第183話 禁書庫に眠る真実
神歴1504年8月13日。
禁書庫の立ち入りが許可されてから、レティシアは体調が許される限り禁書庫に籠っていた。
それ以外の時間は、1人で過ごしながらテネアルクの街を見下ろし、考えをまとめているようでもあった。
時折、クライヴとアランが彼女に話しかけ、たわいもない話に花を咲かせ、彼女との距離を確実に縮めているようでもあった。
また、アルノエとステラも彼女の元を訪れ、何かを話し込んでいる姿もあった。
この日もまた、レティシアは禁書庫に向かうため、塔の地下へとつながる階段を下りていた。
「おい、小娘。いや、雪の姫の末柄よ……こら、待たんか」
足音と共にルカの声が響くが、レティシアは足を止めずに階段を下りていく。
少女の表情は感情が抜け落ちており、何を考えているのか分からない。
「レティシア、ぼくからもお願い、待って」
レイは階段を駆け下りてレティシアを追い抜くと、彼女の前で両手を広げて進路を妨害した。
けれど、目の前にいる少女の瞳があまりにも冷たく、思わず一歩だけ後退ってしまう。
「私は、あなたたちに用はないんだけど? 闇の精霊様とレイは、私にどんな用があるっていうの?」
レティシアの冷たい声色が響くと、ルカの深いため息が響いた。
「そう申すな。できれば、この体の持ち主と、少しでも長く話してやってほしい」
闇の精霊は胸元を押さえて言うと、彼の中で息を潜めているルカに心の中で話しかけた。
しかし、ルカの魂からは反応がなく、頭を抱えたい衝動に駆られてしまう。
「それは、私に言うんじゃなくて、その体の持ち主に言ったらどう? 私を避けているのは彼よ?」
振り返らずにレティシアが答えると、闇の精霊は胸の奥底でルカの魂が傷付いたのが分かった。
けれど、彼女の言うように、記憶を失った今のルカは、明らかに彼女を避けている。
今の彼がなぜ彼女を避けているのか、それはルカと契約している闇の精霊にも分からない。
しかし、たとえ今のルカが記憶を失っていようとも、これまでルカの中から世界を見てきた。
だからこそ、彼女の行動がルカの失われた過去に触れ、今の彼に何かしら刺激を与えているのが分かる。
記憶を取り戻す前兆なのか、それとも、過去と現在を切り離しているのか……確かなことは、闇の精霊も分からない。
けれど、彼女との距離が広がるにつれ、心の痛みとしてルカを襲い、今の彼はそれが何か理解できないようだ。
それは、まるで失われたルカの記憶が、彼女との距離が広がるのを強く拒んでいるようだとも、闇の精霊は感じている。
「そうだが……このままでは、この体の持ち主は、自我が保てなくなってしまう」
「それなら、彼がこれ以上あなたと変わらないように、私は彼と距離を取るべきだと思うけど? 彼があなたと変わるのは、私が近くにいる時が一番多いでしょ」
闇の精霊は事実を言われ、開きかけた口を閉じた。
彼女が近くにいる時、ルカは彼女から逃げるように、心の奥底に沈んでくる。
そのたび、こうして体の主導権を闇の精霊が得る形になり、ルカの自我が同化を始めている。
過去の契約者の日記にヒントを残し、記憶を失った者を暗黒湖に導こうとした目的は、自我を失わせないためだ。
しかし、闇の魔力で満たされている暗黒湖が近くにあることが、この状況を加速させているのだとも思った。
契約者の意思で簡単に闇の精霊と魂が入れ替わり、闇の精霊が望んでいない状況になっている。
レティシアの深いため息が耳に届くと、「でも……」と言ったレイの声が続いた。
「レイ、私はあなたとの約束は守るわ。ルカの記憶が戻るまで、彼から離れない。でも、もうこれ以上私の心をかき乱さないで」
冷たいレティシアの声が響くと、レイは傷付いたような表情を浮かべ、ズボンの裾を握った。
「それなら、ルカとの時間も作ってよ……レティシアは、ルカのことを……どう……思ってるの? もう、ルカのこと、好きじゃないの?」
レティシアは訪ねられると、「ルカのことは……」と言って、レイから目を逸らすように足元に視線を移した。
もう前に進むと決めたのに、未だにルカの話題になれば心は揺れ動く。
全ての始まりは、幼い彼に対しての同情心だった……彼に寄り添ってあげられると思った……。
けれど、月日が経つにつれ、次第にその気持ちは信頼に変わり、隣に彼が居るのが当たり前になった。
年月が重なってからは、どんなに離れていても、彼の声を聞くたびに独りじゃないと思えた。
