第176話 紫の街と闇の囁き
神歴1504年7月24日。
宿屋で丸1日休んだレティシアたちは、ニクシオンが手配したヴェルドリンに乗って大陸の中央を目指した。
しかし、テネアルクの上空に差し掛かった時、彼ら表情が一瞬にして変わった。
ニクシオンとルカ以外の者は眉を顰め、浅く息を吸うと、時間を掛けてゆっくり息を吐き出している。
「出発前にも言いましたが、暗黒湖の上にあるこの街は、他の場所とは違います。今は息苦しいかと思いますが、私の渡した薬は最終手段と考えてください。それまでは、体内の魔力を整えることだけに意識を向けてください」
レティシアはニクシオンの話を聞き終えると、地上に広がる街を睨んだ。
紫色のマナが漂い、街全体が淡く光帯びているように見える。
それだけで、闇のマナと自然のマナの比率に大きな差があることが分かり、一瞬だけ息を止め、ぐったりし始めたステラの首輪に手を伸ばす。
手は小刻みに震え、それでも首輪に描かれている付与術の変更を始めると、体が後ろに引かれる感覚に襲われる。
(体が吸収するマナが重すぎて、まるで過剰な酸素を吸い込んでいるような感覚だわ……気を抜いたら、意識が飛びそうになる……)
「レティシアさん! 危険です! まだ魔法は使わないでください!」
ニクシオンは必死に叫び、ヴェルドリンをレティシアの方に寄せると、彼女が何をしているのか確かめた。
彼女の額にはハッキリと分かるくらいの汗が滲み、彼女の手元の先には浅く息をしているステラの姿がある。
何をやっているのか理解しても、彼女を止めなければならないと想いが焦りを生み、もう一度大きな声を出す。
「レティシアさん! 今すぐに止めてください!」
レティシアは意識が飛びそうになる焦りを、必死に払拭しようと目の前のことに集中する。
指先から紡がれる魔法の糸が、ほんのわずかに揺れると舌打ちした。
(後少しなのよ……気が散るから、黙っててよね……)
そう思う気持ちとは裏腹に、視界がぐにゃりと歪み、彼女は吐き気を感じた。
しかし、ヴェルドリンの高度がグンッと下がるのを感じると、視界の右側に銀色の物がステラに向かった。
一瞬遅れて、銀色の物体が剣であると認識すると、彼女は咄嗟に剣を持つ人物の方を向く。
「雪の姫、君は歴代の中で、最も自分の価値を理解していない愚者だな」
レティシアはニクシオンを睨んだが、角の大きさや瞳孔に金色が見えなかったことから、ここに立っているのは別人だと瞬時に分かった。
しかし、何も知らないくせにと思うと、魔力を纏った左手で剣を弾き、右手で付与術の続きをしだす。
誰かを助けようとすることに、他者の意見や価値観は関係ないと思うと、彼の言葉も気にならない。
「はぁ……そして、歴代の中でも、最も頑固だ」
少年はそう言うと、足でレティシアを力尽くで押しのけた。
視界の隅で彼女が尻もちを着くのが見えたが、構わず白い子犬に手を伸ばし、彼女が描きかけていた付与術を消す。
そして、手のひらに集中すると、付与術に想いを乗せて描いていく。
紡がれるのは想いだと考えれば、自然に描くべきことが頭に浮かぶ。
描き終えると、白い生き物の呼吸は落ち着いており、彼女の方に視線を移した。
「これで良いか? 兄様に言えば、君が無理する必要もなかった。無理してでも助けたいと思うのは勝手だけど、それで君が死んで誰が喜ぶんだ? 少しは考えろ」
