第190話 闇の証明と赤いピアス
神歴1504年8月23日の早朝。
暗黒湖の上に広がる塔の中では、息を殺したかのように、皆が暗黒湖に繋がる階段を見つめていた。
塔の上空だけが晴れていた空は、再び雲に覆われ、まるで出口を閉ざしたかのようだ。
緊張を含んだ沈黙が漂う中、誰1人として口を開かず、唇を噛む者や、拳を握る者もいる。
階段の奥から、ほんのわずかな音が響き、その場にいる者たちの息を呑んだ音が重なった。
徐々に階段の奥から響く物音は、階段入口へと近づき、上級魔族の中には頬が緩んでいる者たちもいる。
けれど、魔族とは対照的に、段々と顔が強張っていく人族と獣人族の姿があった。
ゆったりとした動作で、ステラが動きを見せたが、彼女は階段の前まで移動すると、腰を落としてちょこんと座った。
階段下から吹く風に白い毛並みは揺れ、幻獣フェンリルの影が小さな体の背後に伸びる。
「アオオオォォォン……!」
沈黙を破るかのように、子犬の姿でステラが遠吠えすると、暫くして、階段の奥から一組の男女が姿を現した。
その瞬間、レイとアランが同時に駆け寄り、一歩遅れてニクシオンが動いた。
「……良かった……無事だったんだね」
涙の滲んだ声でレイが尋ねると、冷たい声で「そのようね」と言ったレティシアの声が響いた。
そして、姿を現したルカが、ため息交じりに続く。
「何をもって無事だと聞いてるのか不明だが、俺も、彼女も、健康状態に問題はない」
レイは拳を握ると、下を向いて唇を強く噛み締めた。
暗黒湖へと向かう前と、帰って来てたからのレティシアは、明らかに纏っている雰囲気が違う。
だが、どう違うのかハッキリと分からず、不穏な影が彼の心をざわつかせる。
そして、レティシアの隣に居るルカも、今までの雰囲気とはまるで違うと思った。
「レティシア……暗黒湖で何があったの?」
「何もないわ、何も」
アランはレティシアの突き放すような声を聞き、首裏を触ると深く息を吐き出した。
チラリとレイの方を盗み見ると、レイの手が震えていることに気が付き、首裏をかいていた手を下ろしたが、直ぐに反対の手で首裏を触ってしまう。
明らかに、レティシアの雰囲気が変わったことに、レイも気付いたのだと考えれば、喉が一気に乾いた気がした。
「……君は……誰?」
レイの声は震えていたが、一呼吸を置いたタイミングで、ステラが鼻を鳴らした。
しかし、ステラの口が開き、何かを話す前に、レティシアの口が開いた。
「私は私でしかないわ。それとも、レイは私が別の人に見えるの?」
「……それは」
「彼女の精神は俺が保証する。彼女は自我を保ったまま、暗黒湖から出てきた。これは、闇の精霊とも、見解は一致してるから問題ない」
レイの言葉を遮るようにルカの声が続き、その場には安堵にも似た空気が流れた。
ニクシオンの目元もわずかに緩み、小さく息を吐いた彼はルカの方に一歩踏む出す。
「それでは、ルカ様の記憶は無事に戻ったのですね」
「記憶は戻った」
短くも、発せられたルカの声は、曇りがないかのように響いた。
至る所で短く息を吐く音や、「良かった」と呟く声がし、笑顔を見せている上級魔族の姿もある。
「が、これまでの契約者の記憶が戻っただけだ。彼女にも話したが、俺はお前たちのよく知る人格ではない。お前たちの知るルカという人格の記憶が、鮮明にあるだけだ」
ルカが言い切った瞬間、カシャーンと音を立てて、その場は一変と姿を変えた。
笑っていた者の顔は凍り付いたように、口角を上げたまま目を見開き。
少し離れた所にいたオクターの足元には、割れたガラスが散乱している。
「やはり、手遅れでしたか……」
肩を落としたニクシオンが言うと、ルカは淡々とした様子で話し出す。
「そのようだな。だが、このまま帝国に戻っても、影響することはない」
「ほ、本当に……ボクたちが知るルカじゃ」
レイは泣きそうになりながらも話したが、続きが喉を通らずに言い淀んでルカの方を向いた。
しかし、ルカが鼻で笑ったのだと分かると、レイは何度も小刻みに息を吸ってしまい、流れ出した涙を止められない。
「ああ、そうだ。面倒だから、お前たちが望むなら、元の人格を演じてもいいけど……どうする?」
アランはルカが首をかしげて尋ねると、彼との距離を詰めた。
そして、怒りに任せて胸ぐらを掴み、グイッと持ち上げるように引き寄せる。
「ふざけるな!! 演じる? ルカをバカにするな!!」
掴まれた胸ぐらの方にルカが一瞬だけ視線を向け、短くため息をついた。