初めて会ったあの日から、彼の幸せを願い、変わらず彼と共に歩めるのだと思っていた。
気付いた気持はなかったことにできず、彼のことが好きだと自覚するたび、報われない思いだけが募る。
偽りがない思いは「……好きよ……」と言葉をこぼさせた。
「なら!」
レティシアはレイの声が耳に届いた瞬間、喉の奥が熱を帯びて静かに目を閉じた。
今、自分の中にあるルカへの想いは、紛れもなく愛情だと分かっている。
それでも、記憶を失ったルカの行動や言葉に、度々胸が締め付けられる思いがした。
初めて抱いた恋愛感情が、こんなに苦しいなら、知らなければよかったという思いもある。
そして、彼の記憶が戻らなければ、この息ぐしさと、この先も正面から向きあえると彼女は思っていない。
唇はわずかに震え、本心を隠すように偽りを口にする。
「でも、今は仲間としてよ」
闇の精霊は、レティシアの言葉を聞いた瞬間、心の奥底に沈んでいるルカの心が、傷付いた音が聞こえた。
傷付くならば、彼女から隠れなければいいのに……と思い、胸を押さえた。
しかし、目の前にいる少女の背中は小さく、ルカの記憶にあった彼女の姿は時折儚かった。
今の状況で、ルカが傷付いたと言えば、彼女の心が壊れてしまいそうだと思い、口は堅く閉ざされる。
「ごめんなさい……でも、何事もなかったかのように、彼と接することはできないし……きっと、彼も昔と同じようにはいかないわ」
レイは思わずレティシアの腕を掴むと、彼女の顔を覗き込んだ。
「分からないだろ! 勝手にルカの気持ちを決めるなよ!!」
怒りを含んだレイの表情を見て、レティシアは「何も知らないくせに」と呟いた。
気持ちを落ち着かせるために目を閉じると、言葉を考えながら口の内側を軽く噛んでしまう。
そして、瞼を上げると怒っているレイの顔が見え、考えていたこととは違う言葉が口から溢れる。
「……それなら、レイは私が傷付けば満足? あなたはルカが良ければ、私がどうなろうと関係ないんでしょ?」
レイは悲し気な声が耳に届くと、レティシアに向かって「違う!」と叫んだ。
彼女の瞳には徐々に涙が溜まり、彼女も今の状況に苦しんでいるのだと思った。
闇の精霊が表に出始め、ルカのことばかりに目が向いていた。
彼女の気持ちを知っていながら、彼女があれから傷付いているとは思ってもいなかったのだ。
「レティシアが傷付けばいいなんて、思ってないよ……ルカは大切だけど……」
「ならほっといてよ!! もう私の心に入って来ないで! 雪の姫とか、もう……うんざり」
レティシアがレイの手を力ずくで引き剥がすと、階段を下り始めた。
レイは静かにレティシアの背中を見つめ、「ごめん……それでも……」と呟いて拳を握った。
それから、数時間後。
禁書庫では、部屋の隅にある椅子に座り、レティシアが本を読んでいた。
近くにある机には沢山の本が積み重ねてあり、読み終えた本を小さい山に積み上げる。
バンッという音が響くと、「言われていたの、これで全部だ」とオクターが言った。
オクターは少し離れたとこに座ると、レティシアの様子を観察した。
彼女が本を読む姿は、いつ見ても忘れようとする過去の幻影と重なる。
そろそろ、彼女がこちらを向くと考えていると、予想通りに彼女がこちらを向き「何?」と不機嫌そうに尋ねてきた。
こういうところも、幻影と重なってしまうと感じる。
「兄様に話は聞いている。……兄様が……お前にここに残るように提案したら、断られたと聞いた」
「あのね……、そうよ、その提案は断ったわ」
レティシアは一瞬言い淀んだが、できるだけ冷静に答えた。
「全てを済ませたら、ここで余生を過ごすのも悪くないと思うけど?」
「私に悪態をついた人が言ったところで、ここで余生を過ごすのが良いとは思えないわ」
レティシアの呆れたような口ぶりに、思わずオクターの頬は緩んでしまう。
そして、胡坐を掻くと、そこに頬杖をつき、優しく話しかける。
「それでも……お前がここに来れば、数十年だけでも、おまえの気持ちは軽くなるし、役割で生きるオプスブル家の当主は見なくて済むぞ」
「あなたたち兄弟は、デリカシーもなければ、守秘義務という概念もないのね。話が全て筒抜けじゃない」
レティシアは言い切ると、続けてバンッと音を立てながら本が閉じられた。
睨むように彼女はオクターを見つめるが、無表情のオクターの首はわずかに傾く。
「私が知りたくて、兄様を問いただしただけだ。兄様は何も悪くない」
