと、マデリンの顔がルシェルの方へと向いた。
「お言葉ですが、我が家はルシェル殿下を支持していません。そのため、ルシェル殿下は正面から我が家と敵対するおつもりですか?」
ルシェルはマデリンの顔を見ると、彼女の眉がわずかによっているのに気付きニンマリと笑う。
そして、頭をほんの少しかしげ、満面の笑みを浮かべる。
「あれ? 政治の話はしないんじゃなかったの?」
マデリンは咄嗟に顔を逸らしたくなったが、平然を装いながら口を開く。
「誰を支持するのか、誰を支持しないのか、それは政治以前の問題ですので」
背筋を伸ばして答えたマデリンと、無表情でマデリンの方を向いているルシェルの間には、暫しの沈黙が生まれた。
2人の周囲にあるテーブルでは、大きくはないが、令嬢たちの話し声や、わずかに食器のぶつかる音がする。
しかし、ふわっと笑みを浮かべたルシェルは、冷たく光りのない視線をマデリンに向け、右手を伸ばした。
「そっかそっか、レティシアにそう言えと教わったのかな? それとも、オプスブル家の知恵かな?」
ルシェルの右手がマデリンの肩に乗った瞬間、マデリンの目が見開いた。
けれど、彼女の視線が泳ぐ様子はなく、一点を見続けているようだ。
「どちらでもありませんわ」
ハッキリした声でマデリンが答えると、ルシェルの右手が二度上下に動いた。
そして、体制を変えた彼は、顔をマデリンの耳元付近まで近づける。
「そう、なら、僕の叔父であるライアン様?」
「ルシェル殿下、はっきり申し上げますが、ライアン様でもありません」
少女が言い切ると、ルシェルの手がある部分の布にシワが寄った。
ドレスの上部分が左肩の方に動き、ほんの少しだけ露出した肩は、擦れたかのように赤みを帯びている。
「でも、ティヴァル公爵はライアン様と仲がいいよね? そして、ライアン様はフリューネ侯爵と深くつながってる……僕が知らなかったとでも?」
冷たい笑顔でルシェルが言うと、マデリンが扇子をパッと広げた。
「ふふふ、他のご令嬢から聞いていましたが、ルシェル殿下は本当に自分の気持ちを伝えるのが上手な御方ですわね。しかし、勘違いをなさっているようですが、ルシェル殿下は皇子であって、まだ皇太子ではありません。そのため、私やティヴァル公爵家に何かをなさるおつもりなら、ご自身の立場が最も危うくなることをご自覚なさってはいかがでしょうか?」
まるで嘲笑うようなマデリンの声が止まった瞬間、ルシェルの表情から笑みが消えた。
そして、少女の肩から少年の手が離れると、わずかに彼女のドレスが下の方へ動く。
けれど、口元を押さえながらクスクスとルシェルが笑い出し、額を押さえて「なるほどなぁ」と呟いた彼の表情には、満面の笑みが浮かぶ。
「ははっ、そうだね。僕はまだ皇太子じゃない。でも、君こそ勘違いしてるんじゃない? 僕は聞いてただけで、敵対するつもりなかった。なのに、君の言い方は、まるで僕が何かするみたいに聞こえるけど?」
「それは安心いたしました。殿下にそのようなおつもりがないと伺えたのなら、こちらも無用な誤解を避けられて何よりですわ。――それよ」
「それは良かった。それじゃ、僕とも話した令嬢は他にもいるから、僕は席に戻るよ。君と話せたことで、いろいろと知れたしね」
笑みを浮かべてマデリンは話していたが、途中でルシェルがマデリンの言葉を遮った。
そのまま彼は、マデリンの肩を2回たたくと、笑みを浮かべながら踵を返して歩き出した。
けれど、その場に残ったマデリンは、扇子を閉じてわずかに俯くと、両手でドレスを握った。
その手は微かに震えていたが、暫くすると右手で左肩を擦っていた。