「勘違いするな。今の俺もルカだ。新たに人格が作られただけで、完全に別人ではない」
アランは、ルカが呆れたように言うと、更に服を掴んでいる拳に力が入った。
しかし、「いい加減にしろ」と低く冷たいルカの声が聞こえると、ルカに腕を掴まれた。
掴まれた腕は、ミシミシとわずかな音を立て、痛みで手の力が抜け、「うっ」と声を漏らしてしまう。
次の瞬間、手が払い除けられ、ルカに捕まれていた部分を擦ると、襟元を正すルカの姿が視界の大半だった。
「本当に……別人なんだな」
アランの声が響くと、ルカの深いため息が続いた。
「別人だが、全く別人ではない。お前たちとの記憶も、俺は持ってる。だが、どう解釈するかは、お前たちに任せる。だから、昔のルカとして振る舞ってほしいなら、そうすると言ってるだろ?」
「もういいかしら? 疲れたの。少し休みたいから、先に行くわ」
ルカが言い終わったタイミングで、レティシアは冷静に言い切ると、それ以上何も言わずに歩き出した。
しかし、少し進んで立ち止まると、ルカが右耳に着けている赤いピアスを一度睨んで、再び足を動かした。
一方で、レティシアを追い駆けたステラは、レティシアの隣を歩き始めると、少しだけ横目で正面を向いて歩く自分の主を見た。
姿や匂いなどからは変化が見られず、纏う雰囲気だけが変わっている。
雰囲気が違うことに対し、アランやレイが違和感を覚え、レティシア本人か気になったのも納得ができる。
だが、記憶の共有をしたことがあるステラは、これが本来のレティシアであるかもしれないと感じていた。
そのため、レイがレティシアに『君は誰?』と訪ねた時、思わず鼻で笑ってしまった。
けれど……これがレティシアの選んだ結果なのかと問われると、ステラは自身の中で答えが出せない。
『……レティシア、これがあなたの選んだ答えなの?』
不意にステラはテレパシーを使って訪ねたが、スタスタと歩くレティシアからは反応が見られない。
『ステラは、レティシアがいいなら、それでもいいけど……8年前……』
ステラはそこまで言うと、思考が詰まったように苦しくなった。
しかし、一息吐き出すと、覚悟を決めてテレパシーを送る。
『8年前……魔の森で見せたような無様な姿は、二度とステラに見せないでちょうだい』
レティシアはふと足を止めると、静かにステラの方を向き、小さな子犬を見下ろした。
『8年前、お母様が亡くなったと聞いた時、私は絶望を感じたわ。絶望に沈む闇の中で、仲間を守れなかった過去も、沢山の人を殺めた過去も、裏切られた過去も……救えたはずの命を見殺しにした過去も……関わった全ての人々の背景まで考え、私の行動が正しかったのか考えた。――結局、あの時は答えは出なかったけど……その後、亡くなったお母様のことを考えるうちに、初めて今世で母親から抱きしめられて、心配されて、怒られて、お母様の行動が、私に知識としての愛情ではなく、体験としての愛情を教えてくれたのだと分かったわ。自分のことをあまり深く考えてこなかったから……時間は掛かったけどね』
レティシアは右手を軽く広げて見つめ、暫くしてギュッと拳を握った。
『……でも、今はその愛情が私を苦しめ、様々な場面で迷わせる』
ステラはレティシアの言葉を聞き、喉の奥が熱くなるのを感じた。
好きという感情や知識で愛を知っていても、過去の転生でレティシアがたどり着けなかった感情だ。
8年前に記憶を共有したからこそ、ステラはレティシアが愛を知識ではなく、心で知ったのだと理解した。
だからこそ、迷いは生きている証だと、その迷いは愛ゆえだと、それが感情を持つものの宿命だと、伝えたい気持ちが胸を支配する。
けれど、喉まででかけた言葉は、レティシアの表情を見て静かに呑み込んだ。
『……これまでの私は、転生を繰り返すうち……人なのかも曖昧になったけど、どうにか人間であろうとした。今世でお母様から愛情を学んで、一時期は人になれたのかもしれない……それなのに、私は……暗黒湖の中で、愛情を捨てようとしたわ。だけど……どうしても……お母様のことを思い出して……ルカや、みんなとの記憶が頭を駆け巡って……私は過去の転生でしてきたように、感情を割り切れなくなっていることに気付いた。暗黒湖の中で問われ続けるうち、私の存在が自分で証明できないくらい、曖昧になったわ』
『それなら……結局、どう証明したの?』
レティシアは正面を向くと、軽く息を吐き出し、唾を飲み込んだ。
