*番外編~黒いドレスと黒百合~
神歴1504年7月7日。
夜の帝都オーラスの空には、宝石を散りばめたように無数の星が瞬き始め、オレンジと群青が交じり始めた空を鮮やかにする。
着飾った貴婦人たちと正装の紳士たちは、煌びやかな馬車から降りると、談笑しながら一軒の邸宅へと足を運ぶ。
邸宅の大きな玄関扉の左には、招待状を確認する男が笑顔で出迎え、右には腰に剣を下げた門番が無言で控えていた。
男性たちの間には赤い絨毯が邸宅の中まで敷かれ、人々はゆるやかに中へと進んでいく。
玄関を入ってすぐの広い玄関ホールには、艶やかな黒百合が、花瓶の口からあふれんばかりに咲いている。
「ね、あれって……」
1人の貴婦人が花瓶を指差しながら言うと、隣にいた紳士は女性の耳に顔を近づけ、右手で口元を隠した。
「噂は本当だったんだな」
暫くの間、男女は移動することもなく、花瓶の方を見ながらコソコソと話を続けていた。
「あの、早く進んでくださりませんか?」
ミルキーブランの髪をした貴婦人が淡々と告げると、先程の男女は慌てたように一礼して早歩きで進んだ。
ペールブルーのドレスは彼女のミルキーブランの髪を際立たせ、ラベンダー色の刺しゅうがアクセントをつけている。
それに対し、女性の隣にいる紳士は、黒いドレスコードの袖に、ローズピンクのカフスボタンがキラッと光る。
男性の長い焦げ茶の髪は一つにまとまっており、整えられたアップスタイルの女性とは対照的だ。
「……そんなに、私と一緒なのが不服ですか?」
髪色を変えたラウルが、壁際に向かいながら女性に尋ねると、ラウルの後ろを歩いていた女性は、驚いたように目を丸くした。
そして、バッと扇子を広げて口元を隠すと、少しだけ視線を逸らした。
「いえ、そういう訳ではなく、このような場は給仕側に周ることが多いので……あまり慣れていないだけです」
「そうですか……リンさん、今日は私がエスコートいたしますので、楽にしてください」
ラウルは緊張を解そうと優しく言うと、女性の冷ややかな視線が突き刺さる。
そして、彼女が短く息を吐き出すと、ほのかに苛立っているのが分かった。
「遠慮させてもらいます。それに、ワタシはリンではなく、メイです」
やらかした……と内心で思うと、ラウルは数秒だけ息を止めてしまう。
レティシアから紹介されて、先日リンとメイと顔を合わせているが、彼は瓜二つの2人をいまだに区別できない。
話し方や魔力の気配も似ており、わずかな違いなど、どこにもないようにすら思ってしまう。
「見分けがつけられずに、気分を害してすみません。御二人にお声を掛けた時、リンさんが来ると聞いていましたので……」
「言い訳は結構です。中に髪色を変えたリンがいるはずですので、くれぐれも間違わないでください」
メイと名乗った女性は言い切ると、ふんっと鼻を鳴らしてつかつかと歩き出した。
しかし、その女性の目は左右に動いており、隅々まで観察しているようでもあった。
「……メイさん、お待ちください。今日招待されたのは私であり、あなたは私の同行者です。勝手に動き回られては困ります」
本来であれば、男性の腕に女性が手を軽く置き、歩くはずなのに、今はラウルよりメイが先を歩いている。
1人で参加している者がいない中、それは周囲から目立ち、人々の注目をわずかに集めている。
「分かっていますよ? しかし、ワタシが勝手に動いているのではなく、あなたがあまりにも遅いので、結果的にそうなっているだけです」
「私に合わせてください。これ以上の狼藉は認められません」
ラウルは冷たく言い切ると、メイと名乗った女性の口元は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
その瞬間、彼女を見る目は細まり、「それ、本気で言ってる?」と嘲笑うように言われると、彼は奥歯を噛み締めた。
それでも、場を弁えてもらわなければ、いろんな場面で支障をきたすと思い、一歩も引けない。
「ええ、本気です」
「たかだか、ガルゼファ王国の王子が、レティシア様とレイ様から指示を受けたワタシに命令するの? 本気で、フリューネ侯爵家とオプスブル侯爵家を敵に回す覚悟はあるの?」
女性は胸に軽く右手を添え、口元を扇子で隠しながら言うと、クスクスと笑いを浮かべている。
