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第2話 始まりの日


 神歴1488年3月5日未明。


 雪が深々と降る中、波と潮風が叩きつけられる海食崖に花弁は雪のように白く。

 内側を覗き込めば、中央に向かうにつれて花弁が青に変わる。

 神秘的な一輪の花が、隠れるようにしてひっそりと開花した。


 それと同時刻、ヴァルトアール帝国西部。

 海に面したフリューネ領を治めている侯爵家に赤子の産声が響く。


 魔法で灯りが付いた広い部屋で、産婆と医師がホッと胸をなで下ろしながら、額の汗を拭っている。


 シルバーとブロンドの間の髪をシニョンにまとめているメイドは、今にも零れ落ちそうなくらいの涙を溜めていた。

 彼女のバイオレットパープルの瞳は、赤い血と青い氷が混ざり合ったような不思議な色彩を放ち、冷たさと熱さを同時に感じさせる。

 涙によってその輝きは増し、まるで宝石のようだ。

 彼女は微かに震える唇で、嬉しそうに口を開く。


「エディット様! エディット様!! お生まれになられました! 元気な女の子です! お嬢様です!」


 しかし、ベッドでぐったりとしているエディットは、赤子の方を1度見ると、小さく動かしていた唇を噛んで目を逸らした。

 様々な感情が入り乱れたように表情は変わり、視界がぼやけ始めた彼女、強く目を閉じた。

 産婆は、エディットの目が憂い(うい)を含んでいるのを見て、何か察したのだろう。

 赤子の沐浴に時間をかけて丁寧に済ませると、ふわふわのタオルに赤子を包んでメイドに手渡す。

 目を細めて微笑む産婆は、不安そうにしているメイドの背中を1度軽くたたき、優しく背中を押すように伝える。


「大丈夫じゃ、しっかり赤子の顔を見せておやり」


 一歩踏み出したメイドは、腕の中にいる赤子を見つめると、産婆の方を振り返った。

 すると、優しそうな顔で産婆が頷き、メイドは微かに震えながらも静かに頷き返す。

 そして、メイドは赤子を抱えてベッドに近付き、エディットが横になっているベッドにそっと赤子を置く。

 触れたシーツはほんのり冷たく、メイドはベッドの側で控える。


 青白い顔をして浅く呼吸しているエディットは、ベッドに置かれ真っ赤になって泣いている赤子の方をゆっくりと向いた。

 恐る恐るといった様子で赤子に手を伸ばし、そっと赤くなっている頬に触れる。

 ゆっくりその手は下りていき、今度は小さな小さな手に触れた。

 それは、まるで赤子の存在を、確かめているようだ。


 エディットは赤子の手の平に人差し指を入れると、ギュッと赤子に握られる。

 その瞬間、どこか複雑そうな表情を彼女は浮かべたが、唇を噛むと軽く目を閉じた。

 気持ちを落ち着かせるかのように大きく息をつくと、指を握る赤子の手を親指の腹で優しく何度もなでる。

 握られた手を見つめる目からは、溢れたように涙が零れ、徐々に枕を濡らしていく。

 その瞳は、愛しい我が子を見つめる母親のようでとても温かい。

 傍で泣かないように静かに見守り続けたメイドは、その光景を見て(せき)を切ったようにボロボロと大粒の涙が頬を伝う。



 暫くして、産婆や医師がいなくなった部屋では、甘い匂いとアロマオイルの優しい香りが広がり始める。

 暖かな空間の中で、静かに片付けを続けるメイドの姿があり、この部屋には1組の親子と彼女しかいない。

 ベッドで寛いでいるエディットの腕の中には、新しい温もりに満ちた赤ん坊が、小さな手をふわりと上げ、まるで空気を掴もうとしている。

 その小さな指先がエディットの指に触れるたび、彼女の表情は柔らかくなり、目元に微笑みが浮かぶ。

 落ち着きを取り戻した様子のエディットは、ちらりとメイドの方を見ると、恥ずかしそうにほんのり耳を赤く染めた。

 彼女は、髪をシニョンにまとめているメイドに向かって、唐突に声をかける。


「ねぇ、リタ。――レティシアは?」


 リタは片付けをしている手をいったん止めると、振り向いてエディットの顔を不思議そうに見た。

 目元が赤くなっており、それによって先程まで泣いていたのが分かる。

 彼女はわずかに首をかしげると、考えるようにゆっくりと口を開く。


「――エディット様。失礼ですが、レティシアとは、お嬢様のお名前でございますか?」


「ええ、そうよ……、この子の名前。――レティシアって名前はどうかな? って思って……どう?」


