第94話 揺れる信頼の陰に
所々ではあるが、記憶を取り戻したジャンの口から衝撃的な事実が告げられた。
彼の語った話から、彼が26年前に起きた事件の被害者だと思われる。
そして、ジャンが皇弟殿下と会っていたのなら、皇弟がどんな最後を迎えたのかも明らかになる。
けれど、レティシアはそのことを、ジャンに聞くのを躊躇っていた。
長い間、何ひとつ思い出すことがなかった記憶。
そのことから、頭部に強い衝撃と、強いストレスを受けたのは間違いがない。
レティシアは俯くと、ジャンとの思い出を振り返っていた。
レティシアが離乳食を食べ始めた頃から、ジャンはよく彼女の部屋をこっそりと訪れていた。
空いてるドアの隙間から顔を出し、彼女がジャンを見つけると、彼は彼女に笑顔を向けた。
また、時折彼は彼女の好き嫌いを聞いては、人指を口に当てながら「内緒だよ」と笑う。
それから、隠し持ってきたフルーツを搾ったジュースを、彼女にあげていた。
普通の子どもと違うのに、初めて彼女がしたことに対して彼は嬉しそうに喜んだ。
ダニエルが屋敷に戻るようになってからは、エディットと彼が他愛もない話で楽しそうに話していた。
どんなにエディットが暗い顔をしていても、ジャンは魔法を使ったみたいにエディットを笑顔にする。
その姿を見る度に、彼女はジャンとダニエルを比べてもいた。
そして、父親がジャンだったら、エディットはもっと幸せだったと思ったこともあった。
いつも無邪気に笑う彼が、記憶を無くしてしまう。
そのくらい、捕まっていた時に、酷い仕打ちを受けていたのかもしれない。
つらかった時のことを、無理やり思い出させ、彼を傷付けてしまうかもしれない。
そう思うと、レティシアは当時のことをジャンに聞けなくなった。
そんなレティシアの気持ちに気付いたのか、彼女の様子を窺っていたルカは静かに口を開く。
「つらいことを聞くようで悪いが、帝国では隣国に出ていると言われていた皇弟殿下がその事件に巻き込まれていたらしいんだ。ジャンは皇弟殿下にあったりしなかったか?」
ルカがジャンに尋ねると、レティシアはビクッと体を震わせた。
彼女はゆっくりジャンの方を向くと、悲しそうな表情を浮かべている。
「すみません……捕まっていた人たちや、犯人たちの顔は覚えていないんです……」
ジャンは悔しそうな表情を浮かべると、さらに拳を強く握った。
「そうか……悪いな」
ルカはソファーの肘掛けに頬杖をついて足を組み直すと、真意を探るような目をジャンに向けていた。
「なぁ、他に思い出したことはないのか? 例えば、名前とかさ」
「すみません」
「そっかぁ……本当に断片的に思い出しただけなのか。まぁ、当時のことで、また何か思い出したら教えてくれればいいよ。おれたちは、皇弟殿下がどういった扱いを受けていたのか、聞きたかっただけだし」
「お役に立てず、すみません」
ジャンがソファーに座ったまま頭を下げると、アランはまったく気にしていない様子だった。
「いいよいいよ、気にすんなって。早く本当の名前を思い出せるといいな」
「ありがとうございます。オレの話はそれだけだったので、オレは夕飯の準備してきますね」
「ああ、悪いな」
「今日も美味しいご飯を頼むなぁ」
「お任せください。レティシア様も、あまり気にしないでください。オレは大丈夫なので」
ジャンはレティシアの方を見て優しく笑いかけると、彼女も目尻を下げて笑って見せた。
「ええ、夕食を楽しみにしているわ」
「はい、では失礼します」
ジャンはそう言って立ち上がり、キッチンの方へと向かう。
しかし、彼の後姿を見ていたレティシアは俯くと、唇を噛んでいる。
「それにしえも、ジャンが当時の関係者だったのは驚いたな」
「そうだな。――レティシア、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
(ジャンはアランに名前を聞かれた時、わずかに瞳孔が開いた……きっと本当の名前も思い出していたんだわ。でも、なんでそれを隠したの?)
何気なくアランが名前を聞いた時、わずかばかりジャンの瞳孔が開いたのを、レティシアは見逃さなかった。
そのため、今までジャンのことを信じていた彼女だったが、彼が嘘をついたことで、信用していた気持ちが揺らぐ。
(このまま、ジャンにも私たちの会話を聞かせてもいいの? もし彼が仲間を裏切って、捕まっていただけだったら?)
