第16話 予定とピアス
神歴1489年3月3日。
いつものようにレティシアがルカと訓練場から戻ると、屋敷内からピリピリとした雰囲気を感じた。
ルカもそのことに気が付いたようで、近くにいた使用人に話しかけている。
使用人から話を聞き終えたルカは、レティシアの方へ険しい顔をしながら戻ってくる。
彼は「行こう」と言って、彼女の手を少しだけ強引に引っ張って歩く。
2人とすれ違う使用人たちの中には、大きめの鞄を持った人や制服から私服に着替えている人もいる。
ピリピリした雰囲気に加え、いつもと違う使用人たちとルカの行動に、レティシアは困惑する。
部屋に入ると、ルカは思い悩むようなそぶりをした。
彼は、不安そうに彼のズボンを掴んでいるレティシアの方を、1度見ると目を逸らした。
目を閉じると、深く息を吸い込んで短く息を吐き出す。
そして、もう1度レティシアの方を見ると、彼は真剣な眼差しを向けた。
「レティシア。多分、おまえの父親が数時間後には、この屋敷に到着する。早くても屋敷に到着するのは明日だと思ってたけど、どうやら予定を早めたのか、夕方前には到着すると報告があったらしい」
そう言ったルカは、レティシアの手を離し、急いでシャワーを浴びる準備を始めた。
不安そうな表情を浮かべるレティシアを横目に、着替えを持って足早に浴室に入って行く。
(あー……。当日はできないから、今日私の誕生日会をやる予定だったのに……。それすら、できなくなったのね。それは屋敷の中がピリピリした雰囲気になるわけだよ……でも突如予定を早めてまで帰って来るとなると、それなりの理由があるはずのに全く見当がつかない。私が知らないだけで、この屋敷で何かあった? ダメだ……考えても分からないわ。――そうなると、何をしでかすか分からないから、その場その場で考えて行動しないと危ないわね)
レティシアは憂鬱そうにため息をつき、アイテムボックスから青と緑の小さな1粒の宝石が付いたピアスを取り出した。
テーブルの上にピアスを置くと、神経を注ぎながら魔法の付与術式を書いていく。
小さい物に対して付与術式を書く際は、魔力コントロールや力加減が小さくになるにつれて難度が上がる。
そのため、付与術師はあまり小さい物に付与術をやりたがらない。
レティシアは過去の転生で、付与術を専門にやっていた同期の付与術師に、自分の隊員全員分のピアスに付与術を頼んだが断られた。
その同期とはそれ以降、絶対に参加しなければならない会議以外で、顔を合わせることがなくなった経験がある。
(小さい物に術式を1つ付与するのも、すごく疲れるのは分かっているけど……。それでも100名近くいる隊員のピアスの付与を頼んだからといって、私から逃げ回るのはひどいと思うのよね。ちゃんと報酬も希望額を出すって言ったのに……)
レティシアが内心で不満を募らせていても、彼女の指先から流れる魔力は揺らぎがなく、まるで蜘蛛の糸のように細い。
いつその糸が切れてしまっても、何ら不思議ではない。
それにもかかわらず、魔力の糸は存在を主張するかのように、キラキラと光り輝いている。
(できた!)
