第150話 冷たい雨と胸の内
雨の音に混じって近づく足音が聞こえ、レティシアは静かに目を閉じた。
手にあるわずかな重みが、今の彼女には重く、割れたガーネットが胸の痛みと失意をもたらす。
どんなに魔力探知や感覚を研ぎ澄ませても、赤い瞳の青年の気配を見つけることができない。
彼の存在の大きさが、彼女に秘められていた思いを悟らせ、同時に不安を与える。
だが、刺客の気配は消え去っており、彼が守ってくれたのだと思うと、喉が再び熱を持ち始める。
込み上げた感情は彼女を支配し、瞼を開けると世界は色を失くして歪み始める。
短剣をなでると、赤い筋が少し走り、痛みは感情に呑まれた。
「レティシア様! ご無事でしたか?!」
カトリーナは座り込んでいるレティシアに駆け寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。
だが、彼女の瞳からは光が感じられない。
それでもカトリーナは話を続ける。
「レティシア様の元に向かったルカ様が見当たらないのですが、ルカ様はどちらにいるのですか? もう身を潜めたのですか?」
カトリーナの声はレティシアの耳に届いたが、それは遠くで話しているように感じられた。
けれど、カトリーナの言葉は、レティシアに現実を突きつけ、激しい痛みに変わる。
「レティシア、無事でよかった」
ルシェルは微笑みながら言うと、ゆっくりレティシアの顔が彼の瞳に映る。
感情を失くした彼女の瞳が、彼の目には綺麗に映り、彼は優しく微笑みかけている。
「もう大丈夫だよ、レティシアには僕がいるから。怪我してるね、向こうで治療しよう」
「お姉さまぁ、ご無事でよかったですぅ」
ルシェルはレティシアを立たせようとした時、ライラの声が聞こえ、レティシアの動きが止まった。
レティシアの顔を映す彼の瞳は、ライラを見つめる確かな怒りが浮かび、思わず小さく舌打ちが漏れた。
「ララ、悪いけど、後にしてくれるかな? レティシア、怪我してるみたいなんだ」
「それならぁ、ララも手伝いますぅ」
ライラはそう言いながら、パンと手をたたくと、パッと明るい笑顔を見せた。
しかし、彼女がレティシアに手を伸ばした瞬間、ルシェルが「触るな!!」と怒鳴った。
彼の言葉には確かな怒りが感じられたが、すぐさま彼はハッとした表情を浮かべると、ライラに微笑みかけて口を開く。
「ごめんね。レティシアは怪我してるから、むやみに触らない方が良いと思うんだ」
ルシェルは今度こそレティシアを立たせると、「行こう、レティシア」と言って彼女を支えながら歩き始めた。
降り注ぐ雨は冷たく、それでいて彼らを包み込むようだ。
ルシェルの手はしっかりとレティシアの肩を支え、まるで彼女を護るナイトのようだ。
彼女に向ける視線は常に彼女に注がれ、決して他の何かに気を取られることはなかった。
「なぁ、ルシェル様の様子、どう思うよ」
ティノはルシェルから視線を逸らさず、隣にいたリズに話しかけた。
すると、リズは考えるそぶりを見せると、視線をレティシアとルシェルに向けた。
「ん-。貴族と庶民では、考え方も違うと思うけど、それでもいいのか?」
どこかあっけらかんとした態度でリズが言うと、ティノは一瞬だけ彼女の方を向いた。
しかし、またすぐに視線を戻すと、彼は彼女の出身に興味がないように答える。
「ああ、構わないよ。女性の意見が聞きたいだけだから」
「それなら答えるけど、明らかに変だね」
ティノはリズの言葉を聞きながら腕を組むと、少し考えるようにして再び口を開く。
「どこが?」
「まずさ、ルシェル殿下はライラ様と噂が出回るくらいべったりだったのに、さっきは怒鳴ってただろ?」
ティノは先程の様子と、集合地点でのアルフレッドとルシェルのやり取りを思い返した。
場の空気も考えず、身勝手な発言をする少女を、ルシェルは明らかに庇っていた。
