第1話 病める門には猫来る
目が覚めると、胃に不快感を覚える。
教科書通りの食生活を送っているわけではないが、健康云々由来の感覚ではない。
気まずさを抱えたまま別れた友人からの新着メッセージを通知のみで認知した時のような、部活動に遅れて誰もいない更衣室で黙々と着替えている時のような、そんな不快感。
同時に数年前までは覚えることのなかった焦燥感が体の中を常に駆け巡り、満たしていた。
大学を卒業して、一般企業に入社した。新入社員という立場は否応にして気を引き締めさせられるが、昨今のコンプライアンス意識のおかげか業務を行う上で直接的に気を病むことはない。
チームビルディングや隔週で行われるささやかな飲み会でも、各々が攻めるべきラインと引くべきラインを意識しているおかげで、遠慮を孕みながらも円滑なコミュニケーションが場を生暖かく包み込む。
先行き不透明な未来に不安はあれども現状に不満はない。土日のどちらかには気楽な予定も入れている。
しかし、毎朝目が覚めると、胃に不快感を覚える。
振られた。一年の片思いだった。
節目節目で想いを伝えたが随所随所でひらりと交わされ、先日の告白において気になっている人がいると言われた。
矮小なプライドゆえに平然と身を引いてみたものの、片思い期間の長さと結果のギャップにやられて少しだけ家で吐いた。文字に起こすと案外あっさりとしているものだ。
職場や出身校繋がりでストックはあったものの、同じコミュニティに手を出すことに気が引けたため、マッチングアプリを入れた。
検索窓から無限に拾える紋切り型の常套句は、しがらみのない初対面の人になら容易く投げることができた。誕生日や出身県すらいまだに覚えていない人と、つまらないカフェで食事を重ね、面白くもない光や炎を観に行き、その後も流れに沿った行為をした。長く続くこともなく、大抵互いを蔑ろにして終わった。
一連の流れを繰り返すうち、少しの余裕と引き換えに自らを嫌いになっていた。
嫌悪感と共にアプリは消した。
土日の空白が続いた。ネット記事を貼り付けただけの薄っぺらいショート動画とインスタの反復横跳びをするうちにお天道様が沈んでいった。
かつて同じスタートラインに立っていた元同期は各々の場所で光り輝いていた。インスタのストーリーをスワイプするたびに胸がざわつき、次第にログインする頻度も少なくなっていった。
何がトリガーになったのか、ちりが積もって山となったのか。東京の片隅の1kアパートで、物悲しくなり少し涙が出た。何も生み出さず、貴重な今を貪って、惨めで惨めで、情けなくなった。泣き疲れて眠りにつき、畳の跡を頬に付けながら朝日を浴びた。と無遠慮に光を浴びせるお天道と閉め忘れたカーテンに怒りを覚え、むしゃくしゃしながらタオルを掴みシャワーを浴びた。その日は過去最高に不愉快な感覚を腹に覚えた。
梅雨が明けた土曜日の夜頃、縁側に猫が来た。一切鳴くことのない、つやつやの黒毛に満月のような黄色い瞳の猫だった。初めてきた日は少々撫でさせてもらった代わりに、余っていたささみを献上した。初対面の人間に物おじせず、じっと目を見つめてくるその様は少々不気味だったが、可愛さが多少上回った。その猫は味をしめたのか、二、三日に一回のペースで夜の縁側に訪れた。ささみに味をしめたのか、ちょろい人間に目をつけたのかわからないが、初日の静かさが嘘だと思うくらい、にゃあにゃあと窓越しに鳴き続けていた。その度にささみを献上した。絵の具のような黒さと、夏という季節やなんとも言えない不気味さが小学校の頃に流行っていたゲームの裏ボスを想起させた。その猫を「どんどろ」と名付けた。
どんどろが初めて来た夜から1ヶ月が経った頃、キャットフードを買い込んでいる自分に驚いた。寂しさを埋めるように、どんどろに貢ぐようになっていた。側から見たら狂人の如く、ここ数日の出来事とそれに対するお気持ち表明などを一匹の野良猫に語りかけていた。
「聞いてよどんどろ、今日は久々に理不尽というものを体験したよ。」
「なあ、どんどろ。休日の食費を浮かすために、遅い昼ごはんでラーメンだけ食べるってどう思う。」
「恋は盲目てよく言ったもんだよなあ、どんどろ。」
「Heyどんどろ。明後日のアイスブレイクに適切な話題ない?あるわけないよな。」
はっきり言って異常者である。毎度、どんどろは膝下で丸まりながら、うんざりした顔で相槌のように鳴いた。
都会の夜空に呑まれぬように、寂寥感を一瞬でも紛らわすために、どんどろに話しかけ始めてから数ヶ月が過ぎた。
そして木枯らしが肌寒くなってきた頃、事件は起きた。
「倫、くどい。」
どんどろが喋った。しかも名前を呼んだように聞こえた。
「毎度毎度似たような話ばかり、人間の分際でさ…」
その日は酒に酔っていた。寂しさがとうとう脳みそに異常をきたしたのかと思った。わずかに残っていた冷静さの残滓を動力として、「人間の分際」と聞こえた気がしたあたりでヒーターを室内に入れ即座に布団に潜った。
翌朝は休日だった。
灰色の空を眺めながらぼんやりと起きながら、お天道様を取り入れようとカーテンを開けると、頬を膨らませて眉間に皺を寄せたどんどろがそこにいた。
「猫が話している途中に寝支度を整えやがって。」
どんどろが言い終わると同時に、今までで一番大きい悲鳴で近所を包んでしまった。