第189話 存在の深淵で問う
レティシアは真っ暗な道を進む。
そこには、恐れも空気の重さも感じられない。
ただひたすら歩くが、心の中は穴が開いたように、少しばかり虚無感が存在する。
間違いではない……迷う必要もない……変えられないのなら、変わるしかない。
分かっているでしょ? と自分に問いかけて、息を吐き出した。
音もなく、上下感覚すら曖昧な空間は、心地よいとすら感じてしまう。
ふと、何気なくポケットに触れようと手を伸ばすが、寸前のとこで彼女の手は宙を舞って拳を握った。
思わず失笑が漏れ、目からはポロッと涙が零れ落ち、一瞬だけ頬をなでた。
右手で頬を触ると、冷たく濡れており、「ばかばかしい」と言葉が自然に溢れる。
その声も闇に消え、彼女は大きく息を吸い込み、軽い足取りで歩く。
しかし、長いことを歩いた彼女は、途端に足を止め、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
小さな黒髪の少年が膝を抱え、腕の至る所には切り傷が見える。
固く口を閉ざすが、ぽっかりと空いた心は、擦り傷が染みるように傷んだ。
鼻の奥がジーンと熱くなり、視界がわずかに揺れるが、彼女は目を閉じると深呼吸を繰り返す。
(迷う必要はないわ……彼は本物ではない……本物じゃない)
レティシアは瞼を開いて少年に歩み寄ると、静かに彼を見下ろした。
「あなたが居るということは、何かをさせたいのでしょ?」
レティシアの発した声は、闇に消えることなく響くと、少年の肩がわずかばかり上下に揺れる。
しかし、少年が顔を上げる様子は見受けらない。
「……君は何を求めるの?」
無機質な声がして、レティシアの眉間にシワが寄った。
「あなたは誰?」
どこか一歩引いた様子でレティシアが尋ねたが、膝を抱える人物はピクリとも動ない。
「……君は何でここに来たの?」
無機質な声は、淡々とした様子で尋ねるが、眉間にシワを寄せたままのレティシアは、「何をさせたいの?」と聞き返した。
「……君は……何者?」
奥歯をギリッと鳴らしたレティシアは、拳を握って短く息を吐き出した。
「――私は、レティシア・ルー・フリューネ」
「……君は……何をここに捨てたの?」
顔を上げない少年の声は、声色が変わることなく、紡がれる言葉は機械音に近い。
いま、少年がどんな表情をしているのか、彼が何を考えているのかすら、読み取れない。
それに対し、レティシアの眉間には深いシワが寄っており、握られた拳には力が入ったように見えた。
「それが、あなたと何の関係があるのかしら?」
「君は、迷い始めている。自分が人なのか……人とまだ呼べるのか……人であろうとしているだけなのか……君は……感情を消しても、本当に人なの?」
少年が言葉を発した瞬間、レティシアの瞼が大きく開き、胸部の上下運動が速まったかように見えた。
同時に、2人の周囲を満たす空間の色が変化した。
それまでの闇よりもさらに濃く、光を受けつけず、物体の輪郭すら曖昧になるほどの黒が広がっている。
「何が言いたいのよ?」
「君は、感情を消しても、本当に“誰か”になれるの? 今の君は……本当に“人”と言えるの? 君はさ……一体“何”?」
レティシアは足元がグラついたような気がして、足に力を入れて平衡感覚を意識した。
即座に答えようとしたが、喉は張り付き、思うように声が出ない。
しかし、短く息を吸い込むと、軽く唇を滑るように噛んで口を開く。
「……“何”でもないわ。私は私でしかないもの」
「ここに来た君は……我々から見たら、人の皮を被った、人ならざるもので、何ものでもないのだ」
拳を握っていたレティシアの手は、一度開かれると、服の裾を掴んだ。