「オクター! 助かりました。レティシアさんも大丈夫ですか? 先程、オクターに蹴られていましたが、怪我はしていませんか?」
オクターは視界の隅にレティシアを写すと、彼女が頷くのが見えて安堵した。
しかし、ニクシオンを上から下まで見ると、深いため息をつきながら額を押さえた。
黒の短髪に大きな角は違和感しかなく、目線の高さが同じであることが、さらにその違和感を大きくしていると思った。
認識阻害の魔法が使われていないのを考えると、彼らに素性を話したのだと推測した。
しかし、自分と瓜二つ存在が目の前にいるのだと思うと、苛立つ気持ちが抑えられない。
「兄様……また私の姿で歩き回っていたのですか? 何度も私の姿で出掛けないでほしいと、言っていますよね? それなのに……また私の姿をしていたのですか? 出掛ける時は、ご自身の姿で出掛けてください」
「……すみません。あなたの姿が楽なものですから……つい。それにしても、オクター言葉遣いは気を付けなければなりませんよ?」
ニクシオンはオクターの発言を聞き、至って冷静にそう答えた。
すると、ため息をこぼす声がオクターの方から聞こえ、まだまだ感情の切り替えが甘いと感じた。
幼いから仕方ないと一瞬思うが、オクターを睨む少女を見ると、仕方ないと思えなくなる。
「兄様、話を逸らさないでください」
「小言はまた後でお願いします。今は、彼女に謝っておいた方が良いのでは?」
オクターはスーッと少女に視線を移すと、すぐさまニクシオンに視線を戻した。
彼女が怒ろうとも、事実を言ったに過ぎない。
それに対し、謝罪する理由が分からず、バカバカしいと思うと鼻で笑ってしまう。
「愚者に愚者と言って何が悪いのですか?」
「素直ではありませんね、無理してほしくないと素直に言えば良いのに」
ニクシオンは呆れを込めて言うと、思わずため息をついた。
(オクターは彼女の気持ちを理解していたとしても、残される者のことを考えたのでしょう……彼は彼女を、誰と重ねてしまったのやら……)
ニクシオンはそう思うと、複雑な気持ちになり、少しだけ悲しくなった。
「……私は先に戻っています。今息が苦しいと感じている者は、体が慣れたら少しずつ降下し、今より息ができるようになったから、地上に降りてください。完全に慣れることはないと思うので……」
オクターはそれだけ言うと、レティシアの方を一瞬だけ見た。
胸を押さえて苦しそうにしているのは、無理をしたことが原因だと考えると、愚か者だと思ってしまう。
口を開き、思ったことを言おうとしたが、思い留まると口を閉じた。
そして、もう一度一瞥すると、ヴェルドリンの背中から飛び降りる。
途中、何故彼女がニクシオンに頼らなかったのかを考えると、彼女とニクシオンのやり取りを思い返した。
そして、彼女の足元に転がっていた小瓶を思い出し、自分の認識が間違っているかもしれないと思う。
ストンッと地面に着地すると、彼は上空を迂回して飛ぶヴェルドリンを見つめる。
(あの小瓶は兄様が渡した物だろうな……多分あれは、自然エネルギーのマナを集めたものだ。そうなると、兄様に助けを求めなかったんじゃなくて、兄様が付与術を使えると知らなかったのか? そもそも、幻獣はマナの影響を受けやすいと兄様は知っている。だから、兄様が出発前に付与術を施すべきだったよな……もしかして、兄様は彼女がどう対処するのか試したのか?)