それに対し、ラウルの眉間にはシワが寄っており、細まった目元から見えるローズピンクの瞳は、どことなく冷たい。
「……御二人から、何か指示があったのですか?」
「ええ、あなたの命令は、任務に差し支えなければ、聞かなくていいと言われているわ」
ラウルは深くため息をつくと、頭が痛くなって額を押さえてしまう。
どこからどこまでがレティシアとレイの指示か分からず、敵対するつもり彼からすれば、発言は慎重にならざるを得ない。
しかし、だからといって許される行為ではないし、況してや下のように扱われる筋合いはない。
「では、差し支えますので、今は私に合わせてください。そもそも、何がそんなに不満なのですか?」
「分からない?」
女性が首をかしげながら尋ねると、ラウルは左側に視線を向け、続けて右側に視線を向けた。
玄関ホールは家の顔だと思えば、パーティーの時は色とりどりの花が基本的に並ぶ。
それは、招待した者たちとの親交を示し、敵対する意思はないと示すためだ。
それなのに、この玄関ホールを飾っている花は、黒百合だけだ。
帝国の貴族であるならば、黒百合がどの家を示すか理解しているからこそ、皆足を一度止めているのだと彼は思った。
「もしかして……黒百合ですか?」
「分かっているなら、ヘラヘラしないで」
ラウルは軽く目を瞑ると、息を吸い込んで冷静になろうとした。
目の前にいる女性は、オプスブル侯爵家と親交が深いフリューネ侯爵家のメイドだ。
双方の家の当主であるレティシアとルカの仲を考えれば、彼女が怒るのも不自然ではない。
そして、黒百合が玄関ホールを飾て良いのは、オプスブル侯爵家か正式な婚約者の家だけだと、王族の彼は理解している。
ゆっくりと目を開けると、目の前人物を見て思わず苦笑してしまう。
「やはり……それなら、愛想笑いくらいしてください。そして、あなたはリンさんですね?」
「いいえ、ワタシはメイです」
女性がハッキリ言い切ると、ラウルは首を左右に振った。
「……いいえ、あなたは間違いなく、リンさんです。メイさんであれば、オプスブル侯爵家の名をここで出しません。レティシア様からは、そのように聞いております」
リンは扇子で口元を隠すと、思わず笑みが零れた。
彼が言ったように、主であるレティシアは確かに言っていたが、あくまで聞き流せるほどのニュアンスだ。
それなのに、しっかり覚えてたとなれば、彼が適当に人の話を聞いていない証明になる。
つまり、こちらが何かをするにも、彼の存在が邪魔にならない保証になるという事でもある。
「ふふふ、レティシア様から言われたことを、しっかりと覚えていたのですね? ――では、ラウル殿下に合わせます」
ラウルはリンが左手に手を添えるのを見て、安堵してため息がこぼれた。
けれど、黒百合に視線を移すと、今後のことを考えて首を左右に振ってしまう。
「しかし、黒百合ですか……困りましたね」
「そうですね……黒百合はオプスブル家の紋章です。それなのに、出迎えの花として玄関に飾っているのをレイ様が知ったら……確実にあのお方ならキレますね……ルカ様の意志を無視していると……」
リンは予測できることを言ったが、実際にレイが怒るのかは知らない。
レイの全てを見透かしたような視線は、レティシアやルカと時々重なるが、何か隠している気がしてならない。
しかし、聞いてしまえば、二度とレティシアの近くにいられないと思い、詳しく聞くことはできなかった。
それでも、リンはレイが確実にブラコンだと確信しているからこそ、自分の発言に嘘はないとも思っている。
「まぁ、それはそれでいいのでは?」
リンはあっけらかんと言ったラウルの声を聞き、驚きで目を見開いた。
そして、彼の方に視線を移し、「……何か考えがあるのですか?」と尋ねた。
次の瞬間、彼がニッコリと笑うのを見て、目を細めて彼に冷たい視線を向けてしまう。
「いえ、ありませんよ? しかし、ここには目的があって来ていますよ。目的は言えませんが……」
「そうですか。くれぐれも、ワタシの邪魔はしないでくださいね」
ラウルはリンが興味を失くしたように言うと、吹き出しそうになって右手を軽く口元に添えた。
けれど、これ以上ここに長居するべきじゃないと判断し、ゆっくり歩き出した。
その後、彼女が手を離さないのを見ると、彼女にだけ聞こえる声量で呟く。
