第153話 解けない氷
暫くしても、少年の小さな笑い声が止むことはなかった。
部屋に小さく響く声は、どこか緊張感を解いてもいるようだ。
時折、一瞬止まったかと思えば、また小さく笑い声が聞こえてくる。
だが拳を握るレティシアは、顔を真っ赤に染めており、手が小刻みに震えている。
「笑うことないじゃない」
レティシアは不機嫌に言うと、少年から「ごめんね」と言う声が聞こえた。
彼女は腕を組むと、ゆっくりと少年に視線を向けた。
気持ちの整理はついていないが、感情に向き合いながら進むしかないことを理解している。
そのため、前に進むためにも彼女は尋ねる。
「これから、あなたのことは何て呼べばいいの? 精霊さん」
「ふふふ、その呼び方は、ダメだよ。それに、その能力を知ってるのは、レティシアだけだからね」
少年は笑いながら答えると、彼女の戸惑いを楽しむようにその様子を観察した。
レティシアは微かに首をかしげ、悩むように白く細長い指で顔の輪郭をなぞる。
時折、ロイヤルブルーの瞳は微かに揺れ動き、彼女との視線が重なる。
「ルカもあなたの能力を知らないの?」
「もしルカが知ってたら、ボクたちはもっと話せたはずだよ。それに、ボクの能力は精霊たちも話さない」
彼の言葉を聞いたレティシアは、一瞬考え込むように目を伏せる。
(彼には精霊たちが見えているのね……そして、精霊たちも彼の言葉には従う……彼がルカの存在を見つけられたこと、彼が接触するまで私が彼の存在に気付けなかったこと……精霊の姿になれること……そこから考えられるのは、彼が精霊と契約しているわけじゃなくて、彼が精霊の力を元々持っていたことになるわ。――だけど、そうなると……魔力量が精霊と契約しているルカより少ないのはなぜ?)
彼女はそう思うと、ベッドに座る少年に視線を向けて「そうなのね……」と呟いた。
その瞬間、彼が笑みを浮かべると、彼女は小さく目を見開く。
背筋は冷たい汗が流れ、思考を読まれたのかという考えが浮かぶ。
「そうだなぁ……レティシアは、ボクの名前を知ってるみたいだけど……ボクがルカの代わりに動くなら、ちゃんと自己紹介はしとくべきだよね」
少年はそう言って立ち上がると、彼女の瞳は小さく揺れた。
彼女が何を考えているのか、それは彼にはハッキリと分からない。
それでも、未知の力の存在が彼女に動揺を与え、わずかな変化を彼女にもたらした。
そのことを思うと、彼は少し楽しいとも感じた。
そのため、彼女の表情をもっと引き出すために、彼は胸に手を当てると丁寧にあいさつする。
「改めまして、ルカ・オプスブル侯爵の弟、レイ・オプスブルでございます。オプスブル家は、すでにレティシア様に忠誠を誓っております故、これからはボクも全力でお支えいたします。どうかよろしくお願いいたします」
レティシアは彼が微笑むのを見て、ふとルカと初めて会った日のことを思い返していた。
あの日に見つめてきた赤い瞳とは違い、レイの薄紅色の瞳は全てを見透かすかのように見つめてくる。
ほんのわずかに上がった口角から、レティシアはからかわれたのだと分かり、呆れたように「……堅苦しいのは苦手よ……」と告げた。
すると、途端にレイが子どものように笑いだすと、彼女は大きくため息をついた。
「うん、知ってるよ。でも、ちゃんとあいさつしとこうと思ってね」
「そう、それならいいわ。とりあえず、ここまで私が掴んでいる情報を話すわ」
レイはおなかを押さえながら、目に溜まった涙を拭ってレティシアのことを見ていた。
だが、呆れたように話していた彼女が、そこまで言うと彼女の雰囲気が変化したことに気が付く。
その瞬間、レイの表情からは笑みが消え、彼は真剣な目を彼女に向けた。
「まず、私を最初に襲撃した人物には、蛇のタトゥーがあったわ。これは、今から15年前に起きた、襲撃犯と同じ組織だと考えても良いと思うわ」
レティシアは淡々した様子で話すと、レイはベッドに腰を下ろし、真剣な表情を浮かべた。
15年前の情報は、オプスブル家であるなら、知っている者も多い。
しかし、レティシアが15年前の詳細を聞いたのは、数年前の話だ。
「15年前の話は誰から聞いたの?」
「ルカよ」
レイはレティシアの言葉を聞き、なぜルカが話したのか考えた。
彼自身、15年前の詳細は直接誰かに聞いた話ではない。
ルカのことを少しでも知ろうと調べた結果であり、ルカの残酷な一面を知れた出来事だ。
単純に考えれば、意中の相手にそれは知られたくないと思うのが普通だ。
それにもかかわらず、教えたということは、そこに何かしらの情報が含まれている。
(ルカは、ボクがレティシアに情報を渡す前より、早い段階でモグラの正体に気付いてた? でも、それなら今も泳がせるのはなぜだ?)