オクターはそう思うと、「クソッ!」と吐き捨て踵を返すと歩き始めた。
その背中は、どこかニクシオンを思わせる輪郭を持っていたが、背負っているものが違う印象を与えた。
それから5時間後、バサッバサッという音が響くと、羽を何度か震わせながらゆっくり着地しようとしているヴェルドリンの姿があった。
そして、ドンッと大きな音を立てて一頭のヴェルドリンが降り立つと、大きく翼を広げて雄叫びを上げた。
それを皮切りに、ドンッ、ドンッと次々にヴェルドリンが降り立ち、それぞれの個体が大地を震わせるような雄叫びを上げる。
レティシアはヴェルドリンから降りると、優しく大きな体をなで始めた。
手から伝わる体温は高く感じられ、時折疲弊した様子で頭を左右に動かしている。
「……さすがに疲れたよね。無理させてごめんなさい」
「気にする必要はないと言っても、レティシアさんは気にかけてしまうのでしょうね」
ニクシオンは少女の背中を見ながら言うと、暫くして彼女がゆっくりとした動作で振り返った。
首をわずかにかしげ、不機嫌そうに眉を寄せているのが分かる。
滑らかな唇が動くと、「ええ、何か悪いかしら?」と言う声から彼女の不満が聞こえてくる。
「いえ、私も分かるので、否定はしませんよ……ただ、その行動を良く思わない者もいる……ということです。気付いていませんか?」
レティシアは意味が分からず、少し悩んで「どういうこと?」と尋ねると、「分かりませんか?」と言う声が耳に届いた。
理解ができずに眉を顰めるが、ニクシオンが視線を逸らすと、彼女は続けて辺りをゆっくりと見渡し始める。
視界の先では、視線をサッと逸らすクライヴ姿が見え、続けて青白い顔をして俯いているルカとレイの姿が目に写り込んだ。
その瞬間、彼女はニクシオンが言いたいことが分かり、自然に口から「あ……」という声が漏れた。
「お気付きになりましたか? 私は出発前に体が慣れなければ、魔法を使う行為は命の危険が伴うと警告しました。それにもかかわらず、あなたは私の言葉を無視し、ステラさんを助けようとしました。その結果、ステラさんは助かりましたが、あなたの行動であなたの身を案じ、あなたが居なくなるかもしれないと考え、傷付いた者もいるのです……」
「ごめんなさい……私、ステラが危険だと分かって……そしたら、無我夢中で……」
アランはレティシアの困ったような態度を見て、彼女らしいと思うと笑みが零れた。
彼女が自分の身を危険に晒すことは、良いとは思えない。
しかし、魔の森で幼い彼女の行動に助けられたことも事実であり、悪いと一概に言えないと彼は思った。
「いいよ。レティシアのことは、おれも良く分かって」
「何ひとつ良くありません」
ニクシオンは毅然とした態度でアランの言葉を遮ると、静かに少女を見つめた。
どんなに考えても、彼女が心の奥底で何を考えているのか、その全ては分からない。
けれど、少なくとも……自己犠牲の精神があるのだと理解できる。
記憶を失っているルカでさえ、青白い顔をしてほんのわずかに震えている。
そのことから、彼が過去に彼女の行動に対し、何かしら述べていたとも考えられる。
「……レティシアさんは、私に自分は自分であると言いました。それは、あなたが言ったように箱が箱であると考える私とでは、根本的に考えが違います。しかし、どちらの考えも他者から見た場合、代わりがいないという点では同じなのです。もう少し、周りから向けられるあなたの価値を、ご自身で自覚してください。あなただって、彼らと同じ立場に立った時、同じように感じるのではないのですか?」
「ごめんなさい……そうよね……同じ立場だったら、私はきっと怒ったり……」
レティシアはそこまで言うと、背を向けたルカの姿を見て言葉に詰まった。
(分かってる……分かっているわよ! 散々、ルカに言われて怒られてきたことだもの……私だって、誰かが悲しむんだって分かっているわ! ……だけど……だけど……もうこれ以上、ルカの記憶のように……大切だと思っている者を失いたくないのよ……)
レティシアはそう思うと、丸くなって眠っているステラに視線を移した。
握りしめた拳は白さが増し、噛み締める唇は赤みが薄れている。
「……いえ、謝らなくて結構です。私もあなたという人族が理解できましたので……お陰様で、最初に私が下した判断は間違っていなかったと確証が得られました。しかし……」
