第141話 揺れる感情と戸惑う心
学園で行われる対抗戦を控えた、神歴1504年5月21日。
全ての授業を終えたレティシアは、家に帰るとベッドに倒れこんだ。
ベルンと話してから1週間が経過しているのに、未だに彼女は自分の感情に戸惑っている。
仰向けに寝転がる彼女は、視界を腕で覆い隠すと、重いため息が口からこぼれる。
(考えなきゃいけないことが多いのに、余計なことまで考えている時間はないのよ……しっかりしなきゃ……)
そう心の中で思うも、起き上がることができず、一度投げ込まれた一石が感情をかき乱す。
考えないようにしようとすればするほど、彼女はルカとまともに話すこともできずに彼を避けるようになった。
そのことも悩みの種となり、初めての感情が彼女を振り回し、いろんなことが手に付かなくなっている。
静かな部屋では、時折彼女のため息だけが小さく広がる。
しかし、その静寂を破るようにドアをノックする音が部屋に広がると、少しだけ肩を上げた彼女は息を呑んだ。
その音に反応して心臓は高鳴り、思考は一瞬で静まり返る。
「レティシア、俺だけど少し話せるか?」
ドアの前に立つルカの声は、彼自身が思っていたよりも落ち着いていた。
それでも、部屋の中から物音1つ聞こえず、彼の中で不安が広がる。
何かあったのかと思い、彼はドアノブに手を置いて再び声をかける。
「レティシア? 入るぞ?」
しかし、彼の入室は部屋の主によって遮られる。
「ごめんなさい。今日は疲れてしまったから、もう寝ようと思うの。重要な話なら、ステラに伝えてくれるかしら?」
部屋の中から聞こえた声は、わずかに震えており、どこか緊張しているように感じられた。
その結果、ルカの不安はさらに掻き立てられ、悲しそうに口を閉じてドアノブから手を退けた。
そして、開かないドアに軽く手を触れ、彼は軽く息を吐き出して再び口を開く。
「なぁ、レティシア……最近、俺のことを避けてるけど、俺なんかレティシアにしたか?」
「ル、ルカは何もしていないわよ。本当に疲れているだけだから心配しないで……」
ルカは、ドアの向こう側から聞こえる声の主が、動揺して嘘を述べているのだと気付いた。
気持ちを押し殺すように唇の内側を噛んだ彼は、固く目を閉じて気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
それでも心臓は恐怖が支配し、不安で手が小さく震える。
「……ここ数日、仕事も進んでないみたいだけど、それって俺がいるからか?」
「……」
彼はドアに触れていた手で固く拳を握ると、俯いて息を呑み込んだ。
彼女がなぜ彼を避けるのか、なぜ嘘を吐くのか彼には分からない。
しかし、今の彼には彼女の無言が、酷く胸を深くえぐるように痛んだ。
「……分かった。それなら、俺はいったんオプスブル家の別宅に戻るよ」
レティシアはルカの言葉を聞き、ズキンッと胸が痛んで顔を歪めた。
こんな時、前までなら自分がどうしていたのか考えても、答えが見つからない。
それでも、彼女が何も言えずにいると、スーッとドアの前にいる気配が遠ざかり始める。
その瞬間、胸の痛みだけが増し、彼女の視界は滲んでいく。
(ルカとこんな風に距離ができるなら、自分の感情を知ろうと思わなければよかった……)
白いドアを見つめながらレティシアはそう思うと、ふと頭の中で『……レティシア、ルカのこと呼び止めるからね』とステラの声がした。
けれど、今の彼女はそう言われたところで、どうしたら良いのか分からない。
結局、彼女はテレパシーも使えず、固く口を閉ざしてしまう。
『……』
レティシアが何も答えずにいると、ステラは小さな体で走り出した。
クンクンと鼻を鳴らしながら進むが、さっきまで居たはずのルカの匂いを感じ取れず、彼女は辺りを見渡す。
白い幻獣の顔には焦りが見え、思わず悪態をつきたい衝動に駆られたのか舌打ちした。
それでも、小さな足が止まることはなく、青年の部屋へと急いで向かう。
長い白い廊下は、まるでレティシアの心を映しているようで、この白さが濁らなければとステラは願う。
肩で息をする彼女は、必死に短い脚を前に伸ばして、力強く床を蹴る。
ズズーッと滑るように、廊下の端にある部屋の前へとたどり着くと、何度も前足でドアを叩く。
「なんだ、ステラか」
ステラはゆっくりドアが開くと、そう言ったルカの足元に駆け寄った。
そして、悲しげな赤い瞳を、金色の瞳で真っすぐに見つめながらテレパシーを使う。