そのことを考えれば、べったりだったとも言えると考えたのだ。
「確かに、集合地点にいた時も、べったりだったな」
「そうなんだ、ルシェル殿下とライラ様がどうなろうと興味はないけど……今のルシェル殿下は、まるでルカ様の居場所を横取りしたようには感じてるよ」
リズはそう言うと、ルシェルの背中を見つめた。
微笑ましくレティシアの髪に手を伸ばしているのは、あの時とは違い、今はルシェルだ。
そのことが無性に腹立たしく感じ、彼女は尋ねる。
「ねぇ、そう言えば、ルカ様は?」
「知らね。誰も探そうとしないんだな」
ティノがそう言った瞬間、リズは目を見開いて辺りを見渡した。
冷たい汗が背筋をなぞり、額には汗が滲んでいく。
彼女は咄嗟に走り出すと、カトリーナのとこへと向かう。
「カトリーナ! ルカ様は!?」
「あ、リズ。それが分からないの。レティシア様にも聞いたんだけど、レティシア様が答える前に、ルシェル殿下が来たから聞けなかったの」
カトリーナが不安げに言うと、リズは少し眉間にシワを寄せた。
「レティシア様は、どんな様子だった?」
「そうね……瞳からは光が感じられなかったわ」
「何かあったんだ……」
カトリーナが答えると、リズはポツリと呟いた。
彼女は腕を組むと、首をかしげて額を人差し指でトントンたたく。
「どういうこと?」
驚いた様子でカトリーナが尋ねると、リズは「あー……そうだなぁ」と言って、自然体で答える。
「レティシア様が怪我してるのに、ルカ様が駆け付けないのは変だよ。2人の関係を考えたら、なおさらおかしい。それに、もし既に身を隠してるんだったら、レティシア様の様子が不自然に感じる」
「確かにそうね……」
「それなら、ルシェル殿下に言ってみれば? 一応、この班リーダだし」
リズを追って話を盗み聞きしていたティノはそう言い、ふと視線をルシェルたちに戻した。
そこには、木の下で甲斐甲斐しくレティシアの世話をするルシェルの姿があり、雨はどこかそんな2人を隠しているようにも感じられる。
時折吹き抜ける風は、まるで悲しげにも聞こえた。
「それもそうね」
「ぼくは得策じゃないと思うよ?」
静かに近付いたアルフレッドは、淡々とした様子で告げた。
しかし、カトリーナが不満そうな顔をすると、彼は内心でため息をついてしまう。
「アルフレッド殿下は、なぜそのように思われるのでしょうか?」
カトリーナが尋ねると、アルフレッドは予想通りの質問が来たと言わんばかりに深いため息を吐き出した。
そして、頭をクイッと傾けて「……ちょっとこっちにこい」と言うと、歩き出した。
彼の足取りは重く、それでいて静かだ。
少しばかり先程の場所から離れると、カトリーナが話し出す。
「それで、どういうことでしょうか?」
「そもそも、皇家とオプスブル家がどんな関係性か知ってるか?」
諦めたようにアルフレッドは話し出したが、3人の顔がポカーンとしているように感じられた。
けれど、彼は同じ質問を2度するつもりないため、誰かが答えるのを待つしかない。
「……皇家を守ってるのが、オプスブル家だろ?」
ティノが眉間にシワを寄せて答えると、アルフレッドは静かに頷き再び口を開く。
「普通はそう考えるよね、だけど、フリューネ家が絡むとどうだ?」
「オプスブル家は皇家よりも、フリューネ家を優先する」
「そうだ、庶民や伯爵以下はどうなのか知らないけど、これが伯爵以上の貴族の中では当たり前の話だ」
アルフレッドは、ここまで説明すれば辺境伯であるティノも言いたいことが理解できるだろうと考えた。
しかし、ティノの表情を見ると、まだ完全には理解していないことが伝わってくる。
「それがどうしたんだよ」
「フリューネ家はなんだ?」
呆れたようにアルフレッドが言うと、少し考えるようにしてティノは口を開く。
「……なるほどな、雪の姫か」
「そういうことだ」
「ん? 待てよ、勝手にそっちで話を終わらせるな」