ニクシオンはそこまで言うと、ルカとレティシアを交互に見て深く息を吐き出した。
彼女の考えや行動は、定めた判断基準を満たしているとは言えない。
けれど、彼女が自分の意思でここに来ているということは、少なくともルカを大切に思っているということだ。
だからこそ、目的の地に連れて行けないと言ったところで、簡単に諦められるわけがないと分かってしまう。
定めた判断基準を満たした者ですら、返ってこられない可能性がある場所だ。
そのような危険を伴う場所に、彼女を導いていいのかニクシオンは分からなくなる。
けれど、この街の上空に着いた時、ルカが一切息苦しさを見せなかったのを考えると、時間が残されていないのだと闇の精霊に言われている気がした。
「……それでも進むあなたのために、あなた方が目指していた場所に案内いたしますよ」
「え……、あ、ニクスありがとう」
レティシアは慌てて言うと、ニクシオンの目元が細まったのを見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼の赤い瞳の奥にある金の瞳孔は、獲物を捕らえたように鋭く、揺らぎが感じられない。
「その言葉は、無事に帰ってこられたら言ってください」
「そ、そうよね……」
「ルカ様と闇の精霊の魂は、思っていたよりも同調が進んでいると考えられます。そのため、私ですら彼の記憶が完全に戻るとは言い切れません。彼の記憶の鍵になる場所は、見て直接感じた方が早いので、後で詳しく話しますが、目的地はこの街の最下層に広がる暗黒湖です」
レティシアはニクシオンの言葉を頭の中で繰り返し、ルカの記憶が完全に戻らない可能性があるのを実感した。
考えていなかったわけではないからこそ、改めて失恋したのだと思った。
喉を通る唾液は胸を苦しくさせ、込み上げる気持ちは鼻の奥を熱くする。
それでも、態度に出してはダメだと思うと、前に進むために無理やり感情を押し殺して尋ねる。
「ということは、闇のマナが今よりも濃いと言うことかしら?」
「そうなります。そのため、連れて行けるのは、雪の姫の一族であるレティシアさんと、闇の精霊の契約者であるルカ様だけです。これに対し、一切の異議は認めません。そういう場所なのだとご理解ください」
「分かったわ。今から向かうの?」
ニクシオンは冷静に彼女を見つめると、一間おいて大きく息を吐き出す。
「はぁ……この街の上空に来た時点で、あなたは苦しんでおりました。すぐに行けるわけがないでしょう……焦る気持ちも分かりますが、完全に自我を失いたいのですか?」
「……闇のマナが濃いだけじゃないの?!」
「……その認識は間違っていませんよ。ですが、暗黒湖はそれだけではありません。行けば分かりますよ……そういえば……あなたは闇が無だと言いましたね。確かに闇は無です。けれど、暗黒湖は上級魔族ですら容易には近寄らない神聖な場所でもあると言えば、聡明なあなたは理解するのでは?」
ニクシオンは冷静に言うと、静かにレティシアを観察した。
陶器のように白い指先は、顎に当てられており、時折輪郭をなでている。
思考を巡らせ始めた彼女が、どのような答えを導き出すのか些か興味が湧く。
けれど、ここでは何も解決しないと感じると、じっくり考える場所が必要だと思った。
「これから、私の家に向かいます。皆様には、そこで数日過ごしてもらいます。付いて来て下さい」
レティシアは歩き始めたニクシオンの背中を見つめ、ゆっくりと歩みを始めた。
(自我を失う可能性がある場所……そして、闇の精霊が創り出した神聖な場所……元々魔族がいた土地……魂と体の結びつき……考えられるのは……そういうことね……確かに、闇のマナしかないのなら、最初に闇のマナに慣れる必要があるわね……いいえ、違うわね。少ない自然のマナをどれだけ効率よく体内に取り込めるのか、慣れる必要があるのね)
レティシアはそう思うと、ポケットからニクシオンから渡された小瓶を取り出し、握りしめると辺りを冷静に見渡した。
静けさと威厳が漂い、既に街からも神秘性が感じられる。
重厚な石造りの建物が多く、どれも壮大な装飾が施されている。
壁からもマナが感じられ、少なくとも何かしらの魔法が使われているのが分かる。
けれど、一番目を引くのは、進んでいる方角の先にある巨大な塔だ。
遠くからでも存在感があり、まるで宮殿を思わせる外見から城だと理解した。