レティシアはそう思うと、不安から少しずつ空間消音魔法の範囲を小さくしていく。
それは、些細な変化だったが、時間が経つにつれ、ジャンが変化に気付くことも彼女は分かっている。
それでも、今の彼女には、不安に思う気持ちが整理できない。
だが、アランはすぐに空間消音魔法の範囲が小さくなっていることに気付いた。
彼はレティシアの方を見ると、心配そうに彼女に尋ねる。
「ん? 疲れたのか? それなら、ルカかおれが変わろうか?」
「いいえ、まだ大丈夫よ」
「レティシア、範囲を小さくしていい」
「ルカ、ありがとう」
ゆっくり範囲を縮めていたレティシアだったが、ルカに範囲を小さくして言われるとそのスピードを上げた。
「何か気になることがあったのか?」
ルカは自然にレティシアに尋ねると、レティシアは首を横に振る。
「いいえ、ただ部屋全体を空間消音魔法で覆う必要はなかったって思っただけよ?」
「そうか、それならいい。だけど、絶対1人で動くなよ? 何かあったら俺か誰かに言え」
「はいはい、分かっているわよ」
ルカとレティシアは、まるで会話を聞かせているようだった。
空間消音魔法の範囲がテーブルとソファーの周りだけになった辺りで、ルカは真剣な面持ちでレティシアに声をかける。
「それで? 本当のところはどうなんだ?」
「さっき、アランがジャンに名前を聞いた時、ジャンは嘘をついたの。でも、なんで嘘をついたのか分からなくて」
レティシアは、気持ちの変化に気付いたルカに驚きつつも、素直に自分の気持ちを話した。
「レティシアは、ジャンが敵だった場合を考えたのか?」
「ええ、そうよ」
レティシアはルカが尋ねると、頷いて答えた。
しかし、話を聞いていたアランは、ジャンが向かった方を見て呟いた。
「なるほどなぁ、それはないとおれは思うよ」
「なんでアランは、そう言えるの?」
「いやぁ、おれもジャンが嘘をついたことには気付いたんだけどさぁ、だからその後に、おれは聞いただろ? 皇弟殿下が、どういった扱いを受けていたか聞きたかっただけだって」
「ええ、聞いていたわ」
「もし、ジャンが敵だった場合、少なからず動揺すると思ったんだよ。事件当時のことは覚えてなくても、断片的に思い出していたのなら、自分がどっちの立場だったかなんて分かるだろ? だけど何も変化がなかった。だから、警戒しなくてもいいとおれは思うんだよね。それにさ、いろいろと覚悟も必要だと思うんだよ……名前さえ思い出せたら、本当の家に帰る選択肢も増える。でも、名前を思い出したからっていう理由で、何十年も尽くしてきた家を追い出される可能性もあるって考えたら、本当のことを言えなかったんじゃないのか?」
アランの話を聞いたレティシアは、この時に初めてジャンが名前を言わなかった理由に、フリューネ家の使用人を辞めなければならない可能性もあるのだと気が付いた。
「それもそうね……お母様は、ジャンが本当の家に帰れることを願っていたから……」
「だろ? そのことをレティシアも知ってるなら、なおさら言えなくなったんだと思うよ? まぁ、本当の理由はおれは知らないけど。――レティシア、信じてやれよ。仮に敵だったとしても、ジャンは26年もフリューネ家のために働いたんだ。気持ちの変化もあるだろ、そこも考えてやれ」
「そうだな、俺もアランの意見に同意だ」
真面目な顔でそう言った2人は、堂々としていた。
彼らは少なくとも、ジャンのことを信じている。
それは、彼らの発言や態度からも分かる。
「そっか……そうよね」
レティシアはそう言って顔を伏せると、その目には涙が浮かんでくる。
(ダメね……ジャンまで疑ってしまうなんて、いつかジャンが名前を教えてくれた時……彼にこのことを謝ろう……)
レティシアは長年フリューネ家のため、そして自分に尽くしてくれたジャンを疑ってしまった。
そのことに対し、申し訳ない気持ちと、安易に考えてしまった自分が恥ずかしくなった。
「別に疑って警戒することは、悪いことじゃない。俺やアランも立場上、いろんな疑いを持って人と接する機会が多いからな」
「そそ、だから気にすることなんてないと思うよ? むしろ、レティシアはよく人のことを見てるから、おれはいいと思ってるよ」
「うん……2人とも、ありがとう」
涙を拭ってレティシアは顔を上げると、ぎこちなく笑いながら言った。
1人で悩んでいたら、きっと選択を間違えていたかもしれない。
そのことを思うと、彼女は2人に話して良かったっと心の底から思った。
「さてと、それなら破片についてはラウルに任せるとして、問題は誰が魔物を操っているかだよなぁ。アルノエがいないのを考えると、もうルカは怪しいと思ってる人物がいるんだろ?」
「ああ、まだ証拠がないから、なんとも言えないけどな。後でレティシアとステラに、そのことで頼むことがあるかもしれないが、その時は頼んでもいいか?」
「ええ、もちろんいいわよ。私にできることがあるならやるわ」
「そう言ってくれて、ありがとう」
「んじゃ、今日はここまでだな。あ、一応空間消音魔法の範囲を広げておいてほしい。疲れたらおれも変わるからさ」
「分かったわ、ありがとうアラン」
迷いが晴れたレティシアは、空間消音魔法の範囲を部屋全体に広げた。
そして、アランが立ち上がると、彼女はアランに転移魔方陣をどこに描けばいいか聞いていた。
けれど、その様子を静かに見ていたルカは、1人で思考を始める。
彼は口元を手で隠すように頬杖をつき、もう片方の手で肘掛けをトントンとたたく。
視線は先程までジャンが座っていた位置に移り、暫くすると肘掛けをたたいていた指は止まった。
「なるほどな」
ルカは小さくそう呟くと、再びレティシアに視線を戻した。