彼女の手はわずかに震えており、一定のリズムで繰り返していた瞬きのリズムが早まっている。
「あなたたちは、誰?」
レティシアの声が響くと、クスッと笑うような声がして、少年はゆっくりとした動作で立ち上がった。
膝を抱えていた少年の顔は黒く塗りつぶされており、認識阻害の魔法とは明らかに違う。
認識阻害であれば、フィルターが掛かっている状態であり、彼のように顔の部分がぽっかりと空洞になってはいない。
ゆらゆらと立つ少年は、グルっとレティシアの方に顔を向けた瞬間、彼の周囲にある空気がわずかに震える。
「我々は、何ものでもない。――君は誰だ?」
無機質な声がして、レティシアの「……私は」という声が続いた。
歩き出した少年の足が地面に触れる度、ぐにゃりと地面が歪み、重なった輪が小さく広がる。
「人であろうとした者が、人というものを知り、人の根底を捨ててもなお……人だと……自分だと言えるのか?」
少年は、一歩でレティシアの近くに立つと、彼女の耳元に顔を近づけて囁いた。
そして、「私、は……」と少女の声がした瞬間、少年はレティシアから離れた位置に立っている。
「人の体を奪ってまで、人の根底を捨てた君に、人として生きる価値があるのかね?」
「私、は……体を奪ったんじゃないわ……」
俯いたレティシアが答えると、彼女の背中に寄り掛かった少年は訪ねる。
「なぜ、奪っていないと言い切れるのだ?」
「だって……初めから……私だったじゃない……」
震えた声でレティシアは答えたが、レティシアから離れた場所で、少年は軽く握った拳を顔の前に置いている。
そして、頭をかしげ「誰しも、そう答えるが……それは、本当にそうか?」と、無機質な声が広がった。
「……わからないわ。私が“誰かの体を奪って”生まれたのかどうかなんて、証明のできないし、それは確かめられない」
口をパクパクとさせた後、レティシアが答えると、少年は上下逆さまで、彼女の頭上に立っていた。
「なぜ、そう言い切れる?」
「確かめようがないからよ。誰かの体だったのなら、誰が彼女を知っているの? 生まれてもいなかったのよ? もし、仮に私が奪ったのなら、誰がその魂を肯定するの?」
服の裾を掴みながら答えたレティシアの服は、手がある位置からピンと伸びていた。
「なら、我々が君の体にいた元の魂を肯定しよう」
レティシアは一瞬だけ目を見開くと、額に手を当てながら、込み上げてきた笑いを堪えきれずに笑ってしまう。
顔を上げた彼女は、左右に目を動かし、少年の姿を探す。
けれど、少年の姿はなく、背後に居るのだと考えた。
そのため、振り返ったが、そこにも少年の姿がなく、頭上からクスッと聞こえると、思わず息を呑んだ。
移動した気配は明らかになく、頭上からも彼の存在は一切感じられない。
それでも、今は彼の存在を気にするべきだはないと考え、深呼吸を繰り返すと、落ち着て話し出す。
「そう、それなら、私はその罪に向き合うわ。そもそも、私が選んだ体じゃないけどね」
「どう向き合うというのだ? 愛情を捨てた君が、誰かを愛したかもしれない彼女の代わりに、どう償えるというのだ」
少年はレティシアから離れた場所で尋ね、少女は唇を噛み締めていた。
「……愛がなくても」
「それは、自己満足で、とても傲慢な答えだな」
少年の声は、まるでレティシアの言葉を遮るような形で、空気を震わせた。
相も変わらず少年の表情は存在せず、空洞とも言える黒く塗りつぶされた空間があるだけだ。
「私は私よ……私は私でしかないのよ」
拳を握ったまま俯いているレティシアから、か細い声が響いたが、間髪を入れずに「君は誰だ」と言った少年の声が続いた。