付与が終わると、レティシアは顔を上げた。
そして、ピアスを目線の高さまで持ち上げて完成を確認する。
その額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「何を付与したのか気になるけど、とりあえず食堂に行かない?」
背後から声がしてレティシアは振り返ると、シャワーを終えてルカがソファーの背もたれに頬杖をついていた。
どうやらルカは、静かにレティシアの作業が終わるのを待っていたみたいだ。
ルカが戻ってきたことにも気が付かないほど、レティシアは付与術に集中していた。
そして、戻ってきているのなら、考えていたよりも時間がかかったのだと理解する。
咄嗟に時計を見た彼女は、慌ててピアスをドレスのポケットに入れて彼に手を伸ばした。
すると、即座にルカがレティシアを抱き上げ、足早に食堂へと向かった。
2人が食堂に着くと、すでに待っていたエディットが横目でチラリとレティシアに視線を向ける。
確かに2人はいつもより遅れたが、それは決して時間が過ぎている訳ではない。
「レティシアとルカも座りなさい」
「かしこまりました」
いつもは何も言われないからか、思わず2人の体に力が入り緊張する。
レティシアを椅子に座らせると、ルカはその隣に座った。
暫くすると食事が運ばれ、テーブルに並べられていく。
いつもなら、この時点でレティシアの横にアンナがやってくる。
しかし、今日はアンナが来る気配がない。
ルカは咄嗟の判断で、アンナの代わりにレティシアに食事させる。
彼は丁寧に彼女の口に、一口一口食事を運びながら自分も食事していく。
ルカが来るまで、レティシアは1人で食べている時もあった。
そのため1人でも食事は可能だ。
彼女はルカに食べさせてもらうことに、最初は気恥ずかしく感じる。
しかし、美味しい料理のおかげで、その気恥ずかしさはすぐに薄れていく。
これは料理長のジャンに感謝するしかない。
黙々と食事していると、エディットがおもむろに口を開く。
「すでに聞いているかもしれないけど、もう少したらダニエルがこの屋敷に到着するわ。使用人の人数も、屋敷を守る騎士たちも、少ないから仕事が増えたりして、いつもと違うけどみんなよろしくね。あの人が愛人とその娘を置いてきてまで突然帰ってくるのだもの、何かしら良くない理由が必ずあるはずよ。だから屋敷に残った者は、気を引き締めてほしいわ。……レティには、少しばかり窮屈な思いをさせるけど、ごめんね?」
レティシアは静かに頷き。
ルカはエディットの方を向いて、使用人たちと一緒に「かしこまりました」と返事した。
そして、再びレティシアの方を向いて食事の続きをさせた。
食事が終わると、いつものように解散するのかとレティシアは思った。
しかし、エディットはそんな彼女とルカを自室に招待した。
エディットの部屋に着くと、リタがいつものように紅茶を入れ始め、ソファーに座っているレティシアに出した。
レティシアは出された紅茶を一口だけ飲むと、ポケットから先程の術式を付与した青色の宝石が付いた方のピアスを取り出す。
そして、子どもらしい笑顔を作ってエディットにピアスを差し出した。
『お母様。これを私だと思ってお守りの代わりに、常に持っていてください!』
最初は驚きを見せたエディットだったが、嬉しそうにレティシアから受けとると優しく笑いかける。
「レティ、ありがとう……。レティだと思って着けておくわ」
そう言ったエディットは、身に着けているピアスの片方を外し、レティシアが渡したピアスを着けた。
ファーストピアスの大きさしかない小さな宝石が付いたピアスは、エディットが身に着けるには子どもっぽい気がした。
だけど、しっかり身に着けてくれたことに、レティシアはホッと胸をなで下ろす。
それから暫くの間、紅茶を飲みながらエディットとレティシアが会話を楽しんでいた。
けれど、予想していた時間よりも早く、ドアをノックす音が聞こえると、パトリックが部屋の中へと入ってくる。
彼は握り拳を作り、怒りで震えている。
そして、彼は重たい口を開くと、予想よりさらに予定を早めたダニエルが、すでに門を通過して屋敷へ向かっているのだと報告した。
その瞬間、部屋の中はピリッと張り詰め、殺気と警戒する空気に包み込まれる。
(本当に人の予定とか、一切考えない人なんだね……)
レティシアは呆れながらも、これも人を怒らせるダニエルの才能の1つだと思った。
ダニエルを出迎えるためにエディットが立ち上がってドアに向かうと、ルカも立ち上がりレティシアを抱き抱える。
リタはエディットの斜め後ろを歩き、ルカはレティシアを隠すようにエディットの後ろを歩いた。