「愚者の何が知りたかったの? 私を嘲笑いたかった? 私を愚弄するために情報が欲しかったの? 本当に雪の姫の子孫か私に尋ねたり、あなたは何がしたいのよ!」
オクターは静かに視線を落とすと、軽く息を吐き出した。
そして、遠い記憶を辿るように、ポツリ、ポツリ、と話し始めた。
「……幼い……小さな幼女が……この塔に住み始めた頃、私は彼女にたくさんの愛情を注いだ……彼女は目を輝かせて禁書庫に入ると、お前と同じように食い入るように本を読んだ……知的で、色んなことに興味を持ち、沢山の本を読んでいた……私が彼女の邪魔をすると、邪魔しないで……と彼女は怒っていたな……」
レティシアは彼の言っている意味は分かるが、何が言いたいのか理解できなかった。
そのため、「何が言いたいのよ……」と率直に尋ねると、彼の顔が悲し気な表情に変わった気がした。
その時、なぜか数日前から繰り返されてきた彼からの質問が、一瞬だけ脳裏を過ぎった。
「お前のことを大地から聞く度、雪の姫の末柄らしいと感じていた。けれど、始めて見たお前の自己犠牲の行動は、どこかラズリーと重なった。そして、今もラズリーとお前が重なる。違うと分かっていても、どうしても重ねて見えて放って置けない。今の状況で暗黒湖に入ったところで、闇の精霊と契約しているルカ様が、元の彼を自分だと認識するとは限らない」
「ルカのことは、言われなくてもくて想定しているわ」
冷たいレティシアの声が響くと、本のページを向くる音が次々に広がった。
少女の目は小刻みに動き、文字を目で追い続けている。
時折、考えるような素振りをするが、直ぐにまたページをめくる。
「それなら、暗黒湖にお前が行く必要があるのか? たとえ闇の精霊が契約者の魂を呑み込んでも、元のルカ様が戻らないと考えれば大差ないことも分かっているはずだ」
「それが、どうしたのよ」
本を読みながらレティシアが答えると、オクターの眉間にシワが寄った。
ペラペラと紙をめくる音は、沈黙の中で唯一の律動を刻み続けている。
柔らかい照明の光とは違い、2人の間には重苦しい空気が漂っている。
「お前が入ったところで、結果は変わらないかもしれない。暗黒湖は危険だ。入るな」
レティシアは深く息を吐き出すと、本の間に挟まった紙に目が留まった。
その紙に書かれていることを読みながら、「いやだと言ったら?」と冷静に答えた。
書かれている文字は記憶にあり、彼女の祖父が書いたものだと分かる。
「お前は、必ず迷う。失いたくない気持ちが強くて、彼を探そうとする……」
「あなたは、私の何を知っているというのよ」
呆れながらレティシアは言うと、紙が挟まっていた部分を読み始めた。
書かれている内容は、1431年に起きた事件に関することだ。
古いインクの文字が並び、知っている事件の内容が書かれている。
しかし、なぜこのページに『闇の中で眠る』というメモが挟まっていたのか、その理由が分からない。
「知らない。知らないけど、私は精霊たちが不安に感じていることを知っている。お前が戻らなければ、闇の精霊はどう動くか、想像したことはあるか?」
一瞬の静寂が禁書庫を包み、「……ないわ」と言ったレティシアの声が響いた。
「お前が戻らなかったら、闇の精霊とルカ様の弟様は、この世界を今度こそ無に還すぞ」
オクターは事実を淡々と述べたが、レティシアの瞳がギロリとこちらを向くと、思わず息を呑み込んだ。
ロイヤルブルーの瞳から視線を逸らせず、「どういうこと?」と言った冷たい声が耳に届くと息を止めてしまう。
それでも、軽く息を吸い込むと、彼は乾いた唇をなめて口を開く。
「なぜ、レイ様がこの地に適応しているのか、不自然だと思わなかったのか?」
ふんっと鼻を鳴らしたレティシアは、「いいえ」と短く返して本へと視線を戻した。
「私は長く生きている。本来なら、背丈も角の大きさも兄様と変わらないくらいに成長していても良いはずだ。しかし、見ての通り、人族で言えば16の少年と変わらない見た目をしている。私は、精霊に近いんだ。そのため、遠い場所にいる精霊の声も聞こえてくる……うるさいくらいにな。そして、不思議とレイ様の声も聞こえて来ていた。それは、彼も私と同じだということを示している……そして、彼は私と違って小さな精霊に対し指示を出し、彼らの口を閉ざすこともできる……原初の話は聞いたんだろ? それなら、この意味が分かるはずだ」
「光の精霊……」
