第149話 絶望に咲く儚き願い
次第に降り始めた雨は、その場にいた者たちを現実へと引き込む。
少し場所を移したルカとレティシアは今後のことを話し、カトリーナがリズの手当てに当たっている。
穏やかな雰囲気は風が吹き払い、冷気と共にパキッ、パキパキッと音を運ぶ。
感じる雨の匂いは、徐々にレティシアとルカの表情から感情を奪っていく。
ルカは眉間にシワを寄せ、「マジかよ」と呟くと同時に、彼の足元から地面を黒く染め上げる。
急激に胸の高鳴りは不穏を叫び、漂う雰囲気は一変する。
(レティシアの魔力が弱かったわけじゃないし、今も氷から感じられる魔力は遥かに多い! それに確実に心臓は止まってた!)
彼はそう思って振り向くと、地面に伸びる自分の影を目で追いながら、刺客たちを見つめた。
レティシアが凍らせた刺客たちは、黒い地面に吞み込まれ始めると、再びパキッ、パキパキッという不気味な音が鳴り響く。
「やだぁあ! 人が氷漬けになってるぅ! かわいそうだよぉ!」
突如、この場に相応しくない甘ったるい声が聞こえると、ルカの耳には勢いよく駆け出していく足音が聞こえた。
ルカは胸が大きく跳ね上がったのを感じ、冷静になろうとした思考をピッチの速い足音が濁らせていく。
「待って! ララ! ダメだ! 行くな!」
ルシェルは駆け出したライラに手を伸ばすが、彼女の手は煙のように彼の手をすり抜けていく。
そして、彼女が黒い部分に乗り、導かれるかのように氷漬けになっている人の元へ走って向かう。
「ルカ! 今すぐに力を使うのを辞めろ!」
ルカはルシェルの方を1度見たが、すぐに目を逸らすと刺客に視線を戻した。
何かが彼の力を阻害し、なかなか闇に沈められず、思ったように進まない。
そして、このまま力の行使を辞めれば、刺客が動き出す可能性も考えられる。
そのため、彼は辞める訳にはいかないと思うと、氷漬けにされている刺客を睨んだ。
1つの足音が止むと、ライラが氷漬けにされた刺客に抱きついた。
そして、彼女は大きく口を開け、懇願するように叫ぶ。
「辞めてくださいぃ! ひどいですぅ! 人がやることじゃないですぅ!」
ルカはライラの行動に一瞬驚いたが、早くしなければと焦る気持ちと、復活したらどうするべきか瞬時に考えた。
しかし、この場にいる人数を考えれば、誰がどう動くのか分からず、彼が取れる行動は限られてくる。
力が阻害されていることも考えると、完全に再び刺客の動きを止められるのかも分からない。
そのため、彼は舌打ちすると、ライラを睨みながら大きく口を開け、行き場のない怒りを込めて叫ぶ。
「どけ! そいつらが動き出したら、大変なことになる! やっとの思いで氷漬けにしたんだ! どけぇ!」
「うわぁぁああん! ひどいぃいい! ララはかわいそうだって言ってるだけじゃぁあん」
ライラはビクッと肩を上げると、そう言って泣きながら座り込んだ。
しかし、彼女の泣き声と共にパキパキッと聞こえ、レティシアとリズ、そしてカトリーナの額に汗が滲む。
続いてパキパキと再びなると、焦った様子でレティシアが口を開ける。
「ルカ! 急いで!」
「やってる! だけど力が阻害されてるんだ! 一帯を沈めるしかない!」
ルカはそう言うと、阻害を受けていない部分まで範囲を広げ始めた。
「ライラ! 今すぐにどきなさない!」
今も泣き続けるライラに対してレティシアは叫ぶが、それでも彼女が動く気配は感じられない。
しかし、そんなライラの背後でパキーンッと甲高い音が鳴ると、ルカは「沈める!」と大きな声で言い切った。
赤い瞳には、決意と覚悟の色が見えた。
