第167話 霧に包まれた未来
ヴァルトアール帝国から出て、20日後の神歴1504年7月21日。
太陽は全てを照らすように高く昇り、綺麗な青空が広がっていた。
海面には穏やかな波が煌めき、船は滑るように進んでいる。
「見えてきたぞー!」
クロスネストにいた展望員が大きな声で叫ぶと、甲板にいた乗員たちが次々と集まり出した。
程よい海風が吹き抜け、帆が音を立てて広がり、わずかに船が前方に引っ張られたかのように揺れる。
波が少しばかり船を強く打ち付け始め、遠くにはリスライベ大陸のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。
レティシアはデッキの前方まで進むと、視界に映る景色に思わず息を呑んだ。
リスライベ大陸の上空にはマナを多く含んだ雲が厚く覆い、まるで夜が長く続いているようにも見える。
大陸全体を囲む霧は、まるで周りの景色を拒むように、淡い青や紫の光を放っている。
「あれが、リスライベ大陸……」
「おれも初めて見たけど、想像以上に圧巻だな」
アランは冷静にそう言いながらレティシアの隣に立つと、視界の隅にいるレティシアが気になって様子を窺った。
彼女からは微かな緊張が感じられ、咄嗟に彼女にかける言葉を探す。
しかし、知っている気配が近付いてくるのを感じ取ると、彼は思わず内心でため息をついて、ゆっくりと振り返った。
「クライヴ……おまえ、その耳……薬飲んでないのか?」
「飲んでないよ。そもそも僕が薬を飲んでたのは、ヴァルトアール帝国だと目立つからだったし。あの国から出たなら、飲む必要はないんだよ」
クライヴは感情を込めずに話すと、狼特有の耳を動かし、長い尻尾を左右に揺らした。
そして、少しばかりアランをレティシアの方に肩で押すと、尻尾を使ってアランの背中を器用にたたいた。
一瞬アランが睨んだことに気付いたが、クライヴはそれをどうでもいいと感じ、さらにレティシアの方にアランを押す。
「おまえなぁ……どんな魂胆があるのか分かるけど、そろそろいい加減にしろよな」
「僕は何もしてないよ? それに、もう遠慮しないんでしょ? それなら、気になくてもいいんじゃないの?」
どこか苛立った様子でアランが言うと、淡々とした様子でクライヴは答えた。
だが、3人の元に黒髪の少年が近付くと、彼はアランとクライヴの肩に手を掛けた。
『あまり、ちょっかい出さないでね……今、彼女の気持ちが少しでも揺らいだら、ボクが許さないから』
レイはテレパシーを使い、アランとクライヴに伝えた。
その後、口元だけで微笑んで見せると、彼は2人の表情が変わるのを見ている。
しかし、アランとクライヴの表情は変わらず、レイの心には少しばかりの不安が顔を覗かせた。
一方、ルカは静かに4人の背中を見つめていたが、近くに立っているアルノエとステラに目を移すと、深いため息をついた。
出発前にレティシアを泣かせたこともあり、ルカは2人に監視されていると感じている。
実際のところ、2人がどう思っているのかは分からないが、それでもそう思わせるだけの緊張感が3人の間に流れている。
彼は再び息を吐き出したが、楽しそうに笑う声が遠くから聞こえると視線を上げた。
すると、レティシアの笑う姿が視界に入り込み、彼女を見つめているうちに思わず笑みが零れた。
それから、1時間した後、大きな港に船が定着すると、船からゾロゾロと人々が降り始めた。
ヴァルトアール帝国を出た7人も船から降りると、彼らは様々な表情を浮かべた。
レティシアはどこか期待と不安が入り交じったような表情をしており、ルカは何かを考え込んでいる様子だ。
それに対し、クライヴは何かを言いたげな表情でアランを見つめ、アランはレティシアとクライヴの方を交互に見るとため息をこぼした。
レイは拳を握っており、彼の表情から不安な様子が見受けられる。
しかし、ステラとアルノエだけは、どこか彼らのことを見守っているようにも見えた。
立ち込めている霧が、彼らの感情を曖昧にしているようにも見え、どこか幻想的でありながらも不穏な雰囲気を作り出している。
リスライベ大陸の上に広がった雲の影響で、太陽の光が届かず、すでに灯りが灯されているが、それでもどこか薄暗い。
『レティシア、これからどうするの?』
港に並ぶ船を見ながら、音量を抑えてレイは訪ねた。
夜だと錯覚してしまう薄暗さは、照らされている照明の光ですら輪郭をぼやかせている。
黒い木材で作られた桟橋が伸び、船には魔力で強化された帆が使用されている。
波止場には荷物を運ぶ獣人族の労働者だと思われる人々が、忙しく働いているようにも見える。
「そうね……とりあえず、上位魔族に会わないと、話が進まないわね」
少しばかり考えた様子で、周りを見渡していたレティシが答えた。
すると、アランが腕を組んで、人差し指でリズムを取りながら、おもむろに口を開く。
「それなら、移動手段だな……おれもいろいろと調べたけど、リスライベ大陸についてはあまり情報がなかったんだ」
「嬢ちゃんたち、ひとまず俺たちは船に食料を運び込んだら、船を隠せそうなところを探すぜ。定期船がないと言っても、ここだと目立つからな」
船の船長は、彼らが話し込んでいるのを見たが、まるで気にする様子も見せず、そう言って明るく話した。
それに対し、レティシアは頭を下げると、「ありがとうございます!」と感謝を述べた。
「いや、お礼を言うのはこっちだ。貴重な経験をさせてくれてありがとう。途中から陰影魔法と認識阻害の魔法だけじゃなくて、大量の魔力が込められた魔石が使えるとか、一生のうち、一度もないと思うぜ……」
