第188話 淵に佇む魂の境界
「では、こう尋ねた方が良かったですか? 御二人が暗黒湖に入ったのは、真実を闇に葬りかったからと聞けば、満足でしょうか」
フェリックスは冷淡に話すレティシアを見て、関心のあまり「ほう」と思わず呟いた。
そして、俯いて微かに笑みを浮かべるが、直ぐに笑みを消して少女の方を向いて口を開く。
「子どもの割には、しっかりと周りが見えているのだな」
「戯言は結構です。質問にお答えください」
リディアは静かに目を伏せると、この少女は真実を知るまで、ここを離れないのだと理解した。
そのため、ゆっくりとフェリックスの手に右手を重ねると、彼に優しく微笑みかける。
「あなた……彼女まで私たちと同じになるわ」
「そうだな、本来なら……ここには誰も来ない未来を望んでいたがな……」
レティシアは向き合う2人をただ見つめ、フェリックスがため息をつくと、目を閉じて声が聞こえるのを待った。
耳を澄ませると、サワザワと木の葉が揺れる音は聞こえるが、肌を掠める風は感じられない。
それでも、2人が目の前から動いていないのが、気配から感じ取れる。
「私たちは、真実を闇に葬りたかったのではない。だが、外の世界に真実を残すのは、あまりにも危険だと判断した」
眉を顰めたレティシアの「どういうことでしょうか?」と尋ねた声が響くと、暫しの沈黙がその場を包んだ。
「事の始まりは、魔族が帝国民を襲ったことにある。その後、もう一度似た事件が起きた」
静けさを掻き消すようなフェリックスの言葉に、レティシアは一瞬だけ目を見開いた。
そして、テーブルの上で組んでいた手を解き、肘をついて口元の近くで再び指を組むと、彼の目に視線を向ける。
「はい、その事件に関しては既知しています」
「ならば、二度目の時に魔族が操られている可能性があると、私どもが言ったことは?」
淡々とした様子でフェリックスが話すと、レティシアは「それも、知っております」と答えた。
すると、フェリックスは頷き、隣に座るリディアの方を向いた。
彼女が微笑んで頷くと、左手に乗る彼女の手に右手を重ね、視線を少女に戻す。
「二度目の時に気付けたのは、一度目の時に違和感を覚えたからだ」
「どのような違和感があったのでしょうか?」
フェリックスを見るレティシアの目は厳しく、リディアは少しだけ恐ろしいと感じた。
現在のフリューネ侯爵であると考えれば、何ら不自然でもない。
しかし、見た目からして、まだ15~17の少女であることを考慮すれば、底知れぬ闇を抱えていると思った。
育った環境が原因なのか分からず、聞きたいと考えて口を開いたが、口を挟むべきではないと考え直し口を閉じた。
「魔族との交戦を初めてすぐ、手足を失っても、彼らは顔色一つ変えず向かってきたのに気付いたのさ。そのことに違和感を抱き、精霊たちに尋ねたら……『あの魔族たちは、いやだ』とハッキリ言われた。そのため、自ら確認するしかなかったが……」
「動かなくなった魔族からは、最初に感じた違和感がなくなっていたのですね?」
レティシアが尋ねると、フェリックスは息を呑み込んだ。
けれど、口を無一文に結んで目を閉じると、首を左右に振りながら、深く息を吐き出した。
「ああ、どうやら、同じことが繰り返されたのだな」
少しばかり目を伏せたレティシアは、親指で顎に触れた後、ふっと頭を下げ、額を指先に寄せた。
数秒間、そのままの状態でいたが、やがて顔を上げると下唇をなめた。
「いえ……私の知る事件は、魔族ではなく、魔物が使われました」
「なるほどな……。となると、我々の仮説は正しかったのだな」
フェリックスはリディアの方を向いて言うと、重くも短い沈黙が漂い、「そうなりますね」とリディアが答えた。
再び正面を向いたフェリックスは、右手でリディアの手を軽くたたくと彼女の手を握った。
「他に変わった事はないのか?」
