第186話 深淵と茜色の光
底が見えないほど湖の水は黒く、全てのみ込みそうな闇が広がる。
それでも、わずかに上がる水飛沫は透き通っており、時折光を吸い込んで光り輝く。
湖に入ったルカはある程度の距離を進むと、止まってゆっくりと首を左右に動かしていた。
(……思ったより早いな……レティシアの意識がもう闇に沈んだのか……)
レティシアの方を向いたルカは、地面に倒れている少女を見て冷静に思った。
(彼女が迷えば体は終わりに進み、肉体は土へと還り、魂は世界に溶け込む……か、早い話が死ぬってことだろ……所詮、闇の精霊にとって人族は、世界の理の一部なんだろうな)
一瞬だけ、彼女のいない世界を想像するが、途端に胸は張り裂けるように痛んだ。
『何をしている、小僧。我が指示した通り、おまえも早く潜れ』
「分かってる、黙れ」
闇の精霊は数秒数えると、深くため息をついた。
ルカの考えが手に取るように分かるのは、闇の力が濃くなっている影響だと理解している。
だが、ルカの魂との同調が進んでいる可能性も否めず、不安が精霊の中で静かに広がっていく。
その不安を払拭するかのように、闇の精霊は潜り始めたルカに告げる。
『……貴様はこれで記憶を取り戻すだろう。だが、それで元の貴様に戻る保証など、どこにもない。それでも、記憶なき貴様に我が力を貸す気は微塵もない』
口で何を言ったところで不安は消えず、遠い記憶がふわっと闇の精霊の心に蘇る。
(ふん……初めて人族に興味を抱いた日より、随分と我も変わったのう……。愛しき契約主が残した絆……ルカよ許せ。我は貴様の中に宿る力を過信し、剥離が少ないから……と、その瞬間まで、剥離が起きないと油断して居った……その結果、貴様を守り抜けず、剥離が起き……記憶を失わせた。……そして、貴様の人生を再び狂わせてしまったな……)
闇の精霊は、後悔に呑まれそうになりながら思うと、ふーっと静かに息を吐き出した。
ルカの目に映る暗黒湖は、まさに闇そのものだ。
その冷たさは肌を刺すようで、精霊の意識にもルカの感覚として重く伝わってくる。
現実に向き合わなければならない青年を想うと、これから真実を再び知る青年の精神を心配してしまう。
それでも、掛けてやれる優しさはなく、見守るしかないと割り切るしかない。
『故に、結果が如何なるものであれ、貴様は進まねばならぬ。それが、力を継承した者の宿命だ』
『……うるさい。俺は彼女が言ったように、お前の指示に従うだけだ』
水の中を進む音が頭の奥に響き、闇の精霊はそれがルカの叫びにも聞こえ、肩の力を抜いた。
感じ取れるルカの思考は揺れ動き、深く潜れば潜るほど、ルカに対する罪悪感が積み重なっていく。
現実とはいつだって、選択肢を狭め、自由に選ぶ権利を奪うものだ。
それを理解しているからこそ、どうしようもない思いを吐き出した。
『……そうだったな』
一方、暗黒湖の上に広がる塔の中では、魔族が忙しく動き回っていた。
塔の中を照らしていた灯りは消えており、島を覆っていた雲が、塔の上空だけ晴れている。
天井から差し込む光は、柔らかい温かみがあり、オレンジや赤みがかった色に壁や床を染める。
その光景を、立ち止まって見つめている者たちがいた。
「どうなってんだ? この島も晴れることがあるのかよ……」
アランが天井の方を向いて言うと、少し離れた場所にいたオクターが眉を顰めた。
「兄様、彼らに説明していないのですか?」
確かに響いたオクターの声は、全員の視線を彼に向けさせた。
けれど、少年のような顔立ちとは違い、瞳の奥にはどこか覚悟が潜んでいるようだ。
「彼らには、説明するべきではないのですか?」
ニクシオンは軽く息を吸い込むと、「そうですね……」と答えて天井に視線を向けた。
「少なくとも、レティシア様とルカ様とここまで来られた皆様には、説明するべきですね……」
(空は水色に茜色が交じり、オレンジ色が優しく溶けているのは、久しぶりに見ました……けれど、優しくもありながら、いつみても残酷な光景ですね)
「先程、どうやらレティシア様とルカ様が、暗黒湖に入ったと思われます」
ニクシオンの話を聞き、アランは眉間にシワを寄せると目を細めた。
彼はチラッとオクターの方を見て、ニクシオンに視線を戻すが、2人の表情を見ても魔族の考えが読めない。
「中に入ったら、晴れるのか。――中に入って晴れるなら、普通のことじゃないのか?」
「前回晴れた時、半日を過ぎて空は再び雲に覆われました。しかし、いくら待っても中に入った者は出てきませんでした」
少し俯いてニクシオンが答えると、アランは表情を変えずに首をかしげた。
「……で? 何が言いたい」
アランの強い口調に、ニクシオンはゆっくりと目を閉じると、肩の力を抜いた。
そして、軽く息を吐き出すと歩み始め、手すりに片手を置くと、吹き抜けから下を見て口を開く。
「……今、この塔にいる上級魔族たちは……雲が閉じないために、地下から湧く闇のマナを抑えています」