「ルカ! 辞めるんだ!」
ルシェルがそう言った瞬間、ルカは立っていた場所から飛ばされた。
その場にいた者たちは何が起きたのか理解できず、倒れたルカに視線を向けた。
地面に伸びていた黒い影は消え、闇に沈んでいた刺客の姿が半分取り残されている。
「いってぇ」
ルカはそう言いながら頭を押さえて起き上がると、ルシェルの方を睨んだ。
だが、すぐに刺客に視線を向けると、再び闇の力を行使する。
けれど、再び彼に目掛けて魔法が使われると、今度はそれを防いだ。
「どういうつもりだ?」
ルカの言葉は冷たく、どこか感情が抜け落ちたようにも感じられた。
ルシェルに向けられる視線は熱を持たず、漂う雰囲気はその場を支配する。
「ライラがまだあそこにいる。彼女ごと沈める気か?」
「彼女が退かなければそうなるだけだ、さぁ、時間はないんだ。邪魔するな」
再び伸ばされる闇は深く、感じられる魔力は背筋に刃を突き立てる。
それはまるで、ライラの命か、自分の命か、どちらかを選べと、その場の者たちに問いかけているようだ。
ライラとルカ以外の者たちは、この状況に対応しようと考えを巡らせているようにも見える。
しかし、刺客と実際に戦ったリズ、カトリーナ、レティシアの表情は曇っている。
相手は感情も、痛みも感じず、心臓が止まってもなお動こうとしている。
それに加え、棄権していないことを考えれば、仮に今から支援を要請しても、数十分は掛かる。
彼女たちから見れば、ルカの意見は正しく、もし仮に刺客が動き出せば、体力や魔力量を考えれば全滅は免れないと考えたのだ。
(ずっと魔力を流していたカトリーナの魔力量も少ないわ。それに、私の残っている魔力では、大きな魔法はもう使えない。振り続ける雨のせいで、体力的にも厳しいわ)
レティシアは一瞬だけ目を閉じ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
(ライラとの関係性や、学院でのことも考えれば……このまま消えてくれた方が、私の心情の平和にもつながるし、悩む必要もなくなる。その時に、お父様が何か言うかもしれないけど、それは彼女が生きていても変わらないわ。――だけど、ルカは違う……彼は私の異母姉妹である彼女を消したことに悩み、それを抱えて生きていくわ……それがいつか彼の負担になる。それなら、動くしかないわ)
彼女はそう思うと、決意を固めるように再び目をゆっくりと開けた。
まだ、ルカに対してどのような感情を抱いているのか分からない。
それでも、闇の中で生きる彼に、彼女は彼の力の可能性を提示してきた。
今動かなければ、それは可能性を否定し、彼の力が奪うためのものであると証明することになる。
疲労を感じた体は重く、それでも立ち上がって重たい足で一歩を踏み出す。
「レティシア、頼むから」
「分かっているわ。だけど、ルシェル殿下が邪魔をする以上、こうするしかないんじゃない?」
驚いたように振り返って言ったルカの言葉を、レティシアは淡々とした様子で遮った。
彼がどれだけレティシアの心配をしているのか、それは彼女自身も分かっている。
今も彼から感じられるわずかな焦りには、彼女に対する心配が含まれているのだろう。
だからこそ、彼女は彼の負担も考えて、動かなければと考えた。
「ダメだ、このまま彼女が動かなければ、沈める! それによく周りを見ろ! 俺の魔力がある刺客の近くに、座り込むライラを助けようと動いてるやつはいるのか!?」
ルカは空気を切るように腕を横に振りながらそう言うと、レティシアに対して「な? だから行くな」と弱々しく言った。