 少しだけ震える声で、エディットが顔を赤らめながら聞いた。

 リタはエディットと赤子を交互に見た後、何かを考えているような素振りをし、少しだけ悩んでいるようだ。


「そうですねぇ……」


 そう言ったリタは、無表情で考えるのが面倒になったのか、はたまた考え抜いた結果なのか、その表情からは読み取れない。


「あ、意味わね……、喜び……、なんだけど……」


 慌てたようにエディットが言うと、リタは少しだけ目を伏せる。

 けれど、その顔はとても安らかな表情を浮かべていた。

 彼女は顔を上げると、幸福感に満ち溢れたような笑顔で告げる。


「……良いですね! レティシア様! とても素敵なお名前だと思いますよ、エディット様」


 エディットはリタの言葉に、ホッと胸をなで下ろして微笑んだ。

 そして、彼女は腕の中にいる赤ん坊の顔を見つめ、優しく包み込むような声で話しかける。


「そう、良かったわ。――レティシア。今日から、あなたの名前はレティシアよ。愛しい私のレティシア、私と同じ瞳の色をしているわ」


 エディットの目には、今にも溢れそうなくらいの感情が浮かんだ。

 ロイヤルブルーの瞳は、その輝きでさらに美しさを増し。

 それは空と星のように高貴で、見る者を圧倒する。

 その瞳でレティシアを見つめると、彼女の口元がほころぶ。

 エディットは我が子の頬を、指で何度も愛おしそうに優しくなでている。


 生まれて初めての食事を終えたレティシアは、ぼんやりとした視界で辺りを見渡す。

 今の状況を少しでも理解しようと、静かに周りを観察しては考えを巡らせる。

 時折、大きなあくびが彼女の口から漏れ、眠気に逆らうように目をこすった。

 銀髪のエディットは、青い色素が髪に交じる。

 根元はほとんど銀髪だったが、毛先に向かって徐々に青くなる。

 レティシアは、その髪が海の深い青のようで、見とれてしまう。

 彼女は、長い髪に手を伸ばし、髪を握って感触を確かめている。

 それと同時に、彼女は自分の手足が動くことも確かめていた。


「ふふふ。あなたの髪も、お母さんと同じよ。綺麗な色をしているわ。だけど、あなたの髪は、毛先が瞳の色に近いわね」


 エディットは、髪を掴んでいるレティシアに向かって言うと、優しい眼差しを向けながら我が子の頬に触れる。


 片付けをしながら、リタは何度もエディットとレティシアの顔を見ていた。

 些細なやり取りを見かける度、思わず嬉しくて笑みが零れる。

 聞こえてくる声に耳を傾けながら、彼女は母子共に健康であることを、精霊と大地に感謝した。


 さすがに限界だったのか、うとうとし始めたレティシアはゆっくり静かに目を閉じた。

 それでも彼女は、エディットとリタの会話に耳を傾ける。

 2人の会話から、2人が気心の知れた仲なのだろう……とレティシアは思う。

 3人だけの部屋は、暖かい雰囲気で満たされ、安心感をくれる。

 眠気には抗えず、レティシアは次第にふわふわとする意識を手放していく。



 エディットはスヤスヤと、腕の中で眠るレティシアを見ながら落ち着いた声で言う。


「見てリタ、寝てしまったわ」


 リタが近くに来ると、彼女もレティシアの顔を覗き込んだ。

 眠りながら、むにむにと口を動かすレティシアを見て、自然に2人の顔からは笑みが零れる。


「そのようですね、とても幸せそうです」


「そうだったら……嬉しいわ、この子は私の宝物よ」


 どこか嬉しそうにエディットは言った。

 その瞳からは、母の優しさが溢れているようにも見える。


 リタはエディットに温かな視線を向けると、彼女の腕の中にいるレティシアを見つめる。


「はい。では、私は守るものが増えてしまいましたね」


 エディットは顔を上げて、驚いたようにリタの方を見た。

 だが、その顔はすぐに困ったように眉を下げる。


「もぅ、リタは昔からそうなんだから……だけど、ありがとう、リタ……あなたが居てくれて、本当に良かったわ」


 そう言いながら、エディットは微笑み、その目には安堵の色が浮かんでいる。


「いえ、こちらこそありがとうございます」


 リタはエディットの顔を見ると、安心するとともに幸せだと感じて微笑んだ。

 そして、この瞬間に立ち会えたことを誇りに思った。


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