「それが何を意味するんだ?」
アランの言葉に棘を感じ、ニクシオンは手すりを強く掴んだ。
けれど、アラン以外の視線も背中に突き刺さり、手すりを掴む手は一段と力が入る。
「……ルカ様がどれ程早くても、記憶の定着には一日半掛かります。その間、レティシア様の意識も暗黒湖と繋がり続けることになるんです。そして……レティシア様が暗黒湖に含まれる闇のマナに耐えられる時間は、2日だと聞いております。――つまり、私たち上級魔族は彼女が暗黒湖の中で迷ってしまっても、出口が少しでもつながりやすい状態を、維持しなければならないということです」
「意味が分かんねーよ」
ニクシオンはアランの言葉を聞き、驚きのあまり振り返った。
そして、アラン、クライヴ、アルノエ、レイ、ステラの顔を見ると、何度も小刻みに首を左右に振ってしまう。
「誰もレティシア様から聞いていないのですか?」
ニクシオンが問うと、5人は互いに顔を見合わせている。
その様子を見た瞬間、ニクシオンは額を押さえ、深く長いため息をついた。
「呆れた……自分で伝えると言っていたのでお任せしてましたが……レティシア様は言っていないのですね」
わずかな沈黙が流れると、「……教えて」と言ったレイのか細い声が静かに響いた。
すると、――ダダダッと足音が続き、ニクシオンの前に出たオクターが頭を下げた。
「兄様! 申し訳ございません。私が悪いのです。私が私情に呑まれ、余計なことを彼女に言ったからだと思います。ですので、ここは彼女の意思を尊重し」
「黙れ!」
レイは声を荒らげ、オクターの言葉を遮ると、歯を食いしばって鋭い視線をオクターに向けた。
そして、ニクシオンをまっすぐ見つめ、感情を押し殺しながらゆっくりと口を開く。
「ニクシオン、レティシアが言わなかったこと、ボクに教えて……今すぐ」
「……今、皆さまがどれだけのことを知り、どれだけのことを知らないのか、私には判断ができません。そのため、私が知っている範囲で全て述べます。いいですね?」
ニクシオンはレイの顔を見つめ、軽く息を吐き出すと尋ねた。
礼儀正しい口調とは違い、彼の声は重く、どこか突き放すようでもあった。
しかし、手のひらを見つめるレイの表情は感情が読めず、拳を握ると徐々に白く変わる。
「ああ、少なくともボクは知るべきだ」
「では……まず、ルカ様の記憶は、闇の精霊と同調が進んでおられたようなので、ルカ様が記憶喪失になる前のルカ様に戻る可能性は極めて低いです。そして、レティシア様ですが……彼女は暗黒湖での活動に制限時間があり、それを超えてしまうと自我を失い、迷うリスクが増えます。……彼女の祖父母様が暗黒湖で現在も世界の理に溶けている状態です」
ニクシオンは冷静に事実を述べると、その場にいる面々の顔をゆっくりと観察した。
眉間にシワを寄せる者、意味が分からないとでも言いたげな表情をする者。
口に手を当て思考する者、こちらを睨む者までいる。
ここに来れば、ルカの状況に改善が見込めると考えていた者たちだと分かっているからこそ、ニクシオンの胸は棘が刺さったように痛む。
そして、レティシアに起きるかもしれない最悪の事態を、彼らが知らなかったのも分かり、思わず歯を食いしばりそうになる。
「早い話……、彼女も迷えば、祖父母様と同じになるということです……」
「……死ぬってこと?」
レイの声は鈴を転がしたように響き、その場の空気を締め上げた。
「我々、生きている者からすれば、いずれはそうなります……」
ニクシオンが答えると、暫くの間、首を左右に傾けていたレイが止まり、「迷うって結局何?」と更に首をかたむけて尋ねた。
「分かりません。私が聞いたのは、暗黒湖に入った人が迷えば、出口が分からなくなることだけです。そして、我々は雲が晴れている時だけ、出口が開かれていると考えています」
レイはゆっくりと目を閉じたあと、「ルカもいない……」と呟きながら歩き出した。
一歩一歩と進むが、その足取りはまるで軸がないようにも見え、ふと足を止めた彼は「レティシアもいない……」と続けて口にした。
そして、頭を下げて鼻を小さく鳴らし、頭が上がると首をかしげながら微笑んだが、「こんな世界……」と告げた瞬間に笑みは消え失せた。
「まだ、出口は開かれただけです。上級魔族ではないあなた方には、信じて2人を待つしかできることはありません……」
ニクシオンは冷静に答えたが、視線の先にいるレイから目が離せなかった。
けれど、少年から感じられる魔力は深く、ネットリと肌に絡みつき、不快でたまらない。
チラリと幻獣であるステラを視界の隅に映すと、少年を深く警戒しているように見えた。
そして、今度は獣人族であるアランとクライヴを視界の隅に捉えると、2人も少年を警戒しているように見え、こちらもか……と思ってしまう。
軽く息を吐き出し、ゴクリと生唾を飲むが、それでも心臓の音は耳の奥まで聞こえる。
だが、ふとアルノエに視線を向けると、拳を握る彼は天井の方を向いていた。