「それは、魔石を用意してくださった、アルファール大公家とティヴァル公爵家に感謝ですわ」
「まぁ、でも……長時間陰影魔法と認識阻害の魔法は嬢ちゃんだろ?」
「いえ、私ではありません。私の使い魔のステラが力を貸してくれました」
レティシアがそう言うと、船長は目を大きく開けてステラの方に視線を向けたが、またすぐにレティシアに視線を戻した。
「そうだったのか、そりゃあ驚きだ」
「隠れる際は……」
「ああ、分かってるさ、陰影魔法と認識阻害の付与術が刻まれた魔石を、有難く使わせてもらうぜ」
レティシアが言い切る前に、船長は彼女の言葉を遮って言った。
しかし、何も気にしない様子で、レティシアは優しい笑みを浮かべ「ありがとうございます」と答えた。
「いや、いいさ。俺たちはティヴァル公爵家に仕える船乗りだ」
「それじゃ、少し辺りを探索して、移動手段を考えましょ。全員で固まってもしょうがないから」
「んじゃ、レティシア嬢は僕たちと行動ね」
今度はクライヴがレティシアの言葉を遮ると、レイがクライヴを睨んだ。
「レティシアは、ボクたちと行動する」
「いいや、悪いけどさ、ルカって君のお兄さんなんでしょ?」
クライヴは冷静に話しながら1度ルカに視線を向けると、ゆっくりとレイに視線を戻した。
レティシアがレイと行動するということは、必然的にルカとも一緒になる可能性がある。
今のクライヴは、アランのことも考えると、できればその状況は避けたい。
「そうだけど、今は関係ないだろ?」
(そうだよ。関係ない……関係ないけど……悪いな。僕も引けないんだよ)
クライヴはそう思うと、できるだけ感情を表に出さないように話し出す。
「ルカはレティシア嬢を泣かせたし、今はまた彼が彼女を傷付けないか、監視が付いてるようだと僕には見える。それに、こう言っちゃ悪いけど、彼は信用できない。それなら、レティシア嬢は僕とアランと一緒に行動するべきだ」
クライヴはレイが睨むと、彼に冷たい視線を向けた。
立場が逆ならば、きっと同じことをしていたと思うと、少しばかりの罪悪感を抱いた。
だが、彼はその罪悪感すら、アランのためなら大したことがないと感じた。
「睨んでも無駄だよ? ここは、もうヴァルトアール帝国じゃない。君たちのルールは通用しない土地だ。アラン、レティシア嬢、行くよ」
クライヴはレティシアの手を引っ張ると、「え? でも……」と困惑したようなレティシアの声が聞こえた。
それでも、彼はアランの手も掴むと、「いいから、行くよ」と言って振り返らずに歩き出した。
レティシアは何度か振り返るが、ルカの視線が他へと移ると、唇を噛み締めた。
記憶を失っているから仕方ないことだと、自分に言い聞かせても胸が苦しいと感じてしまう。
こんな気持ちに気付かなければ、つらい思いもしなかったと考えると、ゆっくりとクライヴが引っ張る手を見つめた。
その瞬間、彼女の手にふわっと青い尻尾が触れると、思わず彼女はクスッと笑ってしまう。
「レティシア嬢、大丈夫だよ……きっと、アランならレティシア嬢の心配な部分も受け入れてくれると思う。アランの前で無理しないでいいよ」
「ありがとう、クライヴ」
「僕じゃなくて、アランに言って……僕より、アランの方がレティシア嬢のこと心配してるから」
クライヴは淡々とした様子で言うと、レティシアの手を離した。
そして、アランの手を引っ張って引き寄せると、彼女の前に突き出した。
「アラン、心配してくれてありがとう」
アランはレティシアの言葉を聞き、少しだけ複雑な気持ちになった。
ルカのことを思えば、必要以上に彼女と関わるべきではない。
しかし、彼女がいたからこそ、番を失った深い喪失感が和らいだのも事実だ。
手にクライヴの尻尾が触れると、アランは深く息を吐き出した。
(彼女の幸せを望むのであれば、彼女に選ばせればいいか……)
彼はそう思うと、彼女に手を差し出した。
そして、始めて2人で出掛けた日のように笑みを浮かべると、優しく「……それじゃ、行こうか」と告げた。
一瞬、目を見開いてレティシアがアランを見たが、すぐにそれは柔らかい微笑に変わった。
彼女がアランの手を取ると、2人は歩き出し、ピンッと耳を立てたクライヴは尻尾を左右に振っている。
少しだけ遅れてクライヴが歩き出すと、前を歩く2人から楽しそうな会話が聞こえた。
一方、レイは遠ざかる3人の背中を見つめながら、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
彼は落ち付くために息を吐き出すと、クライヴの行動も責められないと思った。
レイにとってルカが大切なように、クライヴにとってアランが大切で行動したのだと理解できる。
そして、アランの番がすでに亡くなっていることを、レイはたまたま調べているうちに知った。
エルガドラ王国の闇に消えた幼い少女は、レティシアのように聡明だった。
それゆえに狙われたのだと、推測すらできてしまったくらいだ。
竜人は獣人よりも番を求め、生涯1人しか愛さず、亡くなった場合は喪失感で塞ぎ込む生き物。
アランがそうならなかったのは、きっとレティシアのおかげだと考えれば、レイはやり場のない感情で胸がいっぱいになった。
『……本当、青草いのぅ』
ステラがそう呟いた瞬間、ルカが勢いよく彼女の方を向き、胸を強く抑えた。
しかし、ルカを一瞥したステラは、そのまま歩き続けると、ルカの方をもう一度向いた。
『ルカが覚えていなくても……ステラはルカの頼みを忘れてないから』
彼女はそれだけ言うと、短い手足を動かして3人を追い駆けた。