「お互い様です。くれぐれも、私の同行者であることを忘れないでください」
2人は広間に入って行くと、招待された人で賑わっていた。
壁の近くに並ぶテーブルには、様々な軽食や一口サイズのデザートが並び、会場を甘いものにしている。
黒いテーブルクロスが掛かったテーブルの上には、等間隔に赤いアネモネと黒百合が一輪ずつ生けられており、細い花瓶の足元には白い花びらが散らばる。
「ラウル殿下、笑顔が怖いですよ」
ラウルの顔を盗み見たリンは、呆れて小さくため息をつきながら呟いた。
「失礼いたしました。これでよろしいでしょうか?」
リンはラウルの目の奥から強い怒りを感じ、彼から視線を逸らしてしまう。
そして、少しだけ考え、「あまり変わっていないかと……」と正直に述べると、テーブルの方に視線を向けた。
白い花びらが視界の中央に留まり、あれは別物だと自分に言い聞かせる。
「明らかに白い花びらは……ホワイトドロップに似た物を使用しているので、怒りたい気持ちも分かりますが、ホワイトドロップではありません。これは、事前にメイが確認いたしました」
「……そうでしょうね。もし仮に本当にホワイトドロップを使っていた場合、確実に大きな問題に発展します」
間を置いてから話し出したラウルは、言い終えると視線だけをリンに向けた。
すると、首を少しだけかしげて、こちらを見ている彼女のクリッとした目元が印象に残った。
「国際的に……ということでしょうか?」
「少なくとも、エルガドラ王国はいい顔をしませんし、ガルゼファ王国は確実にそこをつきますね。そもそも、国同士で親交が深い場合は、そこまで問題になりません。しかし、一貴族と一国が親交深いということは、時には国さえを揺らがす問題に発展するのですよ……それにしても、なぜフリューネ侯爵家でメイドをしているあなたが、怒らないのでしょうか?」
リンは正面を向いているラウルから、視線をテーブルがある方に真っすぐ向けると、深く息を吸い込んだ。
視界の隅では、苛立った様子で給仕しているメイの姿があり、それを見て内心で『メイは怒っていますよ?』と返答してしまう。
しかし、自分と同じ顔が怒っているのを見ているからなのか、妙に苛立ちは薄れて冷静になり、落ち着いて答える。
「ワタシはレティシア様から、想定し得る範囲で話を聞いておりました。なので、レティシア様の考えが当たったなぁっと感心しました」
ラウルは少しばかり目元を細めると、眉間にほんのりとシワが寄った。
「なるほど……あの方は、どこまで想定してるのか、たまに気になります」
「レティシア様は、イリナ・モンブルヌ嬢に会うたび、彼女から敵視されていた感じていたそうで……完全な排除はなくとも、それなりの意思表示はしてくる……と申されていました。イリナ嬢も、表立って意思表示すれば、確実に帝国内でも問題になると分かっていて、本物を使うことは避けたのではないのでしょうか?」
リンの話を聞いていたラウルは、眉を顰めると、数秒の間目を閉じて思考を巡らせた。
そして、ある程度考えをまとめると、目を開けてできるだけ冷静に尋ねる。
「……それは、レティシア様がルカ様と仲がよろしいからでしょうか?」
「それに関して、レティシア様は何も言っていませんでしたが、ワタシはそうみております。もし、イリナ嬢がルカ様を婚約者として見ているのであれば、女性の影は面白くないですからね」
ラウルはリンの話も一理あると考えた……が、イリナのことを浅はかな女だと思った。
爵位が上がるほど、男も女も常に腹の探り合いだ。
見せかけの敬意と、裏では毒を盛るくらいの腹芸を持たなければ、敵を増やして首元を噛みちぎられる。
特に婚約や婚姻は、どこまで腹を探れたのか後の結果に繋がるため、常に牙を研ぎ澄ましている。
「格式が高い家は、イリナ嬢のような女性は選ぶと思いませんけどね」
「このパーティーの主催は、イリナ嬢でしたっけ?」
リンは何気なく訪ねると、ラウルの方から重たいため息が聞こえた。
彼がどんな表情をしているのか見ようとしたが、一瞬だけ考え、右に流れていた視線を正面に戻した。
「そうです。格式が高い家は、婚約者になる者の行動も見ております。なので、家の意向とは関係なく、このような個人的な挑発をする者は、確実に婚約者から除外します」