レイは腕を組むと、頬杖をついて「……後分かってるのは?」と問いかけた。
「今回、送り込まれた刺客の中には、蛇のタトゥーが入っていなかった者もいること。そして、蛇のタトゥーが入っていなかった者は、共通して人質を取られていたわ」
「人質は取り返せたの?」
「いいえ、すでに亡くなっていたわ。遺体は回収して、証拠が出ないか調べているところよ」
レイはレティシアの話を聞き、目を細めて眉間にシワを寄せた。
遺体を回収し、それを調べることは何も不思議ではない。
襲撃者の身元や背景に関する手がかりを見つかる可能性もある。
しかし、彼女の話し方は、含みがあるように彼は感じた。
「遺体の破損が酷かったのか?」
「いいえ、遺体は綺麗だったわ」
淡々とレティシアは答えると、レイが腕を組んで考えているように見えた。
どこかレイの姿がルカと重なるが、彼の言動や行動が全てルカと一致しているわけではない。
そのことに、寂しいと思う気持ちは湧くのに、どこかホッともしてしまう。
彼女はそっと胸を押さえると、静かにレイの行動を見つめる。
「もう見たの?」
「ええ、綺麗に結晶化していたわよ」
「はぁ……結晶化ね……その話になると、ボクじゃ力不足かもね」
レイは深くため息をつくと、そう言って天井を見上げた。
組んでいた手は解かれ、力を失くしたように肩からぶら下がる。
彼の脳裏には結晶化した人が映り、当時の様子を思い出していた。
(当時は、気になって精霊の姿で見に行ったけど……何時もより疲れを感じて、精霊の姿を短時間しか維持できなかったんだよね。それに、触れようと思ったけど、力が上手く使えなくて近付くことも難しかった)
レイが考えを巡らせていると、ふとレティシアが「なぜ?」と尋ねた。
彼は視線をレティシアに向けると、重なった視線から逃げるように彼は目を逸らした。
言葉自体は短かったが、向けられた視線は冷静で、何かを見極めようとしているようにも感じる。
「理屈とかは、原因が分からないのが大きいんだけどさ、最後に見た時、力が阻害されてるように感じたんだよね。当時のボクが感じた気のせいかもしれないから、ボクもその遺体を確認してもいい?」
「ええ、それは構わないわ。話を通しとくわ」
「助かるよ」
安心したようにレイが言うと、レティシアは腕を組み、ゆったりとした動作で顎に触れた。
(力の阻害を感じられる時は、魔力封じのように魔力の流れを制限されていることが多いわ。だけど、結晶化した人からは、魔力の流れが制限されているようには感じなかったわ。むしろ、どちらかと言えば、魔力が枯渇した人と似ていたわ……)
レティシアは対抗戦のことを思い返して「力の阻害ね……」と呟き、床を見ながら続きを話す。
「実はルカも、彼の力を使ってた時……なんか変だったわ。闇に沈めるのに、時間が掛かってるように感じられたの……力が阻害されているとも言っていたわ……」
「……沈める範囲は、その後に広げた?」
「ええ、広げたわ」
思案する2人からは、どこか緊張感に包まれていた。
2人は視線を合わせず、まるで遠くを見つめている。
時折、わずかに瞳が左右に動き、考えを巡らせているようだ。
窓の外から聞こえる音は、室内の静けさを際立たせ、窓に当たる風が静寂を許さない。
「それなら、本当に力が阻害されたのかも知れない……」
レイがポツリと呟くと、レティシアは首をかしげる。
そして、彼女は彼の方を向くと、抱いた疑問をすぐさま言葉にして話す。
「でも、それなら変じゃないかしら? 刺客から感じた気配は、7年前のエルガドラ王国で感じた物と同じだったわよ? でも、7年前のルカからは、力が阻害されているようには感じなかったわ。それに、今回は私が刺客を凍らせたから、刺客たちも結晶化していないわよ?」
レイは考え込むように目を細めると、落ちついた様子で「性質変化したか……」と呟いた。
