第135話 移住問題と領主の決断
身体強化を使って走るルカは、少しだけ離れて走るレティシアの方を一瞬だけ見た。
彼の眉間にはシワが寄っており、フリューネ家の門に近付くと門を睨み付ける。
2人の姿に気付いた門番が、慌てた様子で門を開け始めているようだ。
しかし、ルカはさらに速度を上げると、彼女との距離が広がる。
そして、真っすぐ見ていた門から視線を上げると、大きく口を開けた彼は叫ぶ。
「レティシア! 何も気にせず、俺に続いて門を飛び越えろ!!」
ルカの言葉を聞いたレティシアは、目を見開いたかと思うと目を細めた。
フリューネ家の邸宅には、昔から敷地を護るようにして魔法がかけられている。
その魔法は結界のようでもあり、幼い頃のレティシアはこの魔法の存在が分からず、当時は外に出ることを諦めている。
先にルカが大きくジャンプすると、風景がグラっとわずかに歪み、結界のようなものに穴が開く。
吸い込まれるように彼が通り抜けると、穴は意思を持ったように閉じ始める。
(迷っている暇などないってことね)
レティシアは咄嗟にそう思うと、ルカに続くように力強く地面を蹴り上げた。
『あれはなんなの!?』
難なく門を飛び越えたレティシアは、走りながらチラッと閉じた穴を見て尋ねた。
すると、ルカは真っすぐ前を向いたまま、彼女の疑問に答える。
『あれは、昔からオプスブル家が貼ってる結界だよ。普通は、どちら側からも抜けられない』
『それじゃ、ルカがいたから抜けられたの?』
ルカの方を見ながらレティシアが尋ねると、黒髪の青年は振り返らずに前だけを見ている。
『そういうことだ。でも気にしなくていい、俺の魔力が常に消費されてるわけじゃないから』
ルカがそう言うと、レティシアは眉間にシワを寄せる。
しかし、彼女を一瞥したルカは、淡々と話を続ける。
『……あれの原理を聞くなよ? 少なくとも、あれはレティシアが当主でも、教えられないオプスブル家の秘密だ』
レティシアはルカの言葉を聞き、ある程度の仮説を瞬時に立てていた。
昔からフリューネ家とオプスブル家を繋いでいるのは、遥か遠い昔の約束だ。
それが現代でも続いているとなれば、あの結界自体も遥か昔からあることになる。
しかし、そうなれば常に魔力を供給している者は、通常の人と比べ魔力の回復が早いか魔力量が多い。
けれど、オプスブル家の中でも、特に魔力量が多いルカはそれを否定した。
そこから導き出される結論は、人じゃない何かが魔力を提供し続けていることになる。
レティシアが短く『分かったわ』と言うと、ルカは鼻で笑ってしまう。
『……何に対して分かったって言ったんだか』
彼はそう言うと、目を細めてスピードを上げた。
頬を通り過ぎる風は冷たく、目の端に見える景色は次々と姿を変えていく。
遠くにあった立ち上る細く黒い煙は、近付くにつれて大きくなり、時計台を覆い隠す勢いだ。
焦げた匂いが風に運ばれて漂い、赤い炎が見え始める。
街は突然の爆発によって混乱が起き、逃げ惑う人々の叫びが2人の耳に届く。
それでも、爆発が起きた周辺では、フリューネ騎士団が指揮を執って人々を誘導している。
そして、騎士団は人々の誘導の他にも、現場の保護と共に救助活動も行っているようだ。
風がレティシアとルカの髪を乱し、彼らの足元から立ち上る砂埃が視界を遮る。
誘導される人々の中には、腕や頭から血を流す者や、足を引きずる者の姿が見える。
まだ中に身内がいると叫ぶ女性の声が聞こえ、泣き崩れる男性の声が聞こえる。
風に運ばれる土埃や木の焼ける匂いに交じり、微かに血の臭いや焦げた匂いまでする。
立ち止まったレティシアは、思わず目の前の光景を見て「酷いわ……」という言葉が口からこぼれた。
しかし、彼らの目は前方に固定され、立ち上る黒い煙に向かう。
『……レティシア、準備はいいか?』
レティシアの動揺を感じ取ったルカは、できるだけ冷静に尋ねた。
すると、彼女は頷いて一歩踏み出すと、彼の隣に並んだ。
『いつでもいいわよ、ルカ』
彼女がそう言うと、ルカは深呼吸をしてから、騎士団が包囲門を敷く警戒区域に足を踏み入れた。
レティシアも彼に続き、足を踏み入れると、酸素濃度が明らかに変化した。
吸い込む空気は熱を持ち、肺が息ぐしさを感じている。
『防御壁を内側に向かって貼ってるから、中の熱が逃げてないんだ。苦しくなったすぐに外に出ろ』
ルカはそう言うと、どんどん歩みを進めていく。