ラウルが言い切った瞬間、広間は少しばかりざわついた。
本日の主役、イリナ・モンブルヌの登場だ。
真っ黒なドレスは、腰の辺りからふわっと広がっており、腰の辺りにある赤いリボンがある。
耳や首元には赤い宝石が輝き、赤と黒の扇子を優雅に揺らし、笑みを浮かべる口元の赤い紅が白い肌に際立つ。
「粗方、聞いておりましたが、これは……」
ラウルはイリナのドレスの方を見ながら、厳しい表情をした後、さらに眉間のシワが深くなった。
その隣では、リンもまたラウルと同じように険しい顔をしている。
「黒い生地に、赤いアネモネの刺しゅうですね……髪飾りも、黒百合をモチーフにしています」
「……何度か普段の彼女を見かけましたが、黒を基準にしたドレスを着て、赤い宝石で自身を飾っていましたよ……そのことも、報告してくださいね?」
リンは隣からピリッとした感覚を味わうと、柔らかく軽やかなラウルの声が耳に届き、笑みを浮かべているのだと想像できた。
けれど、微かに漂う空気には怒りが含まれており、ふとラウルの顔を見ようとしたが、途中で左手に視線を落とした。
視界の隅に映る彼の握りしめた拳は、ほのかに白くなっており、血管が浮き出ている。
それでも、雰囲気に呑まれないために、できるだけ冷静に振る舞う。
「それについては、既にアラン殿下がエルガドラ国王に報告していますよ」
リンとラウルの視界の先では、貴族たちにあいさつして回るイリナの姿があり、曖昧な表情をしている者が多い。
生地や装飾品を褒める者の姿もあるが、色について触れている者はいない。
「それなら良かったです。――それにしても、イリナ嬢の服装やこのパーティーの飾りについて、異議を唱える者がいないのだと考えると、帝国貴族は勘違いしている方が多いのでは?」
「それについて、レティシア様は冷静に予測を立てていましたよ」
給仕している男性が2人の近くに来ると、ラウルはグラスを2つ手にした。
気泡がグラスの中で下から上へと上がり、耳を澄ませればシュワシュワと聞こえてきそうなほど、気泡が細かい。
片方のグラスをリンの前に差し出し、「といいますと?」と彼は淡々とした様子で尋ねた。
「レティシア様は、オプスブル侯爵が絡んでいる以上、フリューネ家以外の貴族は、異議を唱えたくても唱えられないのだと言っていました」
ラウルは細いグラスを口元まで運ぶと、暫く考えて「なるほど……」と呟いて一口飲んだ。
権力がある家に異議を唱えるのは、元からそれ相応のリスクがある。
そして、オプスブル家が絡んでいる以上、そのリスクは格段に跳ね上がるのも理解できる。
けれど、オプスブル家とフリューネ家の関係性を考えると、果たしてレティシアがどこまで考えていたのか疑問が残る。
それなら……と思い、考えをある程度まとめると、考えを悟られないように再び口を開く。
「……オプスブル侯爵家が明確に否定していないため、異議を唱えて問題視される危険性の方が大きいという判断ですか。――それは分かりますが……オプスブル侯爵家がフリューネ侯爵家をどう扱っているのか考えれば、この場での沈黙は肯定になると分からないのでしょうかねぇ」
ラウルは言い終えると、クイッとグラスを傾けて飲み干した。
そして、黙ったままのリンを視界の隅に映し、ニヤリと笑みを浮かべて彼女の方を向いて尋ねる。
「おや? それについても、レティシア様から何か?」
「……ワタシも沈黙でお答えします」
小さく息を吐き出したリンは、淡々とした様子答えた。
「あったのですね……本当に、レティシア様は聡明な方です。彼女を敵に回したくないので、私もしっかりと役割を全うします」
ラウルはリンの様子を見ると、続けて視線をイリナに向けて目を細めた。
レティシアからは、彼女がいなくなってから、イリナがパーティーを開くかもしれないと聞いていた。
しかし、ラウルは聞いていただけだ。
そのため、彼女から明確な指示があった訳ではなく、このパーティーに参加したのもラウルの意志だ。
けれど、彼女から『もし、パーティーに参加するなら、ガルゼファ王国の王子として、意見をちょうだい』と言われていた。
そのことも含めて、考えるのであれば、意見は彼女に対して述べるのではなく、別の趣旨が含まれていた可能性があるのだと彼は考えた。