理解が追い付かず、リズは不満を口にした。
しかし、最初に返ってきたのは、アルフレッドの深いため息だった。
一瞬の間が空き、リズに向けられる彼の目は、静かに何かを考えているようでもあった。
暫くすると、アルフレッドが頭をかきながら、リズに対し「ごめん……普段から気にしてなかったから、忘れてた」と言い、続けて話す。
「庶民でも、幼い頃に読んだことがあるだろ? 雪の姫と精霊の話。あれが今も尚、語り継がれてるんだ。だから実質的、最大権力者はフリューネ家だ」
「だから、レティシア様はあのように言っていたのね……」
カトリーナは、レティシアと出掛けた時のことを思い出しながら答えた。
すると、アルフレッドがレティシアたちの方に視線を向けると、彼女も同じ方を向いた。
「レティシア嬢がなんて言ったのかは知らないけど、それが事実だ。兄さんがどう思ってるのかは知らないけど、皇家は手に入れたいと考えてる。どんなに皇家が偉そうに皇帝だと言ったところで、フリューネ家とオプスブル家が独立を考えた場合、そのことが引き金になって恩恵が帝国から消えたら国が破綻するからな。まぁ、あくまで恩恵は可能性の話だけど、実際に恩恵が薄れたり、恩恵が消えた国もあるからな」
「アルフレッド殿下もですか?」
リズが首をかしげて問いかけると、アルフレッドは視線を下げた。
少しだけ考えた彼は、嘘を述べるわけにもいかず、はぁーっと息を吐き出すと話し出す。
「興味がないと言えば噓になる。だけど、伝承や幼い頃から聞いてる話をまとめると、雪の姫が望まないことをしない限り、恩恵は続くと考えてるよ」
ここまで話を聞いていたリズは、彼らの話を聞いてもどこか理解が出来ずにいた。
そのため、くっきりと眉間にシワを寄せると、「んで? だからそれがどうしたんだよ」と不機嫌に尋ねた。
「今のところ、フリューネ家もオプスブル家も、政治には口出ししてこない。だけど、この先もそうだと言い切れないと考えてる貴族も多い。もっと分かりやすく言えば、オプスブル家がいなければ、フリューネ家が独立する可能性も下がるし、もし、皇家がフリューネ家を皇族に迎え入れたいなら、オプスブル家の存在は皇家にとって足枷になる」
一瞬の静寂が訪れ、ティノは目を閉じて短く息を吸い、深く吐き出した。
同じように目を閉じたリズは、息を吸い込んだまま滑るように唇を噛むと、目を開けた。
「だから、誰も何も言わなかったんかよ……本当、貴族ってクソだな」
吐き捨てるように言ったリズは、拳を握りしめてギリッと奥歯を鳴らした。
将来、帝国騎士団に所属したいと考えている彼女にとって、アルフレッドの話は現実を突きつける。
誰かの存在が邪魔だと感じることは、庶民も持っている感情だ。
しかし、誰かがいなくなれば、誰かが心配し、探そうと行動する。
けれど、貴族ともなれば、蹴落とすために探さないという選択肢が存在することに憤りすら感じる。
帝国騎士団に所属すれば、庶民や貴族関係なく守らなければならない。
蹴落とすために、初めからいなかったように振る舞う貴族を守れるのかと、彼女は静かに考えていた。
ふと、歩き出したリズは、目を瞑ると立ち止まって空を見上げた。
上空には灰色の雲が広がり、冷たい雨が彼女に降り注ぐ。
どんなに頭で分かっていようとも、聞かされた現実が深く彼女の感情を刺激する。
水分をたっぷりと吸い込んだ地面は、今の彼女の心境を語るように不安定だ。
雨が止めばそのまま固まり、彼女の歩んできた道を語る跡になる。
リズは目を開けると、ゆっくりと周りを見渡した。
一帯には戦闘の傷跡が深く刻まれ、彼女は唇を噛み締め、カトリーナを映し出し、続いてシリルと楽しく話すエミリに視線を向けた。
そして、レティシアを映し出すと、「貴族がどう考えるのか分からないけど、うちはレティシア様が笑ってる方が良いよ」と呟いた。