「そういうことだ。私や兄様はレイ様が光の精霊の生まれ変わりだと考えている。なぜなら、私が今のレイ様の声が聞こえているという事実の他に、光の精霊は闇の精霊をとても大切に思っていた事実が含まれている。そこには、兄弟として生まれ変わりたいと、言ってしまう程の思いがね。今のレイ様は、ルカ様も大切に思っているのは知っているが、彼が大切に思っていたルカ様の人格が消えれば、悲しみを埋めるために間違いなく今まで以上にお前を大切にする。だが、そこにお前が居なければどうなると思う?」
オクターの話を聞き、レティシアは深く息を吐き出し、これまでのレイの言動を思い返していた。
(確かに……レイはルカを大切にしていたし、今も彼のことを考えて動いているわ。それと同じように、私のことも大切にしていた……そして、レイはいろいろと知っていた……オクターの話は確かに考えられなくもないから、驚きもない。だけど、辻褄が合わないのよ)
「希望は完全に失われるのは間違いない。そして、その絶望は闇の精霊も感じるはずだ……お前はまだ、子孫を残していないからな……それなら、希望がない世界は一度歪んだ理を正すためにも、無に還すべきだと彼らは考えるはずだ……そもそも、この世界の理を変えたのは、精霊たちだからな」
「……レイが精霊の力を持っているのは知っていたわ。だけど、レイが光の精霊の生まれ変わりなら、レイは闇属性の魔法が使えないはずだわ。それなのに、彼は使えるわよ? それじゃ、説明がつかないわ」
レティシアが冷静な様子で答えると、まるで獲物を見つけたかのようにオクターの目が細まった。
「光の精霊は、どうやって人族になった?」
「……闇の精霊が……彼を、光の精霊を人族にしたわ……その時、使えるようになったということ?」
オクターはレティシアの言葉に「ああ」と言って頷くと、彼女が納得してくれたのだと思った。
「私が知っていることは全て話そう。それで、お前が暗黒湖に入らないのであれば、精霊の意思だと考えられる」
「残念だけど、私はあなたが何を話しても、暗黒湖に向かうわよ。可能性は0ではないし、どうやら……祖父母は事件の真相に繋がる証拠を持って、暗黒湖で眠っているみたいだからね」
レティシアは先程見つけた紙を人差し指と中指で挟むと、微笑みながら見せつけてやるつもりで指を揺らした。
一瞬にして彼の表情が、安堵から怒りに変わる様子を彼女は静かに見つめた。
そして、彼が次に口にする言葉が安易に想像でき、微笑は満面の笑みに変わる。
「本当に頑固だな! なぜ分からない! お前は入るべきじゃないんだ!」
「いいえ、私は行くべきよ。そのために体を慣らしてきたの。ルカの記憶が元に戻らない可能性が、限りなく0に近いことも、あなたに言われなくとも理解しているわ」
レティシアは本を整えながら言うと、少しばかり彼の様子窺った。
だが、怒りの表情が悲しみに変わると、小さく息を吐き出し、面倒だと感じた。
「行くな……私はラズリーを止められなかった……それで、海を渡った大切な姪は、骨すらこの地に帰ってこなかった……。そのラズリーと似ているお前まで失いたくない」
「笑わせないで、勝手にラズリー元王妃と私を重ねるのは一向に構わないわ。だけど、彼女と私を同じだと考え、私を失いたくないと簡単に言わないでちょうだい。私は私であって彼女じゃないわ、彼女に対する思いまで私に重ねないで」
オクターはレティシア言葉を聞き、胸に痛みが走り胸元を掴んだ。
あまりにも彼女の声は冷たく、言葉の刃が鋭いと感じた。
事実を言われたに過ぎないが、それでも胸の奥に深く突き刺さる。
「分かっている……同じじゃないことは、分かっている……それでも、彼女が重なるんだ……まるで、彼女がお前を止めたいと言っているようで……」
「……ラズリー元王妃には、会ったことはないわ」
「お前がなくても、お前の母親は会っている……それが書かれた便りを私は受け取った」
レティシアは本を手に持つと、「あっそ、私には関係ないわ」と冷たく切り捨てた。
本心では母親に関することなら知りたいが、今は余計なことを考えたくない思いが強い。
迷いは出口を塞ぎ、戸惑いが出口を遠ざけると考え、彼に背を向けた歩き出した。
けれど、ふと足を止めると振り返って満面の笑みを浮かべた。
「あ、それと、勘違いしているようだから教えてあげるわ。別にレイは、この地に適応しているわけじゃないわ。彼はルカが心配するから、そう見せているだけよ。そうなると、あなたの話には明らかな矛盾が生まれるわね」
レティシアはそれだけ言うと、再び歩き出し、片手を上げて大きく振った。




