第187話 魂の境界と揺れる者
鼻から吸い込む空気は重く、肌をなぞる闇のマナは冷たく感じられた。
ゾクッとして背筋を伸ばすが、ゾゾッと毛が逆立つ感覚に襲われ、続けて全身の毛が逆立ったのが分かる。
一瞬だけ、レティシアはここに居たくないと思うが、迷うなと自分に言い聞かせた。
その瞬間、冷たい闇のマナが再び肌を這い回り、骨の奥まで悪寒が染み込む。
何度も、何度も、それは容赦なく襲い、思考すらぼんやりとし始めた彼女は、自分の頬を叩く。
本来聞こえるはずの音は聞こえず、頬だけがジンジンと痛む。
目を開けたら……と、一瞬最悪な展開を想像したが、それでもゆっくり目を開いて冷静に周りを見渡す。
(本当にただの闇ね……とりあえず、死んだ時の光景が出てこないから、まだ生きているということね……)
レティシアは少しだけ安心すると、軽く息を吐いて歩き出した。
肌に纏わりつくマナの重さは、心の奥底に潜む苦しみや怒りを、呼び起こそうとしている気さえする。
それなのに、頬を掠める空気は、悲しみや後悔を思い出せと、囁いているように感じてしまう。
(余計なことは考えるな。目的はハッキリしているのよ。迷うな、大丈夫……私は私でしかない)
目の前に広がる暗闇は、目が慣れても黒一色で、そこには何もないんだと語り掛ける。
それでも、歩みを進める足は止まらず、思いが前へと足を運ぶ。
時間の感覚もなく、気を抜けば平衡感覚さえ失いそうになる。
(……独りで、ただ暗闇にいた時とは違う。知ってしまった気持ちが、初めて死んだ時と違うからだわ……知らなければ……)
レティシアは唇を何度も噛みながら、短く息を吸い込んだ。
けれど、無意識のうちに止めた呼吸は、腹の底を固くし、幾度も肩を上げさせる。
(知らなければ、闇が本当は怖いものだと感じなかった)
胸ぐらを掴む右手は小さく震え、喉の奥が焼けるように熱い。
足取りは重く、数えきれない出来事が走馬灯のように脳裏を過ぎていく。
――語らずとも分かり合えた日々。
いつも一歩後ろを歩いていた少年は、いつの間にか隣を歩く青年に成長していた。
些細な信頼を少しずつ積み重ねてきた記憶。
ただ、ひたすらに思い続けてくれた、彼の優しさ……
叫びたいのに……、もう……その感情も迷いの元になると分かっている。
(だから――もう、必要ないモノは捨てよう)
深く息を吐き出し、自分の胸ぐらを掴んでいた右手を大きく振り払うと、軽く唇をなめた。
(この恋心は……さよなら)
少女の歩みは、どこか迷いがなく、ロイヤルブルーの瞳は濁って見える。
しかし、その瞳の奥にどんな思いがあるのか、それは読み取ることができない。
風は吹いていないのにもかかわらず、シルバーの髪はなびき、ロイヤルブルーの毛先は、彼女の背を押す。
足音がない歩みは続くが、彼女の様子からして足音を消しているわけではない。
この空間そのものが、まるで音を食らっているようだ。
足元も見えず、何を踏んでいるのかも判別できない。
それでも、動きは一定で、急ぎもせず、止まりもしない。
その姿には、逡巡や躊躇といった動きは見られない。
どれほどの距離を進んだのかは分からないが、やがて空間に変化が現れた。
黒一色だった背景の中が、ほんのわずかに揺らいだ。
色ではなく、光でもない――黒とは違う「何か」がそこに存在する。
途端に、彼女の眉間にシワが寄り、目元が細まった。
「……」
彼女の口元は動きを見せたが、声そのものは響かない。
暫くの間、揺らぎの方へと歩みを進めると、ふと目前で足を止めた。
再び唇は動くが、またも何を発したのか分からない。
けれど、『この先に、いてちょうだいよね……面倒だから』と呟いたように動いていた。
右手を差し出して揺らぎに触れると、彼女の手がすうっと消える。
直後、彼女の口元は笑みを浮かべ、一歩を踏み出して揺らぎの中へと入って行く。
「あら……お客さんね」
ふと、優しそうな女性の声がし、世界は色を取り戻したかのように鮮やかな風景が広がる。
緑の芝生と、色とりどりの花々が地面を彩る。
「このような場所に人とは……」
厳格そうな男性の声がした途端、一本の大きな大木の近くに、パッとテーブルと三脚の椅子が現れた。
続けて、2人分の足音がし始めると、徐々に一組の男女の姿が浮かび上がった。
「懐かしいわね。久しぶりに人の形を保てているのは、不思議な感覚……お嬢さん、ありがとう。私たちを知っていてくれて」
「……あなたは、リディア・セレ・フリューネ様ですね?」
レティシアは立ち止まったまま、華やかさはないが、落ち着きのある雰囲気をまとった女性に問いかけた。
口元を押さえる仕草には柔らかな余韻があり、目元に浮かんだ笑みには親しみすら感じられる。
シルバーの髪は、毛先に向かうほどロイヤルブルーへと染まり、その色合いは自身とよく似ている。
そのまま視線を横に移し、ライトブルーの髪が印象的な男性へ向き直ると、彼のシルバーの瞳を見つめながら口を開く。
「そして、あなたがフェリックス・エル・フリューネ様ですね?」
暫くの沈黙が流れると、ふふふっと女性の柔らかい笑い声がその場に広がった。
「2人とも、そのような名前だったわね。懐かしいわ……」
「暗黒湖の外で、御二人の帰還を待っている者がいます。名は」
「十中八九、ニクシオンだろう」
