第178話 立場と役割、その狭間の代償
わずかにカチャと食器がぶつかる音が響くと、パトリックとフィリップは音がした方を向いた。
カップを口元に運んだアルフレッドの喉が、一度だけ上下に揺れるとフゥ―ッという声が小さく響く。
客間にいる者たちの視線がカップに注がれ、カップが下ろされると少年の口がゆっくり開いた。
「そろそろ、もういいか? これ以上は時間の無駄になるだけだよ。話したいことがまとまったら、もう一度来るといい」
冷たい声は空気を引き締め、アルフレッドがカップをテーブルの上に置くと、続けてソファーが微かに空気を吸い込む。
絨毯を踏む音がわずかな静寂すら許さず、ドアノブを掴む音が聞こえた瞬間、「知るべきだと思います」という声が客間に広がった。
一瞬の間が空き、ため息が聞こえると、少年がドアノブから手を離して振り返る。
「……何? フリューネ侯爵家はレティシア嬢が当主を降りて、君に当主の座を渡すの?」
「いえ、そういうことでは……」
「それなら、聞く必要性はないと思うけど?」
アルフレッドは冷静にフィリップを見つめると、俯いていた顔が徐々にこちらを向き、視線が重なった気がした。
一瞬、綺麗なロイヤルブルーの瞳がレティシアの面影を彷彿とさせるが、微かな瞳の揺らぎがそれを打ち消す。
頭を掻いて息を吐き出すと、続けて「それでも、聞く必要があるのか?」と低く静かに尋ねた。
「正直、ぼくの身の上話に意味があるのか、ぼくには判断が付きません。ですが、少なくとも……姉上が……いえ、違いますね……レティシア侯爵様が何を警戒しているのか、分かるかと思います」
「どういうことだ? お前たちは、姉弟だろ? なぜ侯爵様って言い直したんだ?」
ガチャという音が客間に広がると、一斉に3人の視線がドアの方を向いた。
静寂の中、ドアが開く音と足音だけが静かに響き、空気が張り詰める。
この家の主であるライアンが無言で室内に入り、ドアを閉めると辺りを見渡して口を開けた。
「立ち聞きは悪いと思ったけど、聞かせてもらったよ。フィリップ、それ以上は慎重に考えたほうがいい」
「レティシア様から何か言われたのですか?」
「いや? だけど、この状況でオレは言わない方が良いと思っているし、少なくとも、彼女自身も皇家には隠したいんだと思っているよ」
フィリップは目を細めると、ゆっくり目を閉じて、吸い込んだ息を少しずつ吐き出した。
胸を激しく叩く鼓動とは違い、どこか冷静な頭はレティシアからライアンも調査に加わることついて聞かれた時のことを思い返していた。
あの時、彼女から従属の契約についても説明され、死ぬまで話す内容や行動の制限が課せられることを初めて知った。
内容の重さに思わず、『あの人は信用できないの?』と彼女に問うと、少し目を伏せた彼女の姿が記憶にこびり付いてる。
けれど、落ち着いた様子で、『彼を信用してない訳じゃないわ。だけど、あなたの秘密を知る人は少ない方が良いわ』と言った彼女は、真剣な間差しで見つめてきた。
そして、続けて『あなたの体だから、今後、誰かに話したいと思った時は、自分で慎重に考えて話しなさい』とも言われた。
その時、秘密が知られた場合の危険性も説明され、それに伴うあらゆる可能性も聞かされた。
ライアンが調査に加わることについて、何度も対話を重ね、何度も本当にそれで良いのかと聞かれた。
冷静に話す彼女を、冷たいとも感じたし、距離を置かれているとも思った。
結局、自分が出した答えは『姉上を信用してます』だった。
後日、彼女から皇弟であるライアンと従属の契約を結んだと、何の前触れもなく唐突に言われた。
その結果、冷たい彼女の声から、レティシアが彼の行動の一部を縛ったのだと悟った。
数ヵ月前のことなのに、遠い過去だと思えるくらい様々なことを経験できた。
自分が異質だと思い知らせる度、彼女が淡々とした様子で話を聞いてくれた。
今も危険性を考えると、怖いのが本音で、全く不安がない訳ではない。
一度視線を落とし手のひらを静かに見つめると、重なる手が見えた気がし、ギュッと握りしめて前を向く。
彼女がアルフレッドを試しているのだとすれば、全てを明かさなくても判断材料になると思うと口が自然に開く。
「そうですか……では、ぼくはレティシア様が言ったように動きます」
フィリップの言葉が客間に響くと、ライアンは目を見開いた。
そして、暫くしてゆっくりと目を瞑った彼は、首を何度も左右に振る。
肩を落としてため息をつくが、その表情からは何を考えているのか読み取れない。
けれど、その様子を見ていたであろうフィリップは、アルフレッドの方を向くと口が開く。
「アルフレッド殿下、レティシア様とぼくは血の一滴も繋がっておりません。だから、姉上と言っていますが、本当の姉ではないのです」
「どういうことだ?」
「そのままです。ぼくとレティシア様は家族ですらないのです。なので、別宅に住んでいることも本来なら許されず、姉上と呼ぶのも烏滸がましいのです」
話しを聞いていたアルフレッドは、フィリップに対して首を左右に振ると、呆れてため息をついた。
結局、知りたいことを話さないことに対し、時間の無駄とすら思う。
フィリップが何を求めているのか分からず、冷静に「それを、ボクに言ってどうする?」と言うと、フィリップが驚いたのが分かった。