「他と言われても……クローンの少年が現れたことと、私が幼い頃になりますが、人が結晶化する事件がありました。お母様も、結晶化して亡くなっています。少年の方からは、魔物から見つかった物と同じ物が見つかり、結晶化した者に精霊たちは近付きません」
考えるそぶりをしてレティシアが答えると、リディアはフェリックスの方を向いて、左手をフェリックスの手に重ねた。
「私たちが残したメモのページは読んだか?」
「はい、しっかり拝見いたしました」
淡々とした様子で答える少女を、フェリックスは芯が強い子だと思った。
しかし、本人すら気付いていない、危うさが少女に付き纏っているのだと同時に感じた。
彼女は強い……けれども、それだけではダメだと考えるが、この場で言ったところでどうしようもないのも分かっている。
だからこそ、彼女の目的である真実を、話すことに意識を向ける。
「何か違和感を抱かなかったか?」
「帝国にある資料と照らし合わせて考えるのであれば、この塔にあった1431年の事件資料は、帝国にあったのと一字一句同じ物でした。禁書庫にあった多くの資料は魔族視点で書かれていたのに、それはあまりにも不自然です」
「そうだ。だが、別の資料が昔はこの塔には存在していた」
レティシアは驚いて背筋を伸ばすと、思わず息を呑み込んだ。
けれど、直ぐに思考を始めると、あらゆる可能性を考え始めた。
そして、ある結論を導き出すと、息を吐き出して落ち着いて口を開く。
「別の資料が無くなったのは、2回目の事件以降でしょうか?」
「ああ、そういうことだ」
フェリックスの返答を聞き、レティシアは一度肩を落とした。
「誰が処分を命じたか分かりますか?」
「いや、それは分かっていない。それについては、ニクシオンも私どもに明かそうとしなかった。しかし、別の資料を作った者は、1470年に起きた事件で亡くなっている。無論、資料の作成に関わった者たちもだ」
レティシアは組んでいる手に額を押し当てると、息を深く吐き出した。
歴史の資料に主観や、様々な思惑が潜んでいることは、昔から知っていた。
そして、その背景では、消されてきた人たちがいたことも理解している。
そのため、結局、どの世界も同じようなものだな……と一瞬だけ呆れてしまう。
けれど……、だからこそ、彼らのような者がいるのだとも理解している。
「では、御二人が暗黒湖に入ったのは、事実を語るための手段を残したかった……ということでしょうか?」
「私どもが感じた気配を、精霊たちもいやがっていたからな。いつかはオプスブル家の者に何らかの異常が起きる可能性を見越して、消される前に限られた者しか入れない場所に逃げ込んだのだ……そんな日が来ないことを望んでいたがな」
誰も口を開かない間が続き、その場には静寂が訪れた。
3人は視線を合わせず、それぞれが何かしら考えているようでもある。
暫くして、レティシアが手に額を当て始め、何度か繰り返した後、顔を上げて息を吸い込んだ。
「……魔物に使われていた物と似た気配をした敵との戦闘後、オプスブル現当主が……記憶を失いました。因果関係はあると考えますか?」
「その、似た物というのは、紫の破片か?」
冷静にフェリックスは訪ねると、少女の目が少しばかり動いたのを見逃さなかった。
わずかに少女の開いた口が開閉を繰り返し、「……ご存知、なのですか?」と尋ねた声は、微かに先程までとは違った。
そのことから、少なからず今のオプスブル家の当主を大切に思っているのだと感じた。
しかし、彼女が語らない以上、無断で踏み込むわけにはいかない。
「ああ、別の資料には“紫の破片”と記載されていたし、二度目の時に私どもも実物を見ている」
短く息を吐いたレティシアは、リディアとフェリックスの顔を一度見ると、ゆっくりとした口調で尋ねる。
「フェリックス様とリディア様が“残したかった真実”とは、そのことなのですか?」
「紫の破片は何か秘密がある。だが、家族の安全を考えた私とリディアは、それ以上探らないことを選択した。けれど、別の資料があった事実は、記憶として残すべきだと考えたのだ」