『早くしないと、中にいる人を助ける前に、中にいる人が死んでしまうわ』
彼らが煙の源に近づくと、焦げた木材や草の匂いが強くなり、遠くで人々の悲鳴や叫び声が聞こえてきた。
それは、彼らが予想していたよりも事態が深刻であることを示している。
その時、新たな爆発が起き、人々の恐怖と混乱に満ちた声が響く。
咄嗟にルカはレティシアを背中で庇うと、爆発があった方を睨み付けた。
『レティシア、ここから先は危険だ。俺だけで行くから、おまえはここで待ってろ』
ルカがそう言うと、レティシアは彼の腕を掴んだ。
『いえ、一緒に行くわ。私も領主としての責任があるもの』
彼女の決意に、ルカはため息交じりに『……分かった』と頷いた。
煙に遮られ視界で、足元の瓦礫や散らばっている物に足を取られる。
『……感覚だけで動くのは厳しいな』
焼けた建物が音を立てて崩れると、ルカはポツリとそう呟いた。
彼にはこれを解決する術があるが、ここに残っている者たちの命は保証できない。
なぜなら、残っている者の魔力を辿ろうにも、消火や建物を動かすために使われている数多くの魔法が邪魔をするからだ。
それでも、冷静に対処しなければならない状況に、彼の頭の中は次第に氷のように冷たくなり、感情が消えていく。
『ルカ……大丈夫?』
ふっとレティシアがルカに声をかけると、彼はハッとした表情をした。
『……悪い……大丈夫だ』
(嘘ね……今のルカは、私の命とここに残っている人たちの命を、天秤にかけていたわ……)
額を手で押さえているルカを見て、レティシアは冷静にそう思った。
そして、静かに瞼を閉じた彼女の足元からは、ふわっと優しい魔力が流れ始める。
それは風が吹き抜けるように広がり始め、瞬く間に防御壁の内側を満たし始める。
彼女の魔力は優しいはずなのに、全てのものの時を止めているかのように感じられる。
『ルカ、この中に残っている人たちを守ることはできる?』
レティシアが尋ねると、ルカは彼女が何を考えているのか分かり、困ったように微笑んだ。
『……ああ、これでどこに居るのか分かりやすくなった』
ルカがそう答えて目を閉じると、彼の足元から黒い影が勢いよく広がる。
それはただの影ではなく、闇の精霊の力が含まれている。
全てを呑み込んでしまいそうなその影は、恐怖心すら与えてしまいそうだ。
しかし、その恐怖はルカの力の一部であり、人の命を奪うために使ってきた力を、今は人々を守るために使おうとしている。
闇と光は隣り合わせにあり、生きている限りどこにでも影は落ちる。
それは闇の精霊の力が、常にルカと共にあることを示している。
防御壁の中にいる1人1人を守るように影が人々を覆い隠すと、彼はゆっくりと目を開けた。
『とりあえず、全員を囲った……悪いが、影の中にいる人がパニックになる前に、何かするつもりなら早く頼む』
懇願するようにルカが言うと、レティシアは静かに手のひらを見つめた。
どれだけ手を広げても、全てを掴めるわけじゃないし、守れるわけじゃない。
手から滑り落ちて消えていくものがあるように、握りしめても水のように抜けていくものもある。
拳を握った彼女は、そのことを人よりも多く知っている。
『前に……ルカは私に、家業を継いで仕事をしているルカを、嫌いになったりしないの? って聞いたことがあったでしょ?』
突然、脈略のない話を始めたレティシアに対し、ルカは怪訝そうな顔をすると、思わず首をかしげてしまう。
『……ああ、そんなようなこともあったな。だけど、それと今はなんの関係があるんだ?』
驚いたように振り返ったレティシアは、ルカの赤い瞳を見つめた。
そして、彼女はテレパシーに気持ちを乗せて、今の本心を語る。
『関係は……ないかもしれないわね……でもね、今あの頃と同じ質問をされたら、私はきっとあの頃と同じように、どうでもいいと答えるわ……』
ルカは彼女の言葉を聞いていると、バッと彼女が両腕を広げた。
その途端、冷えた空気が肺に入り始め、彼女が悲し気に微笑んだ。
『確かに、ルカは仕事で人の命を奪ったり、人の秘密を暴くわ……それでも、人を守れる力もあるんだよ』
続けて言った彼女の背後にあった街並みは、一瞬にして氷の世界に変わった。
広範囲に使われた凍結魔法は、時間を止めるかのように全てを凍らせている。
『私はきっと領主になんか向いていないわ』
そう告げた彼女の後ろでは、凍り付いた建物がパキッパキッと音を鳴らし、サーッと風に乗って冷気が押し寄せる。