しかし、彼女が首を横に振ると、彼は歯を食いしばりながら息を吸い込み、静かに目を閉じた。
パキッ、パキパキッと氷特有の音が聞こえ、降り注ぐ雨は酷く冷たい。
雨を揺らす風は肌に纏わりつき、濡れた服が不快感をもたらす。
ゆっくり瞼を上げた彼は、レティシアを瞳に映すと、微かに泣きそうな顔で微笑んだ。
「時間の余裕はない。俺が沈めてる間に、敵が動き出すかもしれない。もしかしたら、予測できないことが起きるかもしれない。場合によっては、レティシアも俺の力に吞まれるかもしれない。だから、ライラを力ずくで動かせたら、すぐ俺の隣に戻って来い。分かったか?」
「ええ、分かったわ。ルカは敵を沈めることだけ考えて、大丈夫よ。あなたの力が、私を傷付けたことはないわ」
レティシアはそう言うと、ライラが座り込む場所を見つめた。
パキパキッ、パキッと依然変わらず音はなり続け、刺客がいる一帯の地面は黒い。
底のない闇が広がり、明日さえそこにはないと語る。
それでも、レティシアは身体強化を使うと、一気にライラの元へと向かった。
肌に当たる雨は痛みを与え、耳をかすめる雨は針のようだ。
踏み出す足は明日を見据え、前を見据える視線は今を映し出す。
1秒が長く感じ、1メートルの距離すら長く感じられる。
今も耳に届く声は「かわいそう」だと叫び、「ひどい」と非難を続ける。
レティシアは強く否定するように「ルカは酷くなんかない!」と言い、続けて「私を殺そうとした刺客もかわいそうじゃない!」と大きな声で言い切った。
そして、立ち止まるとライラの肩に手を置き「あなたは、自分のことしか見えてないの!?」と彼女を見下ろしながら言った。
「お姉さまぁ、ひどいですぅ……ララは本当のことを言ってるだけなのにぃ」
目元を押さえてライラが再び大きな声で泣き始めると、レティシアは彼女の腕を掴んで無理やり立たせた。
そして、そのまま彼女を引き摺るようにして歩き出すと、ライラが「いたぁいぃ~やめてよぉ」と喚く。
それでも、レティシアは表情を変えずに、淡々とした様子で再び走り始めようと前を向く。
しかし、突如背後からパリーンッ、パリーンッと音が鳴り響き、彼女は一瞬で息を吸い込んだ。
(完全に氷が割れたんだわ!)
振り返らずにレティシアはそう思うと、一気に距離を取るために走り出した。
彼女が引っ張る腕は逃れようと暴れ、引き摺られる足はズーズーと音を鳴らしている。
地面に引っかかり、ライラの膝が擦りむけたのが見えたが、レティシアは止まらずに前を見据える。
痛みに耐えるライラの顔は泣き顔で濡れ、瞳には炎が燃え盛り、彼女の声は雨音と混ざり合う。
「レティシア! しゃがめ!!」
突然、ルカがそう叫ぶと、レティシアは咄嗟に身を低くした。
その瞬間、彼女の頭上を高魔力の攻撃が通り過ぎた。
彼女が振り返ると、3人いた刺客のうち、1人が魔力を使い切って事切れていた。
(魔力を放出したんだ! 後2回同じ攻撃が来る!)
レティシアは瞬時にそう思うと、すぐさま刺客に向かって広範囲に魔力遮断結界を使った。
そして、その場から少しでも離れるために立ち上がると、走り出した。
掴んだ手は恐怖を叫び、それでも暴れ続ける。
再び背後から気配を感じると、レティシアは自分の感覚を頼りに避けながら、ライラを自分の方へと引っ張った。
けれど、無情にもパリーンッという音が聞こえ、今度は背筋が凍り付く。
それでも、立ち上がって走り出す、一歩でも速く、一歩でも前へ。
(次に来るのは、今までのとは違うわ! 彼を中心にして広がろうとしている!!)