(性質の変化は、自然界で考えれば不自然じゃない。それは、魔法の性質にも言えること……だけど、火属性単体からダイヤが創り出せるわけじゃないんだよね。……それに、単純な性質変化だけじゃ、創り出された氷から魔力が阻害されるほどの性質変化は……起きるはずがないんだよね……)
レイはそう思うと、真っすぐにレティシアに視線を向け、彼女を瞳に映すと話し出す。
「もしくは、誰かが意図的にルカの行動を邪魔したか……後、気が付いたことは?」
「そうね、ライラに突き飛ばされたわね。それぐらいかしら?」
レティシアの声は、冷静で落ち着きが感じられた。
しかし、彼女を見ていたレイは、彼女の瞳に宿る怒りを見逃さなかった。
思わず彼は鼻で笑うと、呆れたように首を横に振って口を開く。
「それは気が付いたことじゃなくて、やられたことだろ?」
「そうね。タイミングがタイミングだったから、さすがに悪意を感じたわよ」
レティシアは一度落ち着くために息を吐き出すと、冷静にそう言った。
それでも、あの時のことを思い返すと、ライラに対する怒りが再熱する。
「他には何かないわけ?」
「……そうね、関係あるのか分からないけど」
レティシアはこの後、光に呑まれるまでのことを、淡々とした様子で話し始めた。
ライラが凍った刺客に抱き付いたことから始まり、ルシェルがルカを止めていたことも含めてだ。
レティシアがルシェルの話に触れると、レイは一瞬怒りに満ちた表情を浮かべ、「あのクソ皇子、よくも兄さんに……」と呟いた。
しかし、それでも彼女は話を止めることなく続けた。
話を聞き終えたレイは、深く息を吐き出しながらベッドに倒れ込んだ。
そして、拳を天井に向けて突き出し、暫く眺めて「あの場にいたら、多分ボクは殴り掛かっていたなぁ」と小さく呟いた。
次第に拳が開かれると、彼は手のひらを見つめ、「ま、そんな資格は、ないか……」と弱々しく言った。
下げられた手は、額に置かれたかと思えば、腕が目元を追い隠していく。
「ボクは、これから散歩に出るけどさ、ここに帰って来てもいいの?」
レティシアはレイの言葉を聞き、一瞬驚いた。
彼は今日目覚めたばかりで、過去の人生で医者として働いたレティシアにとって、それは許可できないことだ。
しかし、彼の迷いや不安を含んだ声を考えれば、彼の発言も納得してしまう。
「あなたがそうしたいなら、そうすればいいわ。ただし、出掛けるのは明日にしなさい」
「分かったよ……ねぇ、レティシアやルカに、迷惑が掛からない?」
目元を押さえる少年の声は震えており、レティシアは大きく息を吐き出した。
(ルカがこの家にいる限り、レイをルカに近付けたくないモーガンやルイズは、黙ってないでしょうね。彼らのことだから、レイを連れて帰ろうとするのは目に見えてるわ。まぁ、どうにもならなくなったら、牙を剥いてきた相手に容赦はしないわ)
レティシアは薄っすら笑みを浮かべ、レイを安心させるように優しさを込めて話す。
「気にしなくていいわ。それに、ルカが目覚めないのなら、あなたが臨時で就くのは当然だし、そうなった場合は、ルカの仕事を引き継ぐのも当然よ。あなたがここにいるための理由は、いくらでもつけられるわ」
「ごめん……わがままだって分かってるけど、少しでもルカの傍にいたいんだ」
あまりにも儚いレイの声に、レティシアは視線を落とした。
彼が抱える家庭の不安も、彼が抱える家庭の悩みも、レティシアが解決することは出来ない。
それは、彼女が抱いてる悩みと同じように、自分で向き合って答えを出すしかないからだ。
レティシアはドアまで向かうと、彼の方に振り向き答える。
「分かっているわ。私は仕事に戻るから、好きに過ごしてちょうだい」
レティシアは部屋から出ると、ドアの向こうから声を押し殺して泣く声がわずかに聞こえた。
握られた拳は白い肌に血管を浮き立たせ、抱く気持ちとは違って、頭をどこまでも冷静にさせる。
それでも、踏み出した一歩は力強く、静かな廊下には足音が響くことはなかった。