しかし、その表情が徐々に変わり、唇を噛み締めた表情が、とても幼いように見えた。
「いま、連日のように別宅には貴族たちが訪れています。そして、彼女の留守を良いことに、父上……いえ、ダニエルも尋ねてきます。しかし、問題なのはそこではなく、ルシェル殿下とバージル殿下を連れて、ぼくのもう1人の姉であるライラが来ることです。彼らは、家族ならい一緒に住むべきだと言ってくることが問題なのです」
話しを聞きながら、アルフレッドは頭を押さえると憤りを感じた。
あれほど首を突っ込むなと言ったのに……と思うと、喉の渇きを強く感じた。
それでも、胸の辺りに手を当てて話すフィリップを見ていると、己が無力であると突き付けられている気がした。
「ぼくやパトリックは、ライラが1人で来たり、他の貴族相手ならある程度対応ができます。しかし、皇族相手になれば対応には制限が掛かります。ライラがぼくの秘密を知っているのか分かりません。けれど、彼女とも血は繋がっていません。そして、レティシア様はぼくと彼らに血の繋がりがないことを、公言しないとぼくは考えています。なので、皇子たちの行動は、皇子であるあなたに止めてもらいたいのです。そうしなければ、レティシア様の不在の間に別宅は荒らされてしまいます」
「それを言ったところで、ボクは彼らを止めることは」
「できないのではなく、やらなければならないのです!」
アルフレッドの言葉を遮り、フィリップは大きな声で言い切ると、胸の辺りを強く掴んだ。
「パトリックやジョルジュが動いてくれていますが、皇帝は関与しないと言い切っています。そのため、ルカ様の件も、ぼくは皇家が絡んでいると考えています。そうでなければ、タイミングが不自然過ぎる!」
フィリップは侮辱罪に当たる可能性があると分かってても、口が止まらずに最後まで言った。
そして、アルフレッドに向けていた視線をライアンに向けると、キッと彼を睨んで思っていたことをぶつける。
「先程、ライアン様はレティシア様のこと思って発言していましたよね? なら、なぜ皇弟殿下であるあなたは、今動いてくれないのですか? ぼくの体を調べるだけ調べたら、それで満足ですか?」
「すまない……でも、動かないんじゃなくて、動かないとレティシアと約束したんだ……」
ライアンの言葉を理解したフィリップは、俯くライアンを見ながら視界が滲むのを止められなかった。
レティシアの意思が絡んでいるのであれば、動かない理由も分かる。
しかし、レティシアの意思が絡んでいるなら、少なくとも彼女が今の状況を予測していたと思うと胸が痛んだ。
やっと手に入れた居場所を失う気がして手で顔を覆うと、勝手に気持ちが溢れ出したように口が動く。
「もう……分からないよ……なら、ぼくはどうしたらいいの……。姉上は着いて行きたいって言ったぼくを置いて行くし、結局何も話してくれなかった……あの日から……対抗戦があった日から全て変わった……ぼくは姉上とルカ様がいてくれれば……それだけで良かったのに! ……なんで、みんな邪魔するの……なんで、ルカ様の婚約者や貴族たちは、ぼくの居場所を壊そうとするの…………なんで……!」
ライアンは涙を流すフィリップを見つめていると、胸が締め付けられて拳を固く握り、唇を噛み締めた。
レティシアがフィリップに何をさせたいのか、それはライアン自身も分からない。
彼女との約束も単純なもので、『フリューネ家のことに関して、行動を禁じる』という物だった。
行動が禁じられるとなれば、踏み込んだ助言ができない。
しかし、この約束はただの口約束ではなく、従属契約の穴をうまく利用した拘束である。
従属契約を結んだ時点では、このような事態になると思ってもいなかった。
皇弟である立場を、もっと慎重に考えるべきだったと……今さら後悔してしまう。
けれど、「すまない」と言った声が聞こえると、咄嗟にアルフレッドの方を向いた。
「ボクの方で兄上たちに行動を控えるように言っておく。だけど、効果があるとは考えないでほしい」
アルフレッドは冷静に言うと、フィリップの行動を静かに見守った。
そして、泣きながらも彼が頷くと、同じように頷いて息を吐き出す。
「それと、聞きたいことがある。君と君の家族に血の繋がりがないことは、言わない方が良いんだよな?」
何度も頷くフィリップを見て、アルフレッドは軽く頭を押さえてしまう。
どんなに考えても、レティシアの考えが見えてこない。
もしかしたら、彼女は帝国から独立しようとしている可能性もあるが、それだと辻褄が合わなくなることもある。
辻褄が合わない部分を考えると、侯爵として政治に関与しようと考えているようにも思える。
だけど、勇逸ハッキリしていることは、彼女の意思で動いている人たちがいるということだ。
「それは、ボクが言ってしまったら……いや……ボクが言った時点で、皇家はフリューネ家からの完全に信頼を失くすか」
ため息交じりにアルフレッドは言うと、その場にしゃがみこんだ。
目を閉じて深く思考を始めると、兄たちをどうするべきなのか考える。
皇帝も皇弟の力も使えないとなれば、残るのは母親たちの力だけ。
けれど、そうなれば事情を説明しなければならなくなり、頭が痛いとアルフレッドは思った。