そして、パリーンッと甲高い音を出すと、先程まで目の前に広がっていた光景は氷の粒子に代わる。
『私はルカのように領民を守れない……私は……領民が築いた建物も思い出も、このように壊してしまうことしかできないから……』
燃えていた建物も、爆発によって崩れた建物も、全て消え去ってキラキラと宝石のように輝く。
時間を掛けて築いた街並みも、建物に詰まった思い出も、一瞬にしてこの世から消え去った。
ルカの足元に影が戻り始めると、彼はレティシアの頬に手を伸ばす。
『……おまえがやらなければ、俺がやってたことだ……』
彼女の頬には涙が伝い、無理に笑顔を浮かべる彼女の表情はルカの胸を締め付ける。
それと同時に、自分が建物を消せばよかった、という後悔が彼の中に広がる。
『誰もおまえを責めないさ。おまえは領主として間違ったことはしてない』
ルカはハッキリ言うと、指の腹でレティシアの涙を拭いた。
しかし、複数の足音が聞こえ始め、人々が近付いてくることに彼は気付く。
「レティシア、とりあえず泣き止んで……みんなが来るよ」
ルカが優しく言うと、レティシアは汚れてしまったドレスの袖で涙を拭う。
彼女が抱いた些細な夢は、エディットが死んで叶わなくなった。
しかし、一部であっても、エディットも守ってきた街を、記憶を、娘のレティシアが消してしまった。
守りたかった思いは涙となって溢れ、悔しさだけが後悔として募る。
彼女はドレスの袖でもう一度涙を拭うと、真っすぐ前を向いた。
走ってきた者たちは口々に「領主様! 領主様!」と大きな口を開けて叫んでいる。
そのため、2人はこの場から離れるタイミングを逃したとも言える。
徐々に防御壁の中にいた人々が集まると、レティシアは彼らに頭を下げた。
「私の経験と力が足りず、皆さんが築き上げた物を壊してしまいました。申し訳ありません」
(私は、ルカのように領民を守ることはできなかった。彼らの築いたものを消したんだもの……罵倒されても、非難されても、仕方ないことを私はしたわ。だから……せめて彼らの思いは、真摯に受け止めるべきだわ……)
雪解けのようにその場が静かになると、わっと領民は一気に話し出す。
「なんだい、領主様はそんなことを気にしているんかい?」
「元々、フリューネ領にある物は、全て領主様のもんさ。守れきれなかったわしらが悪い」
「そうじゃな、領主様……すまねぇ」
「こんなことになって申し訳ない」
「領主様……でも、こんなことを考えた犯人だけは、絶対に捕まえてくれ! やられっぱなしは性に合わねぇ」
怪我人だけではなく、きっとこの爆発で亡くなった人もいる。
それでも領民の声は力強く、レティシアが想像していたものとは違った。
そのことが彼女の胸を締め付けたが、それでも彼女は目に涙を溜めて領民と向き合う。
「ええ、約束いたします。犯人には法の裁きを与えます。もし、それで帝国と対立してでも、必ず亡くなった方にも報いります」
彼らの声に答えるようにレティシアが言うと、領民の表情が柔らいものへと変わる。
「レティシア様はエディット様と同じで、領民のことを考えてくれることは、治療所や学び場で分かっておる……だから、あまり建物を壊したからと言って、思い詰めねぇでほしい」
「そうですよ! ここまで来てくれる領主なんて、他じゃきっといませんよ!」
「オプスブル家の領主様も、わしらを守ってくれてありがとうな。あの黒いのは領主様のだろ?」
「いえ、俺は……ただ……」
お礼を言われると思っていなかったルカは、言い淀むと唐突にバシッと背中を勢いよく叩かれた。
「なんだい、現領主は2人とも領民に対して腰が低すぎるぞ」
「そうよ、もうちょっと威張りなさいな」
「そうだ! そうだ!」
きっとレティシアとルカが、今回逆のことをしていても、領民は2人を責めなかったはずだ。
それは、確実にフリューネ家が、長年築いてきた信頼がそこには存在するからだ。
そして、領民の多くは、ルカが幼いレティシアを連れて、フリューネ家の庭園を歩いている姿を目撃している。
その話は巡り巡って、領民の間で囁かに語られてきたことでもあった。
そのため、現領主が信頼している人物を、領民も信じているのだ。
しかし、間違いなく彼が築き上げてきた、確かな信頼もあるのだろう。
今彼に向けられている視線には、偏見の目もなければ、彼の存在を否定する者もいない。