フェリックスが言い終えると、レティシアの眉間にわずかにシワが寄った。
口元がわずかに動き、「……おかしい」と聞き取れる声が漏れる。
「しかし、ニクシオンやオクターは別の資料を知っているのでは?」
「知らないのだよ……別の資料が完成した頃に私も確認したが……あれは、帝国にいた魔族と帝国民が作ったものだ。半ば取材ごっこのようにお粗末なものだったよ。しかし、私と共にリスライべ大陸に渡った魔族がそれを提出し、多くの上級魔族の目に留まらないうちに、事件に関する物として判断されて禁書庫に入れられた」
レティシアは首を左右に振ると、下唇を滑るように噛んだ。
「彼らは、その資料を確認すらしなかったのですか?」
「事件に関する資料が、既に別にあったのだ。素人が作った信用性に欠ける物に、わざわざ目を通すと思うか?」
フェリックスは冷たく言い切ると、レティシアが組んでいた手に力が入ったのが、見て分かった。
固く閉じた少女の瞼の奥には、どんな思いが渦巻いているのか……と、一瞬だけ考えてしまう。
しかし、目を開けた少女と目が合うと、彼女の気持ちを考えることすら、間違いだと瞬時に思った。
「では……別の資料は読まれることもなく、不要と判断され、処分された……ということですか?」
「そうだ……1470年の事件が起きてから、私とリディアはニクシオンとオクターを連れて禁書庫に確認しに行ったが、その時にはもう、かつて見た資料は既になく、今残っているものだけがそこにあった……」
レティシアは鼻で笑うと、ほんのわずかに眉を上げ、「そうですか」と冷静に答えた。
腹の底は重く、胸の奥はぐるぐると渦を巻くが、その感覚すら今は不要なものだと感じた。
組んでいた手を解くと、彼女は静かに立ち上がり、座る2人を見下ろした。
「もう、御二人は帰れないと言っていましたが、命の巡りへの還り方はご存じですか? それとも、このまま世界の理に消えますか?」
「聞かないのか? オプスブル家当主の記憶がどうすれば戻るのか」
フェリックスは淡々とした様子で尋ねると、ふとレティシアの動きが止まった。
「聞いたところで、御二人は知りませんよね? なのに、なぜ尋ねるのでしょうか?」
笑みを浮かべながら言ったレティシアに、フェリックスは思わず息を止めた。
あまりにも冷たい少女の瞳は、背中にナイフを突き立てるような恐ろしさがあり、ゾッとするものを感じた。
左手に重なるリディアの手からも緊張が伝わり、フェリックスは口すら開けられない。
孫でありながらも、対等に見ていたが、少女から感じ取れる威圧は、ニクシオンを前にした時のようだ。
「御二人の魂は、すでに何割か世界の理に溶けています。この場に留まらなければ、今ならまだ命の巡りに還れると思います。私のことよりも、そちらを気にするべきでは? 少なくとも、ニクシオンは御二人が戻れないのなら、命の巡りに還るべきだと考えています――では、私はこれで失礼します」
レティシアが振り返って歩き始めると、リディアはフェリックスの手を強く握った。
恐怖が心を支配し、始めに感じた底知れぬ闇が勘違いではなかったと、改めて思った。
一言で告げるのであれば、少女の皮を被った『化け物』だとすら言いたくなる。
けれど、それが少女の全てではないと思い直すと、リディアは勢いよく立ち上がった。
「レティシア! エディットに会えたら、あなたが立派に成長していたと話すわ!」
リディアが告げた瞬間、レティシアの足がピタッと止まった。
そして、少し経ってから振り返った少女は柔らかい笑みを浮かべ、「お願いします」と答えた。
遠ざかる少女の背中には影が落ち、芝を踏む足元から音が一切しない。
彼女が何を考え、何を思うのかすら、少女の背中は何も語らない。
そんな少女の姿を、フェリックスとリディアは寄り添って眺めていた。