フェリックスはレティシアの言葉を遮って答えると、観察していた少女の眉間にシワが寄ったのが分かった。
しかし、少女が軽く息を吐き出すのを見て、思わず内心でため息をついてしまう。
「……まだ、そのことはご存じだったのですね」
「当たり前だ。暗黒湖に入る前、彼は私らに『いつまでも、帰りを待っている』と言っておったからな……言葉は思いだ。それが魂を現世に繋ぎとめる」
淡々とした様子でフェリックスが答えるが、無表情のままでレティシアが口を動かした。
「一応、お聞きしますが、御二人は帰り道をご存知でしょうか?」
「知っているわ。でも、帰れないのが正解かしらね……」
リディアは口元に人差し指を当てながら答えると、困ったような笑みを浮かべた。
そして、髪を耳に掛けながら数歩進むと、首をかしげた顔には、先程とは違う笑みが浮かぶ。
「つまり……思いだけでここに留まっていた、ということでしょうか?」
「そうね、それも間違いではないわ……でも、ね」
リディアの声に続き、ふふふっと笑うのが聞こえ、レティシアは静かにリディアを見つめた。
エディットの面影がリディアの笑顔と重なって見え隠れし、胸の中が妙にざわつく。
それが、愛の感情を捨ててしまった原因だと理解してしまい、なぜか心が痛む。
「何点か、お聞きしたいことがございます」
「ええ、お好きにどうぞ」
軽やかなリディアの声は、硬い表情をしているレティシアとは対照的だ。
「御二人は……なぜ、エディット・マリー・フリューネ様を帝国に残し、暗黒湖に入ったのでしょうか?」
「……あらあら、娘の名前を聞いたのも久しぶりね。彼女とは、どんな関係性なのかしら? フリューネ家の特徴を持つ、お嬢さん」
リディアは微笑みながら軽く口元を押さえて尋ねると、目の前にいる少女の瞳がすうっと冷たくなった気がした。
その姿が、なぜか隣にいるフェリックスの姿と重なり、少女が何者なのか……と予測できてしまう。
それでも、少女が服の裾を掴み、小さく震える手を、リディアは静かに見つめた。
「私は彼女の娘で、レティシア・ルー・フリューネと申します」
「ほう、そうか……エディットも親になったのか……。では、我々の心配も杞憂に終わったということか」
フェリックスは冷静に答えると、ほんの一瞬だけ、少女の視線が左右に動いたのを見逃さなかった。
やはり――という思いが心をざわつかせ、ジワリと滲むように後悔が腹の底から湧く。
「私には、分かりません。母が……幸せだったのか……婚姻関係を続けた理由も、父を本当に愛していたのかすら……分かりません。だから、杞憂に終わったのかすら知りません。だけど……母は死ぬ間際まで御二人の帰りを待っていたと聞きました」
「……そう、エディットは、もう……死んでしまったのね」
リディアの声に反応し、フェリックスは後ろで手を組むと、拳を固く握りしめた。
エディットの『大丈夫! 私は幸せよ』と言った言葉を信じた。
その結果、娘の結婚を許し、帝国に残しても大丈夫だと……思っていた。
けれど……その全てが、間違いであったのだと、今、突きつけられている気がした。
だが同時に、目の前にいる少女が娘の忘れ形見であると思えば、色んな感情が渦巻く。
「……はい。最後は……延命治癒装置の中で、息を引き取ったのだと聞いております」
「そこまでして、生き長らえたかったのか……」
レティシアは咄嗟にフェリックスを睨んだが、歯を食いしばると息を吐き出した。
「どう受け取るのかは御二人の自由ですが、母を侮辱することは、たとえ祖父母であっても許しません」
「言葉足らずだったな……そこまで、お前を1人にするのが心配だったのだな……と言いたかっただけだ」
フェリックスが言い終えると、レティシアは淡々とした様子で、「そのようですね」と答えた。
その瞬間、パンッと軽快な手を叩く音が空気を震わせ、2人の視線がリディアに注がれる。
「ささ、フェリックス様も、レティシアさんも、お話しするのならお座りになって」
「いえ、時間が」
「あなたが私たちに会える最後のチャンスよ。知りたいこと、聞きたいことが、他にもあるのではなくて?」
リディアはレティシアの言葉を遮って言うと、軽く頭を傾けて微笑んだ。
数秒の沈黙の後、レティシアは視線を落とし、「失礼します」と静かに告げてお辞儀をした。
「畏まらなくてもいいわ」
リディアは軽く言うと、2人が着席したのを見届け、「さぁ、何が聞きたいかしら?」と尋ねた。
「では、改めて聞きます。御二人は、なぜ暗黒湖に入ったのでしょうか?」
「時間がないのだろう? 話せば長くなる」
鼻を鳴らしてフェリックスが言うと、レティシアは奥歯を噛み締めて、深く息を吸い込んだ。
そして、何度か深呼吸を繰り返し、一度、ゆっくりと瞬きをした。
「知らなければならないのであれば、知る必要があると思いますが?」
「……頑固だな」
フェリックスの声に滲んだ呆れに気付いたリディアは、自然に口元を押さえて笑った。
そして、柔らかく微笑むと、フェリックスとレティシアの顔を交互に見ては、ふふっ笑ってしまう。
「あらあら、それはフェリックス様に似てしまったのでしょうね」
レティシアはリディアの様子を見て、このままでは主導権をとれないと踏んだ。
そのため、彼女はテーブルの上に肘を着き、手を組むと話を切り出す。