少しばかりの間が空き、「私とは誰だ。君は何ものだ」と無機質な声が響くと少年の頭は少しずつ傾いていく。
「改めて問う。君は人なのか?」
少年を中心にして無機質な声が広まっていくと、いたる所から「君は人なのか?」という声がこだました。
「……この人生のすべてを、私は“自分として”感じてきた。苦しんで、笑って、守りたくて……それが全部、私だった……」
レティシアの声はどこか弱々しく震えており、拳を握っていた手は胸に当てられている。
「……悩んで、……お母様から愛情を貰って……、人として生きてきたわ」
俯いているレティシアから一滴の涙が零れ、もう片方の手も胸に当てられると、彼女の姿勢が前かがみになった。
「……そうよ、愛を知ったわ……だから、迷うのよ」
レティシアの胸に添えられた手は服を掴んでおり、呼吸の合間に吐き出された声は、涙が滲んでいるようであった。
「知性ある生き物は、温もりを求める。それじゃ、今の君は何?」
暫しの沈黙が流れると、レティシアの上半身は勢いよく動き、前へと向けられた。
顔は涙で濡れており、服を掴んだ手は小刻みに震えている。
「人で……、私は、人でありたいわ……」
頬を伝う涙は、ポタポタと服を掴む手に落ちていく。
瞼が閉じられる度、ヒック、ヒックと彼女の声がほんのわずかに響き、闇へと溶けていくようだ。
「なら、迷うな。ここは、お前の闇ではない」
少年がレティシアの背後を指さすと、遠くの方に小さいな光が現れた。
袖で涙を拭ったレティシアは、踵を返すと振り返ることなく、少年が指差した方へと歩いて行く。
けれど、その場に残った少年は、暫くの間動かず、ずっとレティシアが進む方を指さしている。
段々と2人の間には距離が開き、少年を形作る輪郭は、徐々に何十にも重なってぼやけ始める。
しかし、相変わらず少年は光を指さし、歩いている少女は足を止めていない。
それから、「そうだ、思考し続けろ」と無機質な声はわずかに響き、まるで少年は少しずつ闇へと溶けるように姿を消した。
レティシアが光に向かって歩いている一方で、深く暗い湖の底付近で、ルカの目がパチッっと開いた。
口元からわずかに空気が漏れ、ポコポコと気泡が生まれると、ゆらゆらと左右に揺れながら静かに上昇していく。
彼の体は水中を漂うが、開いた目は左右に揺れる様子もなく、一点を見つめているようだ。
再び気泡が誕生し、暫くすると、気泡が向かった方向へと彼が泳ぎ始めた。
水をかき分けるように、手は前へと伸ばされ、飛ぶように膝を曲げ、足は勢いよく水を蹴っている。
上なのか下なのか、ハッキリとしない区間を抜けると、徐々に彼が進むんでいる方向の先に、薄紫色の湖面が姿を現した。
ばしゃっと水を弾く音がし、ルカの顔が湖面に現れると、「ぷはっ」と空気を求めるような息が続いた。
首を左右に振った彼は、方向を変えると、小島がある方へ泳ぎ始める。
暫くして、小島に辿り着いた彼は、陸に上がると、そのまま紫に光る木の近くまで移動した。
アンブクリスの側で横たわるレティシアの方を向く彼は、何も動きは見せず、短い時間眺めるように立ち尽くしている。
しかし、何の前触れもなくしゃがむと、鼻を鳴らして彼女の額に触れた。
「俺は闇の精霊と、過去に契約してた者たちの記憶と向き合ってたけど……お前は何にと向き合ってたんだろうな」
淡々した様子で囁いた彼は、ゆっくりレティシアの額に顔を近づけると、額に唇を重ねる。
そして、何度か彼女の頭をなでると、急に立ち上がり、口元を押さえて「何してんだ俺」と呟いた。
続いて、「お前には悪いことをしたな」と言うと、深く長い息をついた。
彼の足元には光すら通さない黒い影が存在し、片足を上げドンと音を立てて地面を踏んだ。