「逃げてぇぇぇえ!」
レティシアは力一杯叫ぶと、明日へと繋がる一歩を踏み出そうとした。
しかし、ライラを引っ張っていた手がグンッと後ろに引っ張られ、彼女を追い越していくライラが見えると、胸元に強い衝撃を受けて倒れた。
衝撃によって息ができず、彼女はただ走り去るライラの背中を見つめるしかなかった。
その直後、目の前は眩しい光が包み、レティシアは「そういうことね」と言って見えなくなった光の先を睨んだ。
だが、瞬時に世界は変わり、広がるのは、ただ真っ暗で静寂な空間だった。
(あぁ、私はまた死んでしまったのね……今世もあっけないなぁ……)
レティシアはそう思うと、笑いながら後ろに倒れこんだ。
衝撃を受けた胸は未だに痛み、息を吸い込めば激しい痛みが襲う。
(何も解決していないし、何も分かっていない。悔しいな……悔しいよ……悔しい……)
「何がそんなに面白いんだよ。それに、泣くくらいなら、俺がダメだって言った時に辞めろよ」
聞こえるはずがないと思った声が聞こえ、レティシアは目を丸くして起き上がった。
痛みで顔を歪めた彼女は、ゆっくりと声がした方を向くと、赤い瞳が暗闇に浮かび上がる。
「え、なんで……?」
レティシアが尋ねると、ルカは深く息を吐き出した。
彼はレティシアに手を伸ばそうとしたが、そっと手を下ろしてポケットに手を入れる。
そして、彼女に状況を伝えようと、ゆっくり口を開く。
「最後の刺客の氷が割れた時、彼を中心に魔力が広がるのを感じた」
「でも、だからって……」
「最悪の状況を想定しただけだ、まだ死んでない。今は俺の魔法の中にいる。だから、勝手に勘違いするな」
「え、あ、ご、ごめんなさい」
死んだとばかり思っていたレティシアは、違うと知って驚いた。
それと同時に、ルカの洞察力と判断力を改めてすごいと感じた。
「今は外から俺の力で押さえてるけど、このまま刺客が魔力の放出を続ければ、莫大な被害が出る。そうならないためにも、俺は行く」
思いもよらない言葉が聞こえ、レティシアは咄嗟に「ダメよ! 危険だわ!」と大きな声を出した。
しかし、ルカからは落ち着いた雰囲気が漂い、暗闇に慣れた目は彼の真剣な顔を映す。
「行かなきゃ、ここもいずれは耐えられなくなる」
「それでもダメ! 行かないで! ルカが死んでしまうわ!!」
レティシアは彼に駆け寄ろうとしたが、ズキッと胸に強い痛みを感じて立ち上がれなかった。
その痛みから、胸に衝撃を受けた時に骨が折れたのだと分かる。
「なぁ、レティシア……専属護衛にしてくれって話……あれ、やっぱりなしな」
そう言った彼の声は儚く、どこか寂し気だ。
そのことが、レティシアの不安を煽る。
「待って! ルカ、行っちゃだめ! お願いよ!」
「何度も、レティシアの願いを聞けなくてごめん」
ルカはそう言うと、彼女からもらったピアスに触れた。
ピアスから感じられる彼女の存在が、心地よく、彼の心を落ち着かせる。
「レティシアのこと護りたいし、おまえの幸せを願ってる」
「分かっているわ! だから、行かないで!」
ルカは立ち上がれないレティシアを見つめ、彼女の頬に涙が流れると胸を押さえた。
(今すぐに、レティシアの頬を流れる涙を拭きとって、抱きしめたい。おまえと過ごした時間が、俺のすべてだった……。おまえがどれだけ大切か、どれだけ愛してるか、伝えたくてたまらない……でも、そうしたら俺は行けなくなる。レティシアの傍にいたいと望んでしまう……だけど……最後……最後くらい……)
ルカはそう思うと、深い眼差しでレティシアを見つめた。
「レティシア、好きだよ。おまえのことを、異性として心から愛してる」
レティシアは、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
けれど、背中を向けたルカが歩き出すと、彼女は胸を押さえて再び叫んだ。
「ルカ! 行かないで!」
彼女は彼に手を伸ばすが、ルカの姿は暗闇に飲み込まれたかのように、忽然と姿を消した。
「行っちゃだめ! 行かないで! お願いだから!」
どんなに叫ぼうが、返ってくる言葉はなく、彼女はポケットからルカがくれた短剣を取り出した。
「ねぇ、ルカ。戻って来て、1人にしないで……まだ、あなたに伝えてないの……まだ、あなたに言えてないこともあるの……お願いよ……」
レティシアはそう呟くと、小さくなっている短剣を胸の辺りで握りしめた。
頬を伝う涙は止めどなく流れ、胸の痛みは別の痛みが重なる。
彼との思い出が思考を支配し、泣き叫びたいという衝動が喉を突く。
ルカの魔力が薄れ消えゆくのを感じ取ると、レティシアはゆっくり顔を上げた。
彼の魔法が解けた視界には、世界が色を取り戻し、瞳が木や空の色を捉える。
雨の匂いが肺を満たし、叩きつける雨が現実を突きつける。
その瞬間、彼女が手にしていた短剣はピシッと音を鳴らし、目を向ければ、柘榴のように赤いガーネットが割れていた。