『本当に帰るの?』
「ああ、学院での対抗戦も控えてるし、今はその方が良いだろ」
ルカはそれだけ言うと、ステラに背を向けてベッドの方へと歩き出した。
静かな部屋には物音が1つもせず、ベッドの上に出してあった鞄に彼は荷物を詰め始める。
『……それは、レティシアのことを考えて?』
ステラの言葉に手を止めたルカは、荷物を見つめて軽く息を吐き出した。
「……どうだろうな……正直に言えば、急に理由も分からずに距離を取られて……俺も今は精神的に、きついのかもしれない……」
『ねぇルカ、帰るのはもう少しだけ考えて……今レティシアは自分の中にある感情に気付いて、その気持ちと向き合っているわ。だから、彼女があなたと向き合えるようになるまで、彼女のことを待ってほしいの』
「だったら……だったら!! レティシアには、そんな感情に気付いてほしくなかった!!」
ルカは気持ちを吐き出すように叫ぶと、持っていた洋服を鞄の中に押し込めた。
こんな日が来ないように、彼は常に自分の気持ちを押し殺してきた。
それは、彼なりにレティシアを思いやり、彼女との関係をこれ以上崩さないためでもあった。
しかし、彼女が距離を取ったことで、少なくとも悩んでいるのは彼の存在だとルカにも分かる。
そのことが胸を締め付け、彼は胸元を掴むと歯を食いしばった。
『……』
「彼女がどんな感情に向き合ってるのか、俺には分からない! それでも、彼女が俺と距離を置いた感情に答えを出したら、俺は彼女の傍にいるのがつらくなるだけだ!!」
(レティシアがハッキリとルカの関係性に結論を出せば、ルカは彼女が出した結論以上の関係は望めなくなる……そんな気持ちが、多少なりともあるのかもしれないわね……結局、このまま彼女との距離が広がるくらいなら、ルカはこれまでのように曖昧な関係性がいいのね……)
ステラはそう思うも、顔に出すこともなく、闇の精霊の力を持つ青年を見つめる。
全てを呑み込んでしまいそうな秘めた力は、今の青年さえも呑み込んでしまいそうだ。
『それは、分からないわよ?』
「いや……言われなくても分かってる」
『……』
「……」
『ルカ……レティシアがどんな感情で悩んでいるのか、本当は分かっているんじゃないの?』
「……」
『……』
「……分からない……ってのが本音だな。だけど、彼女が俺と距離を取ったってことは、少なくとも俺と関係があるんだろ?」
『私にも、それは分からないわ……レティシアは、何に悩んでいるのか話してくれなかったから……』
「それでも、彼女の使い魔であるステラが、彼女の様子を見て俺が関係してると思ったんだろ? それなら、間違いなく俺と関係があるんだと思うよ」
ベッドに背を向けたルカは、疲れたようにその場にしゃがんだ。
そして、おもむろに床に座ると、彼は片膝を抱き抱えてもう片方の膝を伸ばした。
俯く彼の表情は見えず、それでも固く抱き寄せた足のズボンには深いシワが寄る。
「俺は……彼女の家族でもなければ……婚約者でもない……。彼女と俺を繋いでるのは、オプスブル家がフリューネ家に交わした古の約束だけだ……もし、彼女が俺を家族としてみるなら、まだいいさ。彼女が俺を家族だと思ってる期間は、遠慮なく彼女と一緒にいられるから……だけど、そうじゃなかった時……俺はある程度、彼女と適切な距離を取らなければならない……そうしないと……」
『そうしないと……?』
「そうしないと……俺は彼女との関係性を壊してまで、彼女に俺の気持ちを知ってほしくなる……」
『人って生き物は面倒くさいのね……彼女がどんな結論を出しても、伝えればいいじゃない』
「それはダメだ……彼女との関係性が壊れるのだけは、絶対に避けたい……」
ため息をついて言ったルカの声は、少しだけ震えていた。
ステラは目を細めてルカを見ると、金の瞳が少しだけ揺らぐ。
そして、ゆっくりと彼との距離を詰め、彼の正面へと移動すると彼女は彼を見つめる。
『……ルカは、レティシアの感情を尊重しているつもりだけど、今のルカの行動は彼女の気持ちを蔑ろにしているのと同じよ?』
「違う!! 俺は彼女の気持ちを蔑ろになんかしてない!!」
顔を上げずにルカは声を荒らげたが、それに対してステラは鼻を鳴らした。
ルカがどんなにレティシアのことを大切に思っているのか、それは彼と初めてあった時から知っている。
しかし、ステラは同時に、彼の行動がレティシアの感情を曖昧にしてきたのだと思う。