そして、ペロッと唇をわずかになめ、息を吸い込んでテレパシーを使う。
『……証明はできていない。ただ……人でありたいと望んだわ……私は、私でしかないと感じていても、私が人であると証明してくれる人はいないからね』
ステラは話を聞き、勢いよく走りだすと、レティシアの正面に回り込んだ。
『……ステラが! フェンリルであるステラが、レティシアを人だと肯定するわ!!』
『……ありがとう、でも、そういうのはいいわ……』
ステラは何度も首を横に振り、『良くない……』と呟き、レティシアをキッと睨んだ。
『良くないわ!! 言ったでしょ!? 2度とステラに無様な姿を見せないで!!』
ステラが言った直後、天井から見える空には稲光が走り、2人の影がそれぞれの足元に縮んだ。
そして、影が横に伸びると、鋭い目つきのステラとは対照的に、レティシアが鼻を鳴らした。
『勘違いしないで。――私は私を肯定するしかないと分かっているわ。だから、ステラが肯定する必要がないだけよ』
一瞬だけ、牙を剥き出しにしたステラは、項垂れるように頭を下げた。
『……それなら……ステラは、レティシアにとって何?』
『そう、ね、……私が人でありたい限り、ステラは私の使い魔で、大切な家族よ』
何も言えなくなったステラは、レティシアの目を見つめた。
夜空を思わせるロイヤルブルーの瞳は、微かに揺れ、胸が締め付けられる。
『……レティシア』
レティシアはステラに名を呼ばれて、微かに微笑んだ。
けれど、そのまま歩き出すと、緩んでいた口元はため息をつき、視界はわずかに滲む。
右手で鼻を軽く擦り、一息呑み込むと、顔を少しだけ上げて歩く。
一方、離れた場所でステラとレティシアを見ていたルカは、レティシアが歩き出すと鼻で笑った。
会話内容は一切聞こえおらず、口元を動かしていない様子が見られたことで、2人がテレパシーを使ったことも考えれば分かった。
しかし、目の前にいるレイとアランの方を見ると、深くため息をつきたくなった。
「俺も疲れてるんだ。そろそろ、俺も行っていいか?」
「レティシアも、ルカも、変わっちゃったの……?」
レイは数歩進むと、ルカに手を伸ばして袖を掴んで尋ねた。
だが、手を払い除けられたことで、親の影響でルカと距離を置いていた時のことを思い出した。
触れようとするたび、ルカに払い除けられた過去が今と重なり、当時見た冷たい視線が今の視線と混ざり合う。
「俺は俺だし、レティシアもレティシアだ。変わったのかは、お前らの解釈1つで見え方が違う。お前らは、本当に俺と彼女を見てたのか? 昔の彼女が何を考え、昔の俺が何を考えてたのか、お前たちは分かるのか? そして、お前たちは今の俺たちの考えが分かるのか?」
「それは……」
レイが言葉を詰まらせた様子で黙ると、深く長いため息が響いた。
「分からないだろうな。本人じゃないんだから当然かもしれない。だが、それで分かった気になって、変わったと彼女や俺を否定するのは、違うんじゃないのか? お前たちが、俺や彼女に何を求めてるのかは分からないが、俺はお前たちに何も求めてない。だから、演じるなと言うなら、俺がルカだと認めるしかないんだ。もういいだろ」
ルカが歩き出すと、これまで黙っていたアルノエは、スッとルカの隣に移動した。
そして、チラッとルカの方を見ると、小声で話し出す。
「ルカ様、少々お話がしたいこともございますので、お部屋までお供します」
「ああ、俺も聞きたいことがある」
ルカは淡々と答え、洋服の袖を丁寧に巻き上げた。
続けて、隣を歩くアルノエを一瞥すると、無表情で歩くアルノエを鼻で笑ってしまう。
「お前は変わらないな」
一瞬だけ、目を見開いたアルノエは、目元を細めてわずかに笑みを浮かべた。
「……それは良かったです」
「俺が話した内容にも、一切動じてなかった。なぜだ?」
ルカは反対側の袖を丁寧にまくり上げながら尋ねると、視界の端にアルノエを写したが、直ぐに正面を向いた。
「ルカ様とレティシア様は常に変化を続けてきましたので、いまさら驚きはしません。しかし、レティシア様のことだけは、記憶を失った時のように傷付けないでください」
「ああ、分かってる……それだけは、俺も避けたいところだが、彼女次第だろうな」
アルノエは短く息を吐き出し、「そうですか……」と答えてルカの様子を窺った。
横顔からルカの考えは分からないが、それでも暗黒湖に行く前のような迷いが感じられない。
そのことに安堵し、アルノエはわずかに頬が緩み、大きく息を吸い込んだ。