『何が違うと言うの? ルカの行動はレティシアが自分の感情を理解して、それに対処する機会を奪っているだけだわ。これのどこが彼女の気持ちを蔑ろにしていないと言えるの?』
「違う……俺はただ……ただ……」
ルカがズボンを強く握りながら言うと、ステラは深くため息をついた。
幼い頃の彼とレティシアに何があったのか、それはステラも少しだけ知っている。
彼の生い立ちも理解した上で、ステラは厳しい眼差しを向ける。
『結局のところ、ルカはレティシアの気持ちよりも、自分のことを守りたいのよ。自分は安全なところにいて、彼女がルカから離れていかないようにしているだけよ』
ルカはステラの言葉を聞き、目をギュッと閉じて唇を噛んだ。
彼女の言葉を否定したいのに、彼には彼女の言葉を否定する言葉が見つけられない。
「……確かに……俺は……俺が傷付かないようにしてるだけなのかもな……だけど……」
『……』
「だけど……それでもしょうがないだろ……レティシアが初めて俺とあった時、彼女が俺に抱いた感情が同情だったんだから……」
力を失くしたようにルカが言うと、ステラは視線を下げて悲しそうに床を見た。
昔レティシアの過去を見たステラは、彼の言葉を否定できなかった。
確かにレティシアは幼かった彼に同情し、彼のことを守ろうとしていた。
そのことが分かっているからこそ、ステラは今のレティシアがルカに対してどう思っているのか分からない。
けれど、それでもステラは視線を上げると、金色の瞳でルカのことを視界に映す。
『……確かに……ルカと初めて会った頃のレティシアは、ルカに同情していたわ。それでも、今も同情していると思っているの?』
「今は違うだろうな……だからこそ、彼女には俺に対しての気持ちに答えを出してほしくないんだ」
『それなら、彼女に婚約者の1人でも見繕ったらどうかしら? 今の彼女には母親がいないのよ? だったら、ルカが信用できる人を婚約者に選んであげるべきじゃいの?』
ステラが冷たく言い切ると、ルカは再び唇を噛み締めた。
強く握られたズボンには深いシワが寄り、彼はまるで顔を隠すようにさらに頭を下げた。
固く閉じた瞼は小刻みに震え、喉は焼けるようにひりつく。
うまく息ができずに呼吸を止めた鼻は熱を持ち、ジーンと鼻の奥が痛む。
「……そうだな」
声を押し殺したような声でルカが答えると、ステラは一瞬だけ眉を上げた。
しかし、すぐに彼女の鼻筋にはシワが寄り、小さな獣は牙を剝き出しにする。
『見損なったわ。所詮、ルカの気持ちなんてちっぽけで、簡単に諦められるものだったということね。それなら、これ以上彼女を惑わせないでちょうだい』
「簡単に諦められるわけがないだろ!!」
ステラが吐き捨てるように言うと、ルカは間髪を入れずに大きな声を出した。
しかし、再び「簡単に諦められるわけがないだろ……」と繰り返した彼の声は弱々しく、肩は震えている。
『……ルカ、あなたの感情は大切よ。あなたがレティシアに対して抱いている気持ちは、誰にも否定できないものだし、あなた自身も否定できないものよ』
そう言ったステラの声は先程までとは違い、とても暖かいものだった。
彼女はさらにルカに近付くと、ズボンを握る彼の手にそっと頭を寄せる。
『でも、レティシアもまた、自分自身の感情に向き合っているの。だけど、それは彼女自身が解決しなければならない問題だとステラは思うの。あなたが今できることは、彼女が自分自身の感情を理解し、それに対処するための時間を提供すること。それが、あなたがレティシアを本当に尊重し、彼女の幸せを願っているなら、最善の行動だと思うわ……ねぇルカ、レティシアのことを思うなら帰らないで……彼女があなたと向き合えるようになって、彼女がすぐに話しかけられるように、あなたはこれまでの距離にいてあげて……』
全てを言い切ったようにステラは目を閉じると、ルカの言葉を待った。
しかし、彼の声が聞こえてくることはなく、代わりに彼の肩は震えている。
『……ルカにとってつらいことを、お願いしているんだと思っているわ……だけど、ステラの主は、ルカが思っているよりもまだ心が幼いの……それに、今ルカが離れたら、彼女はまた考える機会を失うと思うの……だけらお願いよ』
ステラは顔を上げたが、彼の表情は影に隠れたように見えない。
それでも、彼女の頭をルカの手が優しくなでると、彼女はその手にすり寄った。
大きな手は時折動きを止めては動き、目を閉じたステラの目尻には涙が滲んだ。